民主主義とリーダーシップ / Irving Babbitt
政治思想 / Irving Babbitt
訳者一言 「俺がそう感じるんだから、その感じ方に口を出してくるのはおかしいだろ?」という現代的感覚が実はとんでもない方向へ言っているのではないかという話。 AI要約 経済→政治→哲学→宗教へと問題は深まり、近代の「自然主義的傾向」(とくにルソー的思潮)がその核心にあると論じる。 物質的進歩を善と取り違えると、欲望の無制限な拡張(権力志向)を招き、民主主義はしばしば帝国主義・暴力へ転化しうると警告する。 必要なのは「拒否(ヴェトー)」「節度」「内面の統制」という意志の質であり、感傷的人道主義や空想的理想を抑える基準だと主張する。 西洋近代の欠落を補う鍵として、謙虚さ・高次の意志・鍛えられた想像力(経験に基づく判断)を回復し、真の自由と文明を支えるべきだと結ぶ。 ロイド・ジョージ氏によれば、将来は現在にも増して、経済問題、とりわけ資本と労働の関係がほとんどすべてを占めるようになるという。 だとすれば、と言い返したくなるのだが、未来はずいぶん浅薄なものになってしまうだろう。 どれほどかでも徹底して考察すれば、経済問題は政治問題へ、政治問題はさらに哲学問題へ、そして哲学問題そのものも、最後にはほとんど切り離しがたく宗教問題と結びついていることが分かるはずだ。 本書は、私が近代の動きに潜むこうしたより深い含意を浮かび上がらせようとしてきた一連の著作の、ただ一冊にすぎない。 それぞれ扱う主題は異なるが、同じ「自然主義的傾向」への関心によって諸巻は結びついている。この傾向は、主要な側面のいくつかに限っても少なくともルネサンスまで遡るが、18世紀に伝統に対する決定的な勝利を収めた。 現在の世界を準備した18世紀の人物の中で、私はここでも、そして私の他の著作でもそうしてきたように、ルソーに最も重要な位置を与えている。 事実を調べた者にとって、この卓越を否定するのは難しい。たとえアクトン卿の言うところの「ルソーは、その筆で、アリストテレスやキケロや聖アウグスティヌスや聖トマス・アクィナス、あるいはこれまで生きた誰よりも大きな影響を生み出した」とまで言う必要はないにせよ。 もし私の分析が正しいなら、思想史におけるルソーの最大の特色は、正しい問いに対して誤った答えを与えた点にある。 正しい問いを立てたというだけでも、決して小さな功績ではない。 いずれにせよ、私が本書の主題を論じる際の枠組みは、ルソーから示唆を受けたものである。 彼は急進民主政の理論家の中では疑いなく第一人者であり、同時に文明を攻撃した者たちの中でも最も卓越した人物である。 さらに彼は、民主政の擁護と文明への攻撃とを、明確に相互関連づけた。 この点で彼は、民主政を文明と野蛮の対立ではなく、進歩と反動の対立に結びつける人々よりも、いっそう深いところに踏み込んでいるように見える。 なぜなら、人間が文明へ向かって進んでいることを示せないのに、どうして進歩すべきなのか。あるいはまた、ルソーの言うとおり野蛮のほうが幸福だというなら、進歩にいったい何の価値があるのか。 もし十分に明晰に考えるなら、進歩派と反動派の対比を第一に据える人は、いくぶん時代遅れの、19世紀の残存物として退けられ、むしろ本質的な対比である文明人と野蛮人の対比へと注意を向けることになるだろう。 実際、19世紀の人間は、自分が促進しようとする進歩の型が文明への進歩であることを、当然の前提としていた。 * 『アクトン卿書簡集(宛先メアリー・グラッドストン)』xii頁を参照。 この点に疑いを抱き始めた者もいた。戦争以前から疑い始めた者もいれば、戦争そのものによって疑いが呼び覚まされた者もいる。さらに、講和によって疑いを深めた者もいる。 「はるか彼方の神的出来事」へ進んでいると思いながら、実際にはハルマゲドンへ向かって進んでいた時代は、推測せずにはいられないが、進歩観そのものに根本的な混乱を抱えていたのだ。 この混乱の性質を見抜く助けとして、私はこれまでの著作でかなり用いてきたエマソン流の区別、すなわち「人間のための法」と「物のための法」の区別を挙げたい。 孔子が最も愛した弟子を特に褒めたのは、彼が「常に進み、決して立ち止まらなかった」からだという。 孔子が明らかに念頭に置いていたのは、人間の法に従った進歩である。 これに対して、19世紀の人間が通常この語で意味したのは、疑いようもなく物質的進歩だった。 彼は、この主題について少しでも考えた限りでは、道徳的進歩は物質的進歩からほとんど自動的に生じるものだと想定していたように見える。 だが、人間経験の二重性を踏まえるなら、この問題全体は、ありふれた進歩主義者が疑ってもみなかったほど、はるかに複雑なのである。 自然法に従った進歩が文明に資するためには、何らかの十分な目的に従属させられなければならない。しかも自然法それ自体は、その目的を与えてはくれない。 この真理を軽視した結果として、自分を進歩的だと思い込みながら力と速度をそれ自体のために追い求める人間が生まれる。ある人の言い方を借りれば、どこへ行くかなど気にせず、とにかくますます速くそこへ行けることだけを望む人間である。 もし進歩と文明がこの程度の意味しか持たないのなら、ルソーが野蛮を好んだとしても、その気持ちを共有するのは正当化されうる。 彼が文明より野蛮の状態を好む理由として挙げる点は、それ自体きわめて重い。すなわち、野蛮の状態のほうがより友愛的だ、というのである。 友愛の精神は、真の哲学だけでなく真の宗教の精華でもある。 それを得るためなら、ほとんどどんな犠牲でも払う覚悟があるべきだ。 しかし私の試みは、ルソーの友愛が単なる感傷的な夢にすぎないことを示すことにあった。 この夢に含まれる心理的な不可能性は、明白であり、むしろ目に余るほどである。 たとえば、ルソーのアメリカにおける主要な追随者の一人であるウォルト・ホイットマンは、万人の兄弟愛を説くが、その「万人」とは、彼自身と同じく「いかなる危険をも顧みず発言することを許され、 抑制なき自然が本来のエネルギーをそのまま発する」者たちなのである。^ つまり別の言い方をすれば、 ホイットマンは、宗教的徳である兄弟愛を、際限なく膨らむ欲求の上に据えようとしているのだ。 私は本書でも他の著作でも、ルソーやホイットマンが構想する民主的友愛と、功利主義者が構想する進歩とは、ある点ではどれほど衝突しようとも、結局は同じ自然主義的運動の異なる側面にすぎないことを示そうとしてきた。 この運動は、全体としてはヒューマニタリアニズム(人道主義)と定義しうる。 私は数年前、この運動には何かが欠けている、と大胆に主張したことがある。そしてその「何か」は、やがてアーチを支える要石であると分かるかもしれない、というのである。‘ * 『Song of Myself』を参照。 この中心的な欠落から生じる誤りは、さまざまな形を取る。 私はほとんど思いつきで、その中でもきわめて粗雑な形態を一つ選ぶ。それは、最終的に「世間一般の人」に届いている形態である。 発行部数の多い雑誌『フォトプレイ』のある筆者が、 「〜するな」と言う人々を非難する社説の段落をいくつも費やしている。彼らは、ただの破壊者であり、あらゆる寛大で創造的な衝動の敵だ、というのだ。 「するな」を取り払ってこそ、人は師の言葉「わたしが来たのは、あなたがたに命を得させ、しかもそれを豊かに得させるためである」を成就するのだ、と。 ヘンリー・フォード氏なら、おそらくそうした言辞を、異邦人の文明を破壊するための大きなユダヤ陰謀の一部として一蹴するだろう。 しかし、そのように「人間性のうちで拡張していくものはすべて神的である」と言明したのはユダヤ人ではなく、スタール夫人であった。 この「神的な拡張性」という観念は、スタール夫人以前の西洋にも長い歴史をもち、局面によっては少なくとも新プラトン主義者にまでさかのぼる。 いずれにせよ、「〜するな」を捨て去ることで(宗教的な意味で)より豊かな生に達するのだ、という主張は、私が異議を唱える近代の運動の一面を、極端な形ではあるが明瞭に要約している。 とりわけ本書は、あらゆる仕事のうちでも最も不人気なものに捧げられている。すなわち、拒否権(ヴェトー権)を擁護することである。 私たちが生きるこの特異な時代の、少しも見逃せない特異さは、拒否権の話を最も聞きたがらない当の人々が、同時に、拒否権の行使に依存する徳目、たとえば平和や友愛を自分たちこそ体現しているのだと最も確信している、という点にある。 * 『近代フランス批評の巨匠たち』(1912年)188頁を見よ。 いかなる種類の拡張主義者に対しても、私はためらわずにこう断言する。人間において固有に人間的であり、ついには神的でもあるものは、ある種の意志の質である。それは、日常的な自己との関係において、抑制し控える意志として感じられる。 この意志の質を肯定すること自体は、新しいことではない。霊の法と肢体の法との対立という、パウロ的な対置のうちに含意されている。 一般に、知性よりも意志に第一の地位を与えるのは東洋的である。 謙虚という観念、すなわち人はより高次の意志に従う必要があるという観念は、東洋の宗教であるキリスト教とともにヨーロッパにもたらされた。 そしてこの観念は、キリスト教の衰退にほとんど正比例するかたちで地歩を失ってきた。 意志の至上性を認めることが、賢明な人生観には不可欠だと私には思われるゆえに、私は重要な点でキリスト者に与する。古代であれ近代であれ、西洋において知性や感情のいずれかに第一位を与えがちだった人々に対してである。 しかし私はキリスト者とも異なる。より高次の意志と、それが人間の拡張的欲望に対して行使する拒否の力への私の関心は、宗教的というより人文主義的だからである。 言い換えれば、真の宗教が常に行き着く瞑想よりも、世俗の関係において人間を律すべき「節度の法」を守り行うこと、すなわち中庸の法の媒介と実践に、私はより関心がある。 さらに私は、この人文主義に、単なる伝統としてではなく、積極的かつ批判的な仕方で到達したい。 その限りで、私は自然主義者に与する。彼らは当初から、外的権威を退け、直接的で実験的なものを選び取ってきた。 科学者が自然法をこのように批判的に扱う限りにおいては、ただ敬意を払うべきである。しかも、人間性そのものの少なからぬ部分が自然法のもとに属している。 誤りは、この法を人間性の全体にまで拡張しようとするところから始まる。 それは外的権威を否定するだけでなく、即時の経験に属するある事実、すなわち個人が自分の内に意識する、霊の法と肢体の法との対立を否定することになる。 この対立を否定するか、あるいはごまかすなら、同じ程度に応じて内面生活は消え失せていきがちである。 カーライルが、フランス革命のルソー主義と真のキリスト教とを対比したのも、結局は、感傷的であれ功利主義的であれ一般のヒューマニタリアニズム(人道主義)と、より高次の意志を肯定するいかなる教説ともを対比したものでもある。 「ああ、違うのだ、ルー氏!」 とカーライルは叫ぶ。 「四人の古い福音書のいずれにもよらず、人々に悔い改めと、各自が自分の邪悪な生を改めることを求め、そうして救われよと呼びかける友愛の福音ではない。むしろ、われわれがしばしばほのめかすように、新しい第五の福音書記者ジャン=ジャックに従う福音であって、人々に、世界全体の邪悪な生を各自が改めよと呼びかけ、憲法を作ることで救われよというのである。 まったく別物で、天地ほど隔たっているのだ。」 社会改良で自己改良を置き換えるこのやり方に対する私の異議は、それが、より直接的なものから、より間接的なものへと背を向けることを含む点にある。 一般に私は、功利主義的-感傷的運動への批判において、形而上学的・神学的な前提を避け、膨大でなお増え続ける証拠に支えられた心理分析に依拠しようとしてきた。 この意味で私の人文主義は、積極的で批判的であるだけでなく、結局は同じことになるのだが、個人主義的でもある。 現下の条件のもとで、重要な闘争は、無軌道な個人主義者と伝統主義者との間でもなく、また通例そう考えられているように、無軌道な個人主義者と利他主義者との間でもなく、健全な個人主義者と不健全な個人主義者との間にある、と私には思われる。 健全な個人主義者であるためには、過去とは多かれ少なかれ完全に決別しつつも、内面生活の真理を手放さずにいる必要がある、というのが私の考えである。 いま私が、政治問題との関わりにおける意志の問題を、批判的であり同時に人文主義的でもある仕方で扱おうとしている試みを、よりよく理解してもらうために、ここで私の議論のいくつかの先行段階について少し述べておくとよいかもしれない。 『文学とアメリカの大学』の冒頭章で私は、人文主義者と、功利主義的ないし感傷的なタイプのヒューマニタリアニズム(人道主義)者とを区別しようとしている。 私は運動のこの二つの側面を、ときに、それぞれを著作と人格において最も完全に先取りしたと思われる人物の名にちなみ、ベーコン主義的、およびルソー主義的と呼ぶ。 私が指摘したように、ヒューマニタリアニズム(人道主義)者は、人文主義者のように個人とその内面生活に第一義の関心を置くのではなく、ひとまとめにした人類全体の福利と進歩に関心を置く。 彼の好む言葉は「奉仕」である。 人文主義を、ヒューマニタリアニズム(人道主義)を略記した、より便利な言い方にすぎないと見なす最近の傾向は、きわめて悪質な混乱の源でしかありえない。 『近代フランス批評の巨匠たち』では、批判的人文主義の擁護をさらに一段進めようとしている。 内面生活の基礎が、下位の意志とより高次の意志との対立にあるとしても、より高次の意志は、結局のところ、でたらめに働くことはできない。 それには基準が要る。 かつては、その基準は伝統によって与えられていた。 たとえばキリスト教の伝統を受け入れた人は、自分の下位の本性にどの種の、どの程度の規律を課すべきかについて、疑いを抱かなかった。 その結果、彼は自分自身との間にも、また同じ規律を受け入れる他者との間にも、ある程度の道徳的統一を達成した。 他方、個人主義者が基準を持とうとするなら、伝統的な人生の統一から決別する度合いに正比例して、批判精神に依拠しなければならない。 彼は出発点において、哲学上もっとも難しい問題の一つ、すなわち「一者」と「多者」の問題に直面する。 というのも、事物の無限の他性を測るためには、どこかに「一性」の要素がなければ、基準は存在しえないのは明らかだからである。 『巨匠たち』の特別の主題は、「一者」と「多者」の問題であり、サント=ブーヴその他の卓越したフランスの個人主義者たちがこれに十分に対処できず、そのため近代的な仕方で基準を確立できなかったことにある。 過去一世紀の批評的努力の成果は、おそらく「相対性」という一語にもっとも完全に要約できる。 批評が、個人の移り変わる印象や現象界の流転の上に立つ判断の中心をついに獲得できなかったことは、もし私が示そうとしてきたように文明が究極的には基準の維持に依存するのだとすれば、文明そのものの敗北である。 『新ラオコーン』では、基準が漸次衰退するにつれて文学と芸術に生じた無政府状態を明らかにしようとした。 表面上、この無政府状態は何よりも感情の無政府状態に見える。 しかし注意深く見れば、感情の無政府状態そのものは、より微妙で危険な何ものか、すなわち想像力の無政府状態の徴候にすぎないことがわかる。 『ルソーとロマン主義』は『新ラオコーン』と議論上緊密に結びついた書物だが、そこで想像力の問題は特別に扱われている。 ここで私は、私が擁護している人文主義の型の、もう一つの特徴的な点に触れたい。 私はギリシア・ローマ伝統の人文主義者よりも、理性より意志について多く語り、しかも想像力にきわめて重要な役割を与える。 ディドロのように、自然的・拡張的な意志と、抑制しようとする意志という固有に人間的な意志との葛藤を「人為的」として退けないで、むしろそれを意識の根源的事実として主張するなら、私はさらに次の結論へ導かれると思う。すなわち、この「洞窟内の内戦」の帰趨は想像力の態度によって決まり、言い換えれば想像力こそが、人間のより高次の本性と下位の本性とのあいだの力の均衡を握っている、という結論である。 歴史の光に照らしてみれば(第一次世界大戦まで遡る必要すらない)、人間が通常の意味で理性によって統治されているという人間の見せかけは、悪い冗談のように思われる。 批評的観察者は、ナポレオンの「人類を支配するのは理性ではなく『想像力』である」という言葉に同意せざるをえない。 しかしそれは、人類が、過去一世紀において大部分そうであったように、ナポレオン的な質の想像力によって支配されねばならない、ということを意味しない。 想像力という語はあまりに多様な意味で用いられてきたため、もはや何の意味も持たなくなった、という不満が述べられてきた。 この語についての私自身の理解は、簡単な歴史的概観によって、あるいはより明らかになるだろう。 私たちのこの語の源であるラテン語 imaginatio は、それ自体、ギリシア語の phantasy(fancy、φαντασία)を訳したものである。 fancy とは文字どおりには「現れるもの」を意味する。すなわち、感覚のさまざまな印象であるか、あるいはそれらの印象を蓄え、その点で記憶と密接に結びつく能力である。 ギリシア哲学は、実在(それを理性あるいは精神と同一視しがちであった)に比べて、この意味での「fancy」すなわち外観には、かなり低い評価を与えた。 とりわけストア派には、理性が感覚の門口を打つあらゆる印象を支配し、その中から厳しく取捨選択することは、可能であるばかりか不可欠であるように思われた。 「いかにたやすいことか」とマルクス・アウレリウスは言う、「心を乱し異質であるあらゆる『fancy』(すなわち印象)を払いのけ、拭い去って、たちまち完全な平安に入ることは。」 この意味で fancy を貶める見方は、すでにプラトンにも見いだされる。 彼は、私たちの「fancy」によってこちらへあちらへ引き回されない、「確固とした真理」に到達したいと望む。 これに対してキリスト教的謙遜の主要な源泉の一つは、人間は自力ではそのような真理を達成できない、そしてとりわけ、単なる理性は感覚の欺瞞に打ち勝てない、という確信であった。 ^『クラテュロス』386E。言うまでもなく、想像力(この語に私たちが与えるようになった拡張的意味における)のより高次の用法について、プラトンほど優れた例を示す哲学者はいない。 この拡張的意味におけるプラトンの想像力論は、用語法の変化を十分に勘案したとしても、完全に把握するのは容易ではない。 たとえばパスカルは、想像力という語に、ストア派がそれ(またはそのギリシア語に当たる語)に与えたのとほぼ同じ意味を与え、そしてストア派と同じく想像力を貶めるが、その貶めに理性の貶めをも付け加える。 彼が、「誤謬の女主人」にすぎない想像力と、その誤謬に抗しえぬ無力な理性に対置するのは「心」であり、彼の言う心とは、恩寵という形をとる、より高次の意志の照明を意味する。 この内的啓示は、それ自体、外的啓示の支持を持つ。 ここにおいてこそ、彼は、ついに真理と実在の確固たる足場が見いだされる、と考える。 彼は、外的啓示にも「心」の生活にも、想像力がいかなる役割も持つことを認めない。 彼はこの点で少なくともプラトンと共通するところがある。すなわち、想像力(あるいは単なる外観)と実在とのあいだに、 確固として動かしがたい一線を引くことが可能だと信じている点である。 しかし厳密な心理学は、そのような真と偽の鋭い区別をほとんど正当化しない。 むしろそれは、ジュベールの「幻想は実在の不可欠な一部である」という言葉とともに結論せざるをえないのである。 この結論は、単なる教条にとってどれほど有害であろうとも、基準を放棄せよと私たちに迫るものではない。 しかしその場合、想像力という語の別の可能な意味、すなわち西洋思想においてこの語が実際に持ってきたと言ってよい第二の主要な意味に注意を向けねばならない。 この別の意味において、この語は、内的であれ外的であれ「知覚するもの」よりも、「構想するもの」を指す度合いが大きい。 なお conceit という語は、古い英語の用法では、褒め言葉であっただけでなく、想像力の同義語の一つでもあったことを思い起こしてよい。 この語が今日のような、うぬぼれた空想という不利な意味を帯びるに至った過程には、それ相応の歴史的説明があるが、ここでは立ち入らない。 さて「conceive(構想する)」とは、ほとんど語源的な意味で言えば、事物を寄せ集め、類似と類推を見いだし、そのかぎりで、さもなければ単なる異質の寄せ集めにすぎないものを統一することである。 コールリッジはやや衒学的に、想像力とは「esemplastic」 な力、すなわち諸々のものを一つに形づくる力だと言う。 コールリッジがこの見解を展開している箇所は、私が想像力という語の第二の主要な意味と呼んだものの、英語におけるおそらく最良の例を与えている。 他方、もう一つの主要な意味の例としては、『スペクテイター』に載った想像力についてのアディソンの論文に目を向ければよい。 アディソンは、想像力を外的知覚へと還元する傾向があるだけでなく、ギリシア語 fancy のラテン語訳に促されて、外的知覚そのものを視覚的知覚へと狭める。 想像力を、単に知覚するものではなく構想するものと理解するなら、想像力の問題が「一者」と「多者」の問題、したがって基準の問題と密接に結びつくことは必然である。というのも、繰り返すが、少なくとも批評的な道筋において基準を獲得するには、人生の単なる多様性と変化を測るための、持続する統一がどこかに見いだされねばならないからである。 「幻想は実在の不可欠な一部である」からといって、想像力が構想しうるいかなる統一も、したがって幻想的なものとして退けられねばならない、と私たちが想定する根拠はない。 いささか逆説を好む人物なら、現実という問いそのものを直接持ち出さなくとも、なお基準はありうると言い張るかもしれない。すなわち、人間はたいていの実際目的において、その人の幻想の質、そして幻滅の質によって、十分に正確に測れるのだ、と。 しかし、絶対的な統一と現実がつねに私たちの手からすり抜け、一般に「絶対」なるものは形而上学的な夢として退けねばならないとしても、それでも私たちは、経験的根拠にもとづいて、ある特定の人生観が事物の本性によってどの程度まで是認され、あるいは否認されるかを見定め、それに応じてそれを多かれ少なかれ「現実的」だと評価することはできる。 シネシウスによれば、神は想像力を通して人間と交わる。 だが不幸なことに、悪魔も同じ道で人間に語りかける。そして、これらの交信の試金石は、厳密に言えば、想像力そのもののうちにはない。 私たちの想像の質を定めるには、知覚する力と構想する力に、第三の力、すなわち弁別する力を付け加える必要がある。 人間を諸々の力ないし機能に分けることが、多少とも恣意的であるのは承知している。だが、思考の道具としてであれ、それは避けがたい。そしてここで私が用いる三分法は、実際上きわめて有用なものの一つだと、私は信じている。 私が弁別する力の重要性を強調するときに念頭に置いているのは、この力が抽象的に働くのではなく、経験という現実の素材に即して働く、ということである。 私の立場全体は、おそらく次のように言えば最もよく要約できる。すなわち、この世界で最後にものを言うのは、想像力と弁別力とを併せ持った集中を、事実に向けることだけだ。 ところが、人が知覚し、そこに集中しうる事実は、数が無限であるばかりか、まったく異なる次元に属している。 これが、物質的進歩が道徳的進歩を保証するどころか、むしろそれと結びつけることがきわめて難しい一因である。 物質的進歩は、自然法の事実へ、ほとんど専制的と言ってよい集中を払うことによって勝ち取られてきた。 人間の集中力には限りがある。だから物質的進歩の代償として、人間は、まったく別の次元の事実、すなわち人間の法の事実への不注意を増大させてきたのである。 その結果生じた精神的盲目は、ネメシスを招き寄せる誘いとなった。 このネメシスの性質は、第一次世界大戦や、近ごろ私たちの西洋社会で増殖している同種の諸症状から、いくらか推し量ることができる。 言うまでもなく、「進歩」の党派は自分たちの精神的盲目を認めてはいない。 彼らは、伝統的基準と、それが促してきた道徳的統一の代わりとして、人生を新たに統一し直す幾つかの方式を有効だと受け入れた。そこにはたしかに豊かな想像力があるが、その想像力は現実の観点から十分に試されてはいない。 人間を統一するこうした新しい構想は、とりわけ、いわゆるロマン主義運動に結びついて栄えた。 だからこそ、この運動の指導者たちが、弁別の廃墟の上に、創造的想像力の崇拝を意図的に築き上げたことを示しうる、というのは小事ではない。 自然法にも人間の法にもよって鍛えられていないこの種の想像力の産物を真に受ける者は、ヤングの言葉で言えば、自分のキメラの領分を荒々しくさまよう自由を与えられた想像力に身を任せ、ただのうぬぼれた空想、空しい夢想へと堕してしまう。 うぬぼれた空想はつねに人間に固有の病であったが、おそらく今日ほどそれが甚だしい時代はない。 後世から振り返れば、現代人の際立った特徴は、試されてもいないうぬぼれた空想を「理想」としていとも容易く差し出した、その手際のよさだったように見えるかもしれない。 私たちは皆、自分のうぬぼれのうちでは高邁な「理想主義者」だが、いざ試されると破滅的な夢想家にすぎなかった、という種類の人物に慣れ親しんできた。 人間が想像力に支配されているとしても、幸いなことに、それゆえ必ずうぬぼれた空想に支配されねばならない、ということにはならない。 ただの夢想家と、真のヴィジョンを持つ人との区別が、なお残っている。 この区別が十全の重要性を帯びるのは、それが指導性の問題と結びつくときである。 私の当面の議論の主眼の一つは、善か悪かは別として、真の指導者はいつの時代にも必ず存在すること、そして民主主義がこの真理を回避しようとするとき、文明にとっての脅威となることを示す点にある。 とりわけ、「一般意志」を反映するとされる数の多数によって、指導性の代替が見いだせるという考えは、有害なうぬぼれた空想にすぎない。 長い目で見れば、民主主義も他の統治形態と同様に、その指導者の質によって判断される。そしてその質は、ひいては彼らのヴィジョンの質に依存する。 「幻(ヴィジョン)がなければ民は滅びる」と言われる。だが偽りの幻があるところでは、さらに速く滅びる。 私は時に、現代の最悪の困難は、ヴィジョンの欠如からというより、偽りのヴィジョンから生じているのではないかと思いたくなる。 言い換えれば、この時代について不安を覚えるのは、露骨に公言された唯物主義というより、むしろこの時代が霊性だと思いなしているものなのである。 真のヴィジョンを持つ人にのみ属すべき功績を横取りしてきた夢想家たちの中で、少なくともこの近代において、ルソーほど目立つ者はいないと私には思われる。 彼が私たちに「回帰せよ」と促すところの「自然」は、ただのうぬぼれた空想にすぎない。 このうぬぼれた空想は、人間のより高次の自己の真の声であるべき生きた統制の代わりに、拡張してゆく感情を据えるよう私たちを促す。 理想の上では、この置き換えは、友愛精神の勝利として標識づけられるはずである。 だが実際には、私が示そうとしてきたように、感情をただ拡張させるだけのうぬぼれた空想に屈した結果は、友愛ではなく、退廃した帝国主義である。 私は本書で「帝国主義」という語をかなり用いてきたが、その意味は英米の読者が通常なじんでいるよりも、やや広い。 私の根拠は、あらゆる他の帝国主義の背後に、個人の帝国主義、すなわち権力への衝動が見いだされる、という事実にある。 この点に関するかぎり、私は、ベルクソンが「帝国主義は、いわば生命の躍動(エラン・ヴィタル)に内在している。 「それは、個人の魂の底にも、民族の魂の底にもあるのだ。」 エラン・ヴィタル崇拝によって、ベルクソンはルソーからの系譜のまっすぐな延長線上にいる。 しかし、師と弟子のあいだには、弟子のほうにとって有利な重要な相違があることを指摘しておかねばならない。 ベルクソンは、エラン・ヴィタルの上に友愛を打ち立てようとはせず、友愛はむしろフラン・ヴィタル(frein vital)の実践のうちに求められるべきだとする。 それどころか、エラン・ヴィタルは、彼が率直に認めているとおり、帝国主義的なのである。 1 E・セイリエール著『バルザックとロマン主義道徳』へのベルクソンの序文注を見よ。 新しいベルクソン流の至福によれば、地を継ぐのは心の貧しい者ではなく、もっとも力強い生命衝動をもつ者たちである。 著者自身の解釈によるこの世界的に名高い哲学と、「パンチ」への俗悪な賛嘆とのあいだの親近性を見落とすのは難しい。 ルソーからベルクソンに至るまで本能の賛美が助長してきた帝国主義の型を私は「退廃的」と呼んだが、この形容には一言の注釈が必要であろう。 たとえ「帝国主義」という語を心理的な意味ではなく、より一般的な政治的意味で用いるにしても、帝国主義にはさまざまな型があることは明らかである。 たとえば、ローマ人を世界の覇者にした帝国主義は、ティベリウスやネロのもとで彼らが卑屈に身をかがめていた時代に支配したそれと同じ種類ではない。 それでも、古い帝国主義が最終的に退廃の色を帯びてゆく過程をたどることは可能である。 ローマにとって決定的だったのは、国家の指導者たちがカルタゴのような危険な競争相手による抑制的影響をもはや感じなくなった、勝利の瞬間であった。 同時に彼らは、伝統的統制を振り払おうとしはじめるという意味で、個人主義化しつつあった。 こうした解放の結果、「人々の欲望は巨大になった」とモンテスキューの言葉はいう。 この過度さのもっとも重要な徴候として、奢侈の増大がしばしば挙げられてきた。 「奢侈は」とユウェナリスは言う、「敵の武器よりも残酷にわれらを襲い、征服した世界の復讐をしている。」 しかし、なおいっそう重大な徴候は、私利、あるいはある階級や派閥の利得を追うにあたって、ますます無慈悲になってゆく指導者たちの出現であった。 ローマの憲法を掘り崩していた新しい精神は、キケロが指摘するように、征服された諸民族への不正や残虐の行為においてというより、内乱の狂気においていっそう顕著に現れた。 こうして退廃を招いたローマ人が、フラン・ヴィタル、すなわち自制する意志を、いくらかでも真剣に働かせていたと主張するのはほとんど不可能である。 こうした無政府的個人主義者たちの正しい対抗者は、あえて言えば、単なる伝統主義者ではなく、拡張する欲望、とりわけ支配欲に限度を設けることで真の指導にふさわしい資格を得た個人主義者たちであった。 ローマが衰退したのは、この種の個人主義者を十分な数だけ生み出せなかったからである。 このローマのジレンマと、いまアメリカが直面しているジレンマとのあいだには、いくつかの類比を見いだすことができる。 私たちもまた、力の頂点に達しつつあるように見えると同時に、過去の基準を捨て去りつつある。 この解放は、奢侈と自分本位の享楽の異常な増大を伴ってきた。 何よりも自分の「快適さ」と商業的繁栄を優先する人々は、今日のアメリカでは、古代ローマよりおそらく多い。 この徴候も不穏ではあるが、それ以上に深刻なのは、きわめて非倫理的な指導者に率いられた「ブロック」が国民生活のなかで果たす役割を増していることだ――共同体全体を犠牲にして特定集団の物質的利益を押し進めようとする指導者たちである。 この徴候の実際の深刻さは、あるいは誇張されているのかもしれない。だが、もしそれが一時的な段階以上のものだとすれば、それは立憲的自由の終焉と、退廃的帝国主義の台頭を予告する。 現代アメリカの状況にせよ古代ローマの状況にせよ、考えれば考えるほど、人は政治的意味での帝国主義から、心理的意味での帝国主義へと、いっそう確実に導かれていく。 言い換えれば、問題の根に迫ろうとするなら、権力への衝動のただ周辺的な現れから離れ、個人の内面生活へと向き直らざるをえない。 ルソー主義的運動と帝国主義との関係についての私の見解は、最近のヨーロッパの二人の著述家――ドイツ人のオズヴァルト・シュペングラーとフランス人のエルネスト・セイリエール――の同主題に関する見解と比較することで、いっそう明確になるかもしれない。 シュペングラーは主著『西洋の没落』において、西洋世界、とりわけ西ヨーロッパの「文化」が、 いまルソーとその自然への回帰に始まる、一種の堕落の道程を歩んでいるのだ、という命題を展開した。 シュペングラーが描くこの退廃の行き着く先は、私が「退廃的帝国主義」と呼んだものと、少なからず似ている。 しかも私たちは、ただ下降曲線にあるだけでなく、それは致命的な曲線だという。 彼は実際、この本の第一巻に、西洋が西暦2000年ごろまでに到達する退化の度合いを示す表を付している。 この構想全体は、歴史哲学を含意するだけでなく、私の判断では、正気を失った歴史哲学を含意している。 いずれにせよこの構想は、私が至上の重みを置く、人間における意志の質を徹底的に否定することに立脚している。 したがって、私たちの見解のあいだに表面的な類似がいくつかあるにもかかわらず、シュペングラーと私は人間思考の両極に立っている。 私自身の態度は、(より技術的な意味での)あらゆる歴史哲学に対してきわめて非友好的である。聖アウグスティヌスやボシュエに見られる古い型――人間を神の操り人形にしがちなもの――であれ、あらゆる変種において人間を自然の操り人形にしがちな新しい型であれ、同様である。 『西洋の没落』は、私には十九世紀の自然主義的誤謬のかなり完全な集成のように思われる。それは、これらの誤謬が行き着くところの特殊な宿命論に全篇を通じて浸されており、その結果として西洋は実際に「没落」にさらされている。 私の考えでは、シュペングラーを山師として退けてよい――もっとも、彼が天才的山師であると付け加えざるをえないとしても。 彼の著作がドイツで途方もない売れ行きを示していることが、もし真の影響力を示すものだとすれば、それは憂うべき徴候である。 私が挙げた第二の著述家、セイリエール氏については、まったく別の評価がふさわしい。彼は約二十巻にわたって、前世紀の文学と生活に及ぼしたルソーの影響を、きわめて精妙な心理的洞察をもって追跡してきた。この影響を彼は、自分が「非合理な帝国主義」と呼ぶものに結びつける。要するに、彼の調査の結論は、否定的な側面においては私自身のものと非常によく似ている。だが肯定的、すなわち建設的な側面においては、セイリエール氏と私は鋭く分岐する。彼が非合理な帝国主義に対置するのは合理的帝国主義であり、これは彼の言うところでは「個々の努力を協同させることによって、権力の征服へ向けて進軍する社会的軍隊」のことである(『Balzac et la morale romantique』42頁)。 こうした発言に示される彼の基本的立場は、私には、功利主義者たちを通り越してホッブズへ、そして最終的には、ある点ではマキャヴェリへと、反撃してさかのぼっているように思われる。 私にとって本質的な対比は、セイリエール氏のように合理的帝国主義と非合理な帝国主義の対比ではなく、帝国主義と、あらゆる意味において反帝国主義的であるところの、人間における意志の質との対比である。 さらにセイリエール氏は、ストア派の倫理とキリスト教倫理とを一緒くたにしようとする点で、私がそれらを分け、最終的な両立不可能性を主張するのと同じくらい強く、その方向に傾いているように見える。 私はストア主義を、古代形態でも近代形態でも、少なくともその全体的傾向において、偽りであり不可能だと見なす。これに対して私は、真のキリスト教の核心には、かつて西洋文明を一度救ったいくつかの真理があり、それを賢明に用いるなら、再び救い得ると考える。 ここで冒頭に、私の方法について生じうるいくつかの誤解に関しても、ひと言述べておきたい。 そうした誤解のうち最も深刻なものは、この巻、あるいはシリーズの前巻(部分的例外として『近代フランス批評の巨匠たち』を除けば)に、個人についての完結した総合評価を求める場合に生じうる。 私はそのような評価を試みてはいない。 ましてや、歴史的時代――たとえば十九世紀――についての完結した総合評価など、試みていない。 バークによれば国民全体を弾劾するのが愚かであるのと同様に、ひとつの世紀全体を弾劾するのは、なおさら愚かである。 私が攻撃しているのは十九世紀一般ではなく、自然主義的な十九世紀と、その二十世紀への延長であり、さらに自然主義への道を整えた、ルネサンス以降の諸世紀における諸傾向である。 この自然主義的潮流全体に対する私の扱いは、まったく敵対的ではない批評家たちにさえ、否定的で、過激で、一面的に見えてきた。 私は、この三つの非難それぞれに対して、簡潔に答えることをお許しいただきたい。 自然主義に対する私の扱いが一面的だという非難について言えば、たしかにそれは、一面的であるだけでなく、この上なく一面的だと言いうる意味がある。 とはいえ、その一面性のうちにも、人文主義的な意図はある。 私がことさらに固執しているのは、自然主義者たちが同じくらい執拗に見落としてきた人間性の一側面であり、そうすることで、より均衡の取れた見方への道が開けることを願っている。 しかも、自然主義者たちが見落としてきたのは、人間経験の周縁や外縁に属するものではなく、むしろきわめて中心的なものなのである。 ここ一世紀以上にわたる自然主義の努力は、生活の周辺部を巨大で目まぐるしいほどに豊かにしてきた――要するに、私たちがいまなお「進歩」という名で讃えているものをもたらした。 私はこの種の進歩そのものと争うつもりはない、ただ、生活の周辺がどれほど豊かになっても、中心に欠落があれば、それを埋め合わせることはできないと主張するだけである。 さらに、私が自然主義者たちを、私には重大な見落としと思える点で攻撃してはいるが、繰り返して言うと、少なくとも一点、彼らと共通する性質がある――私は実験的でありたいのだ。 私は、この見落としがもたらす実際の帰結を追い、抽象的にではなく、その結実として扱おうとする。 もしある読者が、私自身は書き込もうとしなかったもの、つまり個人や歴史的時代についての整った総合評価を私の本に見出し続けてきたのだとすれば、その誤解は、私の具体例があまりに豊富だったことから生じたのだろう。 私が否定的だという非難については、自然主義心理学が見落としてきた人間の要素は、日常の自己との関係においては否定的に感じられるのだと、すでに述べた。 ふだんの自分の観点に立つのではなく、内なる監視者の戒めに耳を傾ければ、そこから生まれるのは、この上なく肯定的な二つのもの、すなわち人格と幸福である。 これこそが、人生そのものの大きな逆説である。 この意味で否定的であることについて、私は少しも申し訳なく思っていない。 しかし、別の意味では、私は否定的に見えるかもしれず、その点については私はやや異なる気持ちを抱いている。 十九世紀初頭に支配的だった批評の型は、「欠点を実りなく批判することに代えて、美点を実りあるかたちで批判する」ことを提唱した。 近代の運動がだらしなく称賛に流れるのを正すには、引き締めるような渋みを備えた批評が必要だと認める人でさえ、私はこの格言をあまりにも鋭く逆転させた、と私を非難するかもしれない。 私は、ある卓越した人物たちの欠陥ばかりを絶えず指摘し、同時にその長所についてはほとんど、あるいはまったく語らない、というのである。 私の方法は、この点においても、正しく理解されるかぎり正当だと私は信じているが、それでも私が絶えず不愛想に見えてしまうのは、どうしても残念に思わざるをえない。 私が極端だという非難は、否定的で一面的だという非難よりも、さらに切実に私に触れる。というのも、私は人文主義者であろうとし、人文主義の本質は節度にあるからだ。 しかし、節度というものについては大きな混乱がある。 人の節度は、健全な一般原理と、無限に多様で移り変わる現実生活の諸状況とのあいだを、どれだけうまく媒介できるかによって測られる。 こうして正しく媒介する人は、最も貴い徳の一つ――洗練(アーバニティ)――に到達するが、ただし、おそらくこれほど頻繁に偽装されてきた徳もない、ということを付け加えねばならない。 知的にも精神的にも怠惰な人は、相反する二つの見解のどちらを取るか迫られると、しばしば両者の「中間を取る」ことに決めるが、彼が分け合っているのは、真理と誤謬の差であるかもしれないし、二つの誤謬の差であるかもしれない。 いずれにせよ、彼は、媒介に取りかかる前に、まずそれが真理か誤謬かという問題を片づけなければならない。 そうでなければ、「正と邪のあいだの狭い一本道から決して外れなかった」と言われた、あのイギリスの政治家に似てしまう危険がある。 パスカルが攻撃したある種の決疑論者たちは、殺人に対してさえ中庸の態度を装うことに成功していたのだ。 実際には、ダンテが地獄の前庭で見た巨大な群衆――「神にも神の敵にも等しく不快」な者たちの群れ――に数えられる危険があるのに、自分は洗練されていると思い込むこともありうる。 もちろん、個々の事例で、人文主義者と、単なるラオディケア人とを見分けるのは、いつも容易ではない。 たとえばルターはエラスムスをラオディケア人として糾弾したが、私たちには、彼はむしろ当時の宗教的その他の過激派に対して、真の落ち着きと洗練を示したように見える。 ともあれ、以下のページで私が論じる教義上の相違は根本的な性質のものであり、したがって媒介の対象にはならない。 個人の内面生活に主たる力点を置く人と、そうではない何か――たとえば人類の進歩や奉仕――にその力点を置く人との対立は、第一原理の対立なのである。 だから私が提起する問題は、節度ある人道主義者であるべきかどうかではなく、そもそも人道主義者であるべきかどうかである。 私は概して、私たちはある重要な点で第一原理を誤った世界に生きている、という立場に与するが、これは言い換えれば、私たちは指導者たちに裏切られた世界に生きている、ということにほかならない。 内面生活の真理を何らかの形で回復し、自然主義の誤謬を退けた指導者が現れるかどうかに、西洋文明そのものの生き残りがかかっているのかもしれない。 内面生活の真理は、宗教的な形でも人文主義的な形でも、さまざまに宣言されうるし、実際に過去そう宣言され、その都度、生活と行為における結実によって正当化されてきた。 いま流行している哲学のどこにも、これらの真理をいかなる形でも見いだせないからこそ、私は時代の知恵よりも、諸時代の知恵を選び取るようになったのである。 第I章 政治思想の諸類型 アリストテレスによれば、政治が存続するためには、統治される人々のエートス、すなわち道徳的習慣と信念の体系を反映していなければならない。 French Jacobinsが信じがちだったように、どの共同体にも有利に押しつけられる抽象的で理想的な政治形態など存在しない。 私有財産に反対するこの種の立法は、一見すると善意に見えることがある。 人はそれに喜んで耳を傾け、国家に現にある害悪をだれかが非難しているのを聞くと、どこか不思議な仕方で皆が皆の友人になるのだと、たやすく信じ込まされる。 。 そして、その害悪は私有財産の所有から生じているのだ、と言われるのである。 しかし、これらの害悪の原因はまったく別にある。すなわち人間性の邪悪さである。 アリストテレス『政治学』1263b、11。 社会は、意志と欲望を抑える力がどこかに置かれなければ成り立たず、その力が内面に少ないほど、外からの力がより必要になる。 物事の永遠の秩序において、節制を欠く心の持ち主は自由ではありえないと定められている。 バーク『国民議会議員宛書簡』。 私の政治的信条の根本条項はこうだ。専制、無制限の主権、絶対権力は、人民議会の多数派であれ、貴族的な評議会であれ、寡頭的な徒党であれ、単独の皇帝であれ同じことであり、等しく恣意的で残酷で血なまぐさく、あらゆる点で悪魔的である。 ジョン・アダムズ:トーマス・ジェファソン宛書簡(1815年11月13日) 日々の個々の歪みには、つねに大きな世界史的な塊を対置すべきである。 ゲーテ『箴言』。 前書き 本書の一部は、1920年3月にケニヨン・カレッジでラーワイル財団の下で行った全4回の講義で用いた。 この連続講義を私は「民主主義と帝国主義」と名づけた。 1922年4月には、ウェスト財団の下でリーランド・スタンフォード大学にて4回の講義を行った。 これを私は「民主主義の倫理的基礎」と題し、ケニヨンでの講義と同じ素材を一部含んでいたが、形式を改め、かなりの加筆を施した。 最後に、1923年3月から5月にかけてソルボンヌで「Les Ecrits politiques de J.-J, Rousseau(J.-J.ルソーの政治著作)」の題で行った公開講義のために、本書のいくつかの章を用いた。 これらの講義に際して多くの便宜を図ってくださった各機関の関係者に感謝したい。 目次 序論 1 I. 政治思想の諸類型 27 II. ルソーと牧歌的想像力 70 III. バークと道徳的想像力 97 IV. 民主主義と帝国主義 117 V. ヨーロッパとアジア 158 VI. 真の自由主義者と偽の自由主義者 186 VII. 民主主義と規範 239 付録A:意志の諸理論 319 付録B:絶対主権 331 参考文献 337 索引 345 序論 共同体ごとの統治とそのエートスとの必然的な関係というアリストテレスの原理を、過去に実際に存在した諸政府に当てはめようとすると、第一印象として、政治形態が他のあらゆる事柄と同じく果てしなく多様であることに驚かされる。 しかし、この目もくらむような表層の多様性の下へ分け入るなら、人間経験は結局のところ、私が別のところで示そうとしたように、いくつかのかなり明確な類型に分かれることがわかるだろう。 ある時代、あるいはある民族に支配的な人生観は、つぶさに見れば、おおむね自然主義的か、人文主義的か、あるいは宗教的であり、政治形態もそれに応じて変化しがちであることが見いだされるだろう。 たとえば、ある民族が深く宗教的であれば、程度の差はあれ神権的要素の色濃い政府が生まれやすい。 フュステル・ド・クーランジュは、古代の都市国家の統治が当初いかに伝統的宗教形態と緊密に結びついていたか、そして伝統宗教がまず家族に、次いで国家に打ち立てた序列が個人主義的・平等主義的傾向によって徐々に掘り崩されるにつれ、統治がいかに変化しやすかったかを示した。 宗教的統制が無秩序な自然主義へと譲歩した結果、政治秩序においては露骨な力が勝利し、古代文明は衰退した。 こうした頽廃した異教に対してキリスト教が優勢になるにつれ、新たな宗教的エートスが次第に形を取り、それに対応して、中世期を通じて支配的となる神権的な統治観が生まれた。 その時代のヨーロッパは、理論上はもちろん、実際にも少なからぬ程度において、真の宗教的共同体を享受していた。 教会は、きわめて文字どおりに人々の想像力を支配し、社会の上から下までを同じ霊的な希望と恐れで結びつける象徴を作り出すことに成功していた。 ヴィヨンが老いた母について語るように、誰もが大聖堂に入り、片方には地獄の責め苦が、もう片方には楽園の至福が描かれているのを見て、彼女と同じく、前者の像には恐れを、後者の像には喜びと歓喜を、ふつう自然に抱いたのである。 このように全階層に及ぶ想像力の統制があったため、教会は物理的強制の支えを必要としなかった。純粋に霊的な罰、とりわけ破門で事足りたのである。 カノッサのアンリ4世は、神権思想の極端な勝利を象徴するものとして、通常引き合いに出される。 教会は今日においてさえ、決して軽視できない要因である。 メルシエ枢機卿がアメリカを訪れた際、ニューヨークのペンシルベニア鉄道駅のプラットフォームで、技師や機関士がひざまずいて祝福を受けたと新聞が報じた。 ここには少なくとも古い忠誠の名残があるが、それは同じ人々が自分たちの組合に向ける忠誠とは本質的にまったく異なる。 それでも、今日の教会の力を中世のそれと比べると、個々の国に限らない、西洋全体のエートスの変化が見えてくる。 旧来の宗教的統制は、数世紀にわたり個人主義的で遠心的な傾向に道を譲ってきたが、いまや、新たな統合原理が欠けたままでは、古代世界で最終的にそうであったのと同様に、私たちの近代世界でも「むきだしの力」の原理が勝利しかねないという危険が、あからさまになっている。 神権的な統治観は、どこかに神の恩寵ないし承認があることを常に含意するが、その恩寵がどの経路を通じて受け取られるかについては、重要な意見の相違がありうる。 たとえば中世には、恩寵の唯一の経路は教会であると考え、世俗秩序の長である皇帝を、この地上における神の代理者たる教皇の下位に置こうとする者がいた。 これに対し、皇帝は教皇を経由するのではなく、直接に天上から承認を受けるのだと主張する者もいた。 この後者の神権的統治観は、おそらくダンテの『De Monarchia』に最もよく示されている。 ダンテは、世俗権力と霊的権力という二つの権力の協力と最終的な統一を望むが、混同は望まない。 神権思想を受け入れつつ、同時に神のものとカエサルのものを区別して保とうとしたダンテや他の中世の政治理論家は、その限りにおいて真のキリスト者であった。 しかし、キリスト教の伝統そのものの多くが、究極的にはユダヤにではなく、ギリシャとローマにさかのぼることを、私たちは忘れてはならない。 聖アウグスティヌスはキリスト教のプラトンであり、聖トマス・アクィナスはキリスト教のアリストテレスである、という通俗的な言い方にも、少なからぬ真理の要素がある。 それでもここでは、プラトン的・アリストテレス的な政治思考の型と、中世期に支配的だった型とのあいだの重要な差異を、強調しておく必要がある。 ある意味で、アリストテレスとプラトンは、中世の人々よりも、むしろ私たちにこそ本来の精神において近い。 中世の人生観は、超自然的啓示への信仰に基づいている。 そしてそれが、絶対的な外的権威の基礎とされるのに対し、プラトンとアリストテレスは、私が述べたように、自由な批判的探究の時代に属している。 要するに彼らは、真の「近代人」なのである。 というのも、私が別のところで示そうとしたように、人生観において批判的で個人主義的であることと、近代的であることとは、 結局のところほとんど同じ意味になるからである。 したがって、アリストテレスを外的権威の支柱にしようとした聖トマスや他の中世人は、きわめて非アリストテレス的な仕方でアリストテレスを用いていたのであり、さらに、より個人主義的で実験的な態度をとって伝統と決別したルネサンスの人々が、スコラ学の空疎な論争の主要な源としてアリストテレスを退けがちだったときにも、この混乱は続いた。 たとえばベーコンは、スコラ学的アリストテレスの背後にある真のアリストテレスに、事実上ほとんど到達していない。 さてプラトンは、『国家』その他において政治問題を批判的に扱う点で、中世の思想家とは異なる。 しかし彼が到達する構想は、全体として神権的であるため、方法ではなく結論に目を向けるなら、中世はすでにプラトンに始まっているのだと主張する人々に、部分的には同意せざるをえない。 さらに、神のものとカエサルのものを分けるという決定的に重要な区別を加えると、『国家』の守護者階級は、 修道会に非常によく似たものになるだろう。 また、『法律』の夜会評議会や矯正の家のうちに、 異端審問の最初の萌芽を見ないでいるのは難しい。 一般に、神に対する人間の依存をめぐるプラトンの高まりゆく感覚は、アウグスティヌスと恩寵の支配を予告している。 これに対してアリストテレスは、統治の問題を批判的であると同時に人文主義的な仕方で扱った思索家の、過去における主要な典型であり続ける。 彼は『政治学』を書くに先立って、158の都市国家の歴史と憲制を詳細に研究し、概して膨大な実際の政治経験に結論の根拠を置いている。 人はそれらの結論に反対することもできるし、私も重要な点で反対するが、近代的であろうと志す者にとって、その方法自体は非の打ちどころがないように思われる。 たとえ私たちがアリストテレスと異なるとしても、異なり方はアリストテレス的根拠に基づくべきである。 私たちは、彼の手の届かなかった東西双方の膨大な経験によって、ある種の問題について啓発されてきた。 とりわけキリスト教的経験によって、そしてそれが西洋にもたらした偉大な新原理、すなわち世俗権力と霊的権力の分離によって啓発されてきたのであり、この原理から直接・間接に流れ出るあらゆる帰結、ことに、この区別に最終的に依拠する個人の自由という観念については、アリストテレスもプラトンも十分な構想を持たなかったのである。 アリストテレス以後、私たちが啓発されてきたのはキリスト教的経験だけではない。近年まで西洋に知られていなかった、極東、とりわけインドと中国の膨大な経験も、多少なりとも利用できるようになっている。 ここでもまた、政治制度が、主として自然主義的・人文主義的・宗教的いずれかの人生観を反映しているのが見いだされる。 おそらくインドほど宗教的だった国は、かつて一つもなかったのではないか。 インドは常に、善し悪しはともかく宗教の本拠であり、『マヌ法典』において、世界のいかなる書物にも劣らぬほど妥協のない仕方で神権的な人生観が説き示されているのを見ても、驚くには当たらない。 この書の戒律が、その厳格さのまま全面的に適用されたことはおそらく一度もないが、ブラフマン階級が、私たちには一種の霊的専制と映るものを維持するうえで、常に大きな助けとなってきた。 物理的強制を必要とせず、人々の宗教的な希望と恐れに訴えて統御するという点で、ブラフマン階級は、中世ヨーロッパの教会以上に、しかも今日に至るまで、より成功してきたのかもしれない。 ヒンドゥー教徒により大きな自治を与えることを意図したモンタギュー法(1919年)は、実際にはブラフマンの神権支配にただ手を貸すだけになるだろう、と主張されてきた。 古代インドが生んだもう一つの産物である仏教は、いま論じている主題の観点から二つの理由で興味深い。第一に、仏陀は、おそらくプラトンやソクラテス以上に、人生について肯定的で批判的な見方を打ち立てたこと。第二に、その肯定的で批判的な精神を宗教の領域で示したことである。 彼の王国は、イエスのそれと同じく、そしてプラトンのそれとは異なって、この世のものではない。 彼は『国家』のプラトンのように、世俗の秩序の中で、政治制度の助けを借りて理想の善を実現しようとはしない。 仏陀は社会を直接改革しようとしたのではなく、カーストその他の類似の区別が存在しない宗教的教団を打ち立てた。 後代の仏教、とりわけいわゆる大乗仏教は、創始者の肯定的で批判的な精神から大きく逸脱した、巨大で複雑な運動である。 チベットで行われている教えのきわめて堕落した形態であるラマ教は、世俗秩序への神権的介入の極端な例を示している。 これに対してビルマのように、より古く個人主義的な信仰形態がなお多少残っている国では、霊的なものと世俗的なものの区別がかなりよく保たれている。 一般に、教会と国家(政教)の対立する権限要求は、キリスト教圏よりも仏教圏のほうが、政治的衝突をより稀にし、しかもより軽微なものにしてきた。 実際、キリストが「平和ではなく剣をもたらした」と言ったことを、何よりも正当化しているように見えるのは、キリスト教のこの側面なのである。 インドは、重要な人文主義的運動を一度も見たことがない。 その最も近いものがあるとすれば、おそらく仏陀が宗教生活そのものにおいて説いた「中道」の教えであろう。 この点で、インドと中国ほど徹底した対照を想像するのは難しい。中国は、その中心的伝統において、そして孔子がその最大の代表者であるその伝統において、つねに人文主義的であった。 ベナレスの沐浴のガートは、日常的な中国人の心理からも、また私たちの心理からも、ほとんど同じほど遠いものを示唆している。 孔子が関心を向けるのは来世よりも、この世で最善に生きる術である。 彼によれば、この世で最善に生きるとは、均衡と節度を保って生きることにほかならず、ゆえに極東の儒教的伝統は、西洋のアリストテレス的伝統と多くを共有している。 しかし重要な一点において、孔子はアリストテレスというよりキリストを想起させる。 彼の王国はきわめてこの世的であるにもかかわらず、彼が重んじるのは中庸の法だけではなく、謙遜の法でもある。 彼は「天命への服従」においても、また古の聖賢に対する態度においても謙虚であった。 彼が望んだのはせいぜい、長い世紀を通じて蓄積され、これらの聖賢に生きた形で体現されてきた自民族の道徳的経験を、現在と未来へ伝える通路となることだった。彼自身の言葉によれば、彼は創作者ではなく伝達者である。 偉大な伝統的模範を仰いでそれを模倣する人は、やがて自分自身もまた模倣に値する存在となる。 真の指導者であるためには、このように正しく模倣する者でなければならない。 文明社会の不可欠の基礎として、正しい模範と、それが促す模倣とを、孔子ほど強く主張した者はいない。 この主張が正しいらしいことは、彼自身の模範の力によって裏づけられる。彼の模範は七十世代以上にわたり、人類のおよそ四分の一のエートスを形づくってきたが、その際、この世であれ来世であれ、恐怖の原理にほとんど、あるいはまったく訴えなかったのである。 儒教の影響は、人間は結局のところ理性的動物でありうる、という信念に対して、私たち西洋の経験の何にも増して根拠を与えるもののように思われる。 政治問題を扱うにあたって孔子は、指導の問題以外のすべてを取るに足らぬものとして退けざるをえない。 「指導者の徳は風のごとく、民の徳は草のごとし」 「草は風が吹けばなびくのがその性であるからだ。」 さて真の指導者とは人格者であり、人格の究極の根は謙遜である。 この儒教的な考え方には中心的な健全さがあるので、私は後にもう一度これに立ち返る必要がある。 同時に、儒教もまた、あらゆる偉大な教説と同じく、固有の弱点を持っている。 その主要な弱点は、言うまでもなく、現在が過去によって恒常的に霊的な「死手」で拘束されているかのように見える点である。 純粋に伝統的な人文主義は、つねに擬古典主義的な形式主義の轍にはまりこむ危険がある。 孔子自身は、人間のうちにある固有に人間的なものを深く真に洞察しており、それを内面的な自己統制の原理として定義した。だがこの原理は、少なくとも『礼記』すなわち『礼典』に含まれるものすべてを古く真正だと受け取るなら、当初から外的形式、ときには礼儀作法の規則と結びつきすぎている。 ある種の規定は、真に人文主義的な教説の中心にある礼節と、さほど密接に結びついているとは言い難い。それはまた、孔子が毎食しょうがを食べ、雷雨のときには必ず顔色を変えた、という、同じく敬虔に伝えられてきた情報と大差ないほどである。 私たちは、ギリシア的人文主義が最良の形で備えているような、より自由で、柔軟で、想像力に富む精神を求めている。 また私たちは、きわめて非伝統的で個人主義的な仏陀のほうに、より近代的で、それゆえ私たちにいっそう親しみやすい何かを感じがちでもある。 それでも孔子は、伝統的ではあっても独断的ではない。彼は体系的ですらない。 究極的な事柄についての彼の徹底した寡黙さは、彼の訳者であるキリスト教の独断論者 レッグ博士をいらだたせたが、ある種の問題を心理学的方法で扱うことを私たちがますます評価するようになってきた今となっては、欠点というより長所に見えてくる。 儒教に集約されるものの結果として、中国は、過去と現在の腐敗した官僚や役人のすべてにもかかわらず、道徳的理念の上に、他のどの国よりもおそらく一貫して自らを据えてきた。そしてこの事実は、その長い存続と無関係ではない。 ギリシア人は消え去った。今日のギリシア人は、ペリクレスの時代のギリシア人の子孫だと言えるにしても、きわめて限定された意味においてにすぎない。これに対して、孔子の時代の中国人の子孫は、なお数億という数で私たちと同時代に生きている。 彼らの文明には、周縁部に数多くの重大な欠陥がある。 それでも、中国人が「舵取りを捨てない」かぎり、つまり西洋からの圧力にもかかわらず、儒教的伝統のうち最良のものに固執するかぎり、その文明は秘めた強さを保ち続ける可能性が高い。 アリストテレス『政治学』1273a参照:「国家の指導者たちが何かを名誉あることだと見なすとき、他の市民は必ずその模範に従う。」 ここまで私は、東西にわたって、伝統的基盤に立つものか、あるいは肯定的で批判的な基盤に立つものかを問わず、さまざまな宗教的・人文主義的な人生観と、それに対応する政治思想の諸類型を考察してきた。 残るのは、自然主義的な人生観と、その政治的含意を考察することである。 自然主義者はもはや、人間を、物質的秩序の法則とは別個の、独自の法則に服するものとして見ない。この法則を受け入れることは、宗教的次元では、最良のキリスト教徒や仏教徒に見られる彼岸性の驚異へと導き、この世においては、儒家やアリストテレス主義者に見られるように、日常的自我とその自発的衝動とを抑えて中庸の法に従わせることへと導くのである。 ルネサンス以降に生じた個人主義的で批判的な精神の勃興と、それに伴う中世的・神権的理想からの決別は、宗教的あるいは人文主義的な性格を帯びる可能性もあったが、実際には主として自然主義的であった。 この自然主義的傾向の重要な帰結の一つは、国民精神の成長であった。 プロテスタントという宗教そのものも、十分に長期的な視野で見れば、ナショナリズムの勃興における一つの挿話として大部分が位置づけられるように見える。 しかし、ついには中世ヨーロッパの宗教的統一を破壊することになる新しいナショナリズム精神を、その最も純粋な形で研究したいなら、マキアヴェリに立ち返る必要がある。 彼はおそらく、東西いずれにおいても、ひるまぬ政治的自然主義者の最良の典型として残り続けるだろう。 マキアヴェリを理解するには、伝統的宗教との関係において彼を研究する必要がある。 キリスト教は、とりわけパウロ的・アウグスティヌス的形態において、峻厳な超自然主義を峻厳な自然主義と対置する傾向を常に持ってきた。したがって、パスカルのような厳格なキリスト者が、堕落した状態にある人間、すなわち神の恩寵に支えられない人間を考察すると、世俗秩序とその政治問題について、できることならマキアヴェリ本人以上にマキアヴェリ的な結論へ、たちまち到達してしまう。 神学を取り払うなら、倫理も取り払わざるをえない、という以外に選択肢がないように見える。 しかも教会は、現実の制度として、人間のより高次の生活をほとんど独占していたため、マキアヴェリのように国家に教会から独立した基礎を与えようとすることは、道徳からも独立した基礎を与えてしまう危険を伴った。 さらに、マキアヴェリは、一定の限度内で驚くほど鋭い観察者であった。 彼の見解は、キリスト教が人間の実際の行為を統御できなかったことを反映している。それは彼自身の時代においても、また彼がよく知っていた中世の過去においても同様であった。 彼が自ら言明している狙いは、「事柄の想像ではなく、その現実の真実を追究すること」であり、 …… …… なぜなら、人が現にどう生きているかは、どう生きるべきかからあまりにも遠く、なされていることを顧みず「なすべきこと」ばかりを追う者は、身を守るどころか、かえって早く破滅を招くからである。」 したがって政治家は、厳しく現実主義的であるべきだ。 実際、理想や美辞麗句を脇に置き、人々の実際の行動だけを見つめる者は、たいてい少しマキアヴェリ的に見えてしまう。 たとえばこの意味では、トゥキュディデスにも強いマキアヴェリ的要素がある。 マキアヴェリがその独特の現実主義から導かれた結論は、よく知られている。 通常の道徳の規範は人と人との関係では通用するかもしれないが、国家と国家の関係では二次的な位置しか占めず、そこを支配するのは狡知の法則と力の法則である。 だからこそ、成功を望む統治者は、獅子の徳と(『君主論』第15章) 狐の徳とを、自らの内に調和よく兼ね備えねばならない。いかなる学説も、その真の本質は、最終的にはそれが受肉する人格の型において明らかになる。 周知のとおり、マキアヴェリは自分の構想の完全な具現としてチェーザレ・ボルジアを見た。 彼はある箇所で、ボルジアが政治的敵を罠にかけ、幾人も絞め殺させたという忌まわしい背信を語り、別の箇所ではこう言う。「公爵の行為をすべて思い起こしても、私は彼をどう非難してよいかわからない。むしろ、先に述べたとおり、幸運や他人の武力によって統治の地位に押し上げられた者すべてに、模範として彼を示すべきだと思われる。」 とりわけ、マキアヴェリが「徳(virtue)」という語にどのような意味を与えているかに注目すべきである。 彼は中世の僭主カストルッチョ・カストリカーニの評伝を、冷酷さと残忍さが主な特徴として浮かび上がる形で書き起こしながら、それを彼の「徳」を讃えることで始めている。 マキアヴェリ的政治指導者の「徳」は、明らかに人文主義的な徳とはほとんど共通点がなく、宗教的徳とはまったく無縁である。 とりわけキリスト教的徳は、謙遜という法則に基礎を置く。 この法則の軛を負う者は、同時に自由な良心の領域へと入る。彼はもはやいかなる世俗国家にも従属せず、天上の共同体、すなわち神の国の一員となる。 このように忠誠が二重に分かれることは、マキアヴェリには弱さと女々しさの源に見えた。 謙遜は愛国的誇りに取って代わられるべきだ。 とりわけ統治者は、国家とその物質的な増大以外に良心を持ってはならない。政治的であれ商業的であれ宗教的であれ、いかなる団体の奉仕においても、個人を律すべき道徳とは異なる道徳を実践するところまで進んで、自分を受動的な道具として差し出す者は、マキアヴェリ的伝統に属する。(『君主論』第9章・第7章) すなわち、個人を支配すべき道徳とは別の道徳を実践するところまで、政治的・商業的・宗教的いずれであれ組織の奉仕のために受動的な道具となることに同意する者は、マキアヴェリの系譜に連なる。 マキアヴェリは「祖国を何より上に置く」ドイツ人や、その同類である「百分の百のアメリカ人」、ひいては「国が正しかろうが誤っていようが支持する」ほど愛国的な人々の祖である。 彼は、ヨーロッパ政治において通常「現実主義の伝統」と定義されるものを、誰よりも完全に体現している。 しかし、マキアヴェリも、あるいはその精神的後継者であるレアルポリティーカーも、徹底した現実主義者だとは認められない。 道徳法則を踏み越える者に遅かれ早かれ襲いかかるネメシス、あるいは神の裁きとでも呼ぶべきものは、ギリシア的であれヘブライ的であれ権威に依拠して受け入れるしかない類のものではなく、鋭い観察の対象である。 国家理性なるものが存在しないとか、公的道徳と私的道徳があらゆる点で正確に一致すべきだと主張するのではないにせよ、マキアヴェリ流に二重の道徳規範を立て、一般に人が祖国への奉仕では冷酷になりつつ、同時に個人としては廉直でいられる、と考えるのは幻想だと言いうる。 ただ自然主義的な現実主義者であること、すなわち物質的秩序の事実を明晰に見抜きながら精神的には盲目であることは、実際には帝国主義的な夢想へと行き着く。 マキアヴェリは、『君主論』を執筆していた頃、サン・カシャーノの小さな所領で些末な用事に追われた一日のあと、農夫の服を脱ぎ捨てて夕方には宮廷服に着替え、書斎に退いて現在の卑小さから逃れ、古代の偉人たちと交わったと語っているが、こうした二つの態度の対比は、パスカルの「幾何学的精神」と「繊細の精神」の区別にも通じる。 ホッブズの、抽象的ないし幾何学的な型の推理(la raison raisonnante)への極端な信頼は、どこかイングランド的ではない印象を与えるが、他方で彼は英語圏の大きな功利主義の伝統に属しており、ロックへの道を示す。ロック自身も本質的な点では教条的合理主義者である。 英国功利主義者について顕著なのは、単なる理論から経験へ訴えると公言しつつ、人間法の領域に属する経験の側面を丸ごと退けてしまうことである。 徹底して実証的かつ批判的であろうとして、彼はこの経験を、それが埋め込まれてきた伝統的形態と同一視し、ゆえにそれを単なる神話や寓話として退けがちである。この点で彼は、人間法の真理は特定の形態から切り離せず、自然法の真理のように純粋に批判的に扱えない、とする伝統主義者と一致してしまう。 私が別のところで示そうとしたように、実証主義者たちは、これまで自らの綱領を著しく果たせずにきた。 たとえばホッブズは、伝統主義者たちの教条や形而上学的前提に対して、ほとんど同じくらい形而上学的な別の前提を対置する。 これらの前提のいくつかは検討しておく必要がある。というのも、それらは形を変えつつ、ホッブズから今日に至るまで、初見では彼に最も反対しているように見える人々の思考にさえ、政治思想の大半へ浸透してきたからである。 これら形而上学的前提の第一として、絶対で無制限の主権という観念を挙げられる。 何か絶対的なものが立てられるとき、私たちは形而上学に踏み込んでいると知ってよい。生活の精密な観察は、絶対的なものを与えないからである。 人間において絶対に近いものがあるとすれば、それは無知であり、しかもそれすら完全に絶対ではない。 ホッブズの絶対で無制限の主権の主張は、中世の主権観を想起させるが、きわめて重要な相違がある。そこでは主権は力に依拠し、この意味で帝国主義的であり、中世の主権のように超自然的な権威づけを持たない。 中世の主権者は、教皇であれ皇帝であれ、人民に対して責任を負わないとしても、神に対しては責任を負う。そして最終的に唯一の絶対で無制限の支配者は神である。 さらにホッブズの国家における個人は、宗教、すなわち世俗秩序から切り離された良心の領域において、国家の専制的統制から逃れる避難所を持たない。 ホッブズは精神的なものを世俗的なものに従属させ、教会と国家(政教)の対立する要求を扱うにあたって、マキアヴェリと同様、中世的でないばかりかキリスト教的でもない。 では、ホッブズの主権者は、世俗秩序における自由だけでなく、「キリストがわれらを自由にしたもうた自由」をも覆しかねないほど無制限で無責任な権力を、いったいどこから得るのか、と問われるだろう。 答えはこうである。主権者は神の恩寵によってではなく、人民との契約の結果として、その無制限で無責任な権力を保持する。ここで、社会契約という別の形而上学的前提が姿を現し、それは幾世代にもわたり政治思想を驚くほど強く支配した。 これは、何らかの形で、人間が孤立し非社交的である「自然状態」を想定し、慣習ないし契約にもとづいてその孤立から脱する「社会状態」と対置する前提を含む。 マキアヴェリが国家用と個人用の二つの道徳規範を立てた点でアリストテレスよりはるかに劣るのと同様、ホッブズもまた、社会にある人間と自然のままの人間とを対置するこの神話的コントラストを受け入れることで、アリストテレスからの大きな退行を示している。 アリストテレスによれば、人間は政治的動物であるがゆえに、社会の中で生きることが自然なのである。 またホッブズは、先に見たとおり、神のものとカエサルのものとを混同することで、アリストテレス以降に政治思想が遂げてきた主要な進歩を損なっている。 全体として彼の著作は、実際には暴力的な唯物論へ帰結するであろうものを、形而上学的に正当化しようとする試みと描写できる。 社会契約、無制限の主権、自然状態に、自然権を加えれば、近代政治思想の多くを支配してきた抽象的・形而上学的観念の一覧は完成する。 「自然状態」において人が持つ権利は、ホッブズの構想ではそこでの生活が「孤独で、貧しく、汚く、獣じみて、短い」ものであり、しかも自己愛の支配の結果、万人が万人に対して戦争状態(bellum omnium contra omnes)にあるのだから、あまり価値があるようには見えない。 しかし理論の観点から重要なのは、自然状態の人間が無制限の自由を持つ、すなわち自己の人格に対して無制限の主権を持ち、ゆえにこの無制限の主権を社会契約によって国家へ移譲しうる、という点である。 また人々は自然状態において平等である傾向がある。というのもホッブズによれば、身体的に弱い者でも狡知を発達させ、利己心の衝突において強者とおおむね同等の位置に立ちうるからである。 したがって、ホッブズによる自然状態は、自由、平等、そして戦争と定義できる。 自然権と、それに基礎づけられるとされる自由と平等は、ホッブズの時代ごろに現れる、自然状態をより楽観的に解釈しようとする傾向とともに、ますます重要になっていく。 この傾向の起源は複雑である。 おそらく最も重要な単一の影響は、ストア派の哲学の復興と、ローマ法に取り込まれていた jus naturale(自然法)および jus gentium(万民法)に関するストア派の見解であった。 ルネサンス以後に連なる「自然への回帰」を底から駆動した力は、新しい天文学の勃興と、自然科学が収める勝利の拡大であった。 キリスト教的・中世的二元論に対する自然主義的路線での大反乱が成功したのは、おそらく科学的発見や、そこから生じた進歩の種類以上に、進歩と発見が達成された積極的かつ批判的方法のおかげであり、その方法は伝統主義者の教条的で無批判な断言と正面から衝突していた。 16世紀・17世紀の政治理論家たちのうちには、自然主義的要素とストア派の要素が、伝統的な超自然主義に由来する要素と、ほとんど考えうるあらゆる比率で結び合わされている。 この種の混合は、国際法の父グロティウスの『De Jure belli et pacis』(1625)にとりわけ明瞭に見て取れる。 中世の神権政治が崩れて台頭しつつあった大国民国家は、相互関係において明らかに自然状態にあったので、個人の場合以上に国家の場合にこそ、自然状態で狡知の法と力の法以外の法が成立しうるのかどうかを確定することが重要だった。 マキアヴェッリとホッブズを反駁するには、国境を越えて人々を結びつけようとする普遍的原理があること、しかもその原理が、人々の利己的衝動が、組織された力に支えられた特定国家の法によってもはや統制されないときにも働き続けることを示さねばならない。 人間を単なる孤立した単位として想定する自然状態から出発し、何らかの契約によって自然状態から社会へ移行すると想像するにせよ、アリストテレスとともに人間は政治的動物であり、ゆえに社会で生きるのは自然だと主張するにせよ、いずれにせよ人々の間の結合原理を慎重に定義する必要がある。 真のキリスト者によれば、人々が共通の中心へと引き寄せられうるのはただ神の意志への服従によってであり、その服従は内面生活の観点で理解される、という点に利己心への最終的な対抗力がある。 人間相互の結合の絆を「理性の規則」に求め、その理性の規則を自然と結びつける試みは、厳密にはキリスト教的ではなく、ストア派的である。 ストア派の「理性」を説くマルクス・アウレリウスは、人が他者に奉仕するのは、目が見るのと同じくらい自然だと言う。 ストア派が合理的であり自然でもあるとみなすこの奉仕の教説は、キリスト教的意味での内面生活を含意しない。 最終的な訴えは個人の外部にあるもの、すなわち近代世界に対するストア派の影響の主要な源泉であるキケロが「共通の効用」(utilitas communis)と呼ぶものに向けられる。 そして奉仕すべき共同体は、キケロによれば、自己の祖国でありうるし、人類全体(societas generis humani)でありうる。 ストア派の功利主義は、一般にきわめて合理主義的である。 これに対してイギリスの功利主義(そして近代における功利主義教説の主要な源泉はイギリスである)は、快楽の原理に、また一般に人間の本能的側面に、はるかに大きな重心を置き、この重心の置き方はストア派的というよりエピクロス派的である。 たとえばカンバーランドは、正しい理性への訴えによってだけでなく、人間のうちに共通善を促進しようとする本能が存在すると主張してホッブズを反駁しようとする;こうしてカンバーランドは、新しい功利主義的観念を古い神学と結び合わせ、共同体に奉仕することは神の意志を成就することだと言う。 しかしカンバーランドのような著作家に見いだされるのは、私が全体として人道主義(humanitarianism)と定義した、部分的には功利主義的で部分的には感傷的な大運動に関連して生じた、倫理の基盤そのものの変容の、まだ端緒にすぎない。 この運動の代表者たちの特異な点は、自然主義的水準で生きたいと望みながら、同時に、過去が人文主義的あるいは宗教的鍛錬の結果として達成されることを望んだ利益も享受したいと願うことである。 彼らは、人が利己的衝動を超えて高まるために、回心や、回心が伝統的に依拠してきた超自然的制裁の体系を必要としない、と実質的に主張することで宗教と矛盾した。 彼らはまた、最も根源的な人間の衝動は権力への推進力だと主張してきた、マキアヴェッリやホッブズ型の利己的自然主義者を反駁しようともした。 感情的倫理の勃興は、理神論運動との関連で、とりわけ18世紀初頭のイングランドにおいて研究できる。 シャフツベリやハチスンのような理神論的道徳家の傾向は、今日で言うところの利他主義と社会奉仕へと、ことごとく向かっている。 全面的堕落(total depravity)の教説が衰えるにつれて、神学の時代は社会学の時代へと譲りはじめている。 beneficence(慈善)の語がこの頃から広く流通しはじめる。 共感する人、善良な人、情の人が現れ、ますます高い評価を受けるようになる。 神学的根拠であれ自然主義的根拠であれ、人間性の本質的悪を信じる者はなお数多く、しかも攻撃的であった。 人間性の善悪をめぐる相反する見解は、個々人の中で、ほとんど考えうるあらゆる比率で結び合わされていた。 たとえばポープとヴォルテールにおいては、その結びつきが彼らの著作に中心的な不整合を持ち込むほどであった。 新しい伸長性を取り込みつつ、シャフツベリ学派を攻撃し、ホッブズ、ラ・ロシュフコー、マキアヴェッリを想起させる人間の利己的要素を肯定しようとする奇妙な試みは、マンデヴィルの『蜂の寓話』に見いだされる。 新しい哲学の成長によって、人間は自らの自然な欲求をいっそう自由に満たすよう促された。 同時に、科学的発見はそれらの欲求の充足をますます可能にしていった。 それは人間の物質的な安楽と便宜に奉仕するための巨大な機械体系を徐々に発達させ、やがて産業革命へと帰結する運命にあった。 マンデヴィルは、商業的かつ帝国主義的拡張の時代へ入ろうとしていたイングランドに対し、この拡張は、付随して奢侈が増大する以上、個人に関するかぎり悪徳と利己心の拡張になる、と警告した。 彼は、単なる「理性」が利己的情念を統御しうるというストア派の観念を退ける。 彼はまた、シャフツベリが、自然人のうちには「道徳感覚」あるいは奉仕への意志が内在し、それが権力への意志(彼の言う「主権の本能」)に打ち勝ちうると主張するのを、「ロマンチックで空想的」として一蹴する。 彼は皮肉をこめて、黄金時代へ戻りドングリ食にすることを処方箋として勧める。 真の治療法は、彼が信ずるところでは、最も厳格なキリスト教と、その肉欲の放棄である。 しかし彼の議論の本当の刺は、マキアヴェッリ的な二重基準の観念に与えられた新しい転回にある。 欲望の増殖は、個人の観点から見れば悪いが、政府が適切に方向づけるなら国家の偉大さに資することがありうる。 私的な悪徳は公的な利益である;ゆえにあらゆる部分は悪徳に満ちていた。 それでも全体としては楽園だった。 ……奢侈は 貧者を百万人雇い、そして忌まわしい驕りはさらに百万人を;嫉妬そのものと虚栄も。 産業の奉仕者だった。 マンデヴィルは結論する――愚者だけが努める、偉大で正直な蜂の巣を作ろうと。 シャフツベリとマンデヴィルにおいて、われわれは、おそらく初めて、ロマン的理想主義者とマキアヴェッリ的現実主義者の対立がはっきり露呈するのを見る。 シャフツベリの教説の多くは、古代ストア派、とりわけマルクス・アウレリウスとエピクテトスの教えと密接に関係しているので、シャフツベリが「キリスト教の廃墟の上に異教の徳を打ち立てようとした」とするマンデヴィルの非難には一理がある。 たとえばシャフツベリは、マンデヴィルの言い方を借りれば、「よく訓練された馬を手綱で操る良い騎手が、容易に、しかも即応的にそうするのと同じほどの気楽さで、理性によって自己を統御する」ことを望む点で、ストア主義を越え出ていない。 しかしマンデヴィルが、ストア派や他の異教の道徳家がかつて試みた以上の、人間性へのお世辞をシャフツベリのうちに見て取ることも、まったく的外れではない。 「彼は、人は自分に何の苦労も暴力も加えずに、自然に徳を備えうると想像している。」 彼は、人間という種に善良さを期待し、またそれを要求しているように見える――ちょうど、ぶどうや中国産のオレンジに甘みがあるのを当然とするのと同じように。 人間が自分の同類に対して本能的な愛着を抱くという形で現れる、この自然の善性を根拠に、シャフツベリは「自己否定なしに徳を主張する」最初の人物となった。 「sympathy(共感)」という語が広く用いられるようになったのは、主としてギリシャのストア派による使用の結果だが、ストア派の共感と、シャフツベリに芽生えた感傷主義とのあいだには大きな隔たりがある。 感情の奔流を促すどころか、ストア派が目指したのは「無感動(アパテイア)」であり、より厳格な局面では、人に仕えることはせよ、しかし憐れむことは控えよ、と言うだろう。* シャフツベリに現れ始めている道徳的美学。*セネカ『慈悲について』Ⅱ・4-6参照。 シャフツベリに見られるそれは、古典古代に厳密な類例はないが、ストア派のというよりエピクロス派的である。 さらに進んだタイプの感傷家は、自分の「徳」を示すのに、ただうっとりと胸をときめかせればよいだけだ。* 実のところ、ロマン的理想主義者がこれほど重視する愛や共感は、後に示すように、キリスト教的愛(カリタス)の非理性的なパロディにすぎない。 シャフツベリとその弟子ハチスンの道徳感覚は、ヒュームやアダム・スミスなど感情倫理の唱道者によって発展させられ、後の功利主義者が快楽原理を強調したこととも無関係ではない。マンデヴィルは、人道主義的な共感が「支配の本能」に勝つことはないと否定したが、彼自身が感情的道徳家であったことも忘れてはならない。彼は、人間の自然な情念の中に、場合によっては激しくもなりうる憐憫の情さえ認めている。この憐憫の情を高め、同時に、無知や質素な生活をマンデヴィルが折に触れて称賛したことを真剣に受け取るなら、奢侈と文明そのものの問題に対する原始主義的解決が視界に入ってくる。1 次のルソー(『エミール』第4巻)の一節は、シャフツベリに端緒が見られる、十分に発達した感情倫理の標本となろう。「徳へのこの熱狂は、われわれの私益とどんな関係があるのか……心からこの美への愛を取り去れば、人生の魅力はすべて失われる。 魂の卑しい情念がこの繊細な感情を押しつぶした者、内へ内へと閉じこもるあまり、ついには自分自身しか愛せなくなった者には、もはや高揚はなく、凍った心は喜びに震えず、やさしい感動が涙で目を潤すこともなく、何ものも味わえないのだ。」この種の「熱狂」は、ときに『新エロイーズ』第2部第11書簡のようにプラトン的な色彩を帯びる。しかしプラトンは、ゴンペルツが指摘するところでは(Griechische Denker, II, p. 411)、「ルソーの感傷主義など徹底して軽蔑しただろう」。 ルソーが二つの『論説』で提示することになる、あの自己である。 マンデヴィルは礼節(デコーラム)の側に立ちながらも、礼節が「人工的」であるだけでなく、のちにルソーが言うように、ただの「悪徳のニス」であり「偽善の仮面」にすぎないことを認めている。 彼は、一般に悪徳が最も優勢なのは芸術と科学が栄えるところだと断言し、無垢と正直さが最も広く行き渡っているのは、もっとも無学な「哀れで愚かな田舎者」のあいだにほかならないと言う。 「詐欺と奢侈を追放したいか。 印刷機を壊し、この島の本をすべて焼け。ただし大学にある本だけは、手を触れずに残しておけ。」 マンデヴィルの現実主義によっても、シャフツベリの理想主義によっても、弱められているのは、内面生活の感覚である。 ここでいう内面生活とは、外からの印象と拡張していく欲望とによって形づくられる、われわれの通常の、ないし気質的な自己とは反対方向に動く力が、人間の内に何らかの形であると認めることを指す。 理性主義的倫理と感情倫理が、伝統的な二元論に対して決定的勝利を収めたのは18世紀であった。 同時に、われわれが、長い世俗化の過程の最終段階を扱っているのだということも忘れてはならない。 この過程の政治的反映は、ローマ教権によって理論上、そしてある程度は実際上も統一されていたヨーロッパから、国際法によって相互関係が律せられる大規模な領土国家群から成るヨーロッパへと移行することである。 グロティウスの構想では、国際法はその大部分を自然主義的基礎の上に置いている。 彼の著作の刊行から数年後、新しいヨーロッパはウェストファリア条約(1648年)で承認されるに至った。 各国の枠内において、この世俗化の過程の本質的側面は、神権から人民の権利へ、神の主権から人民の主権へと移っていくことである。 長い移行期には、超自然主義的見方と自然主義的見方が、ほとんどあらゆる比率で混じり合う。 たとえばプロテスタント、とりわけカルヴァン派や、カトリック、とりわけイエズス会は、自然状態、自然権、社会契約といった自然主義的概念を借用したが、それは霊的秩序における、神の主権という原理(そこから導かれる神権的含意を伴う)を、いっそう効果的に主張するためであった。 もちろん、こうして世俗権力が、その権威を上からではなく下から受けるかのように見えてしまう危険を見て取った者もいた。 そこでフィルマーは『パトリアルカ』でこう言う。「近頃の著述家は、狡猾な学者たちからあまりにも多くを鵜呑みにして受け取ってきた。彼らは、王を教皇の下に押し下げることを確実にするため、最も安全な手として、人民を王の上に持ち上げるのがよいと考えたのだ。」 こうしたイエズス会的な侵食に対抗し、ナショナリズムの勃興に重要な役割を果たした教説が、王権神授説と受動的服従の教説である。 エラストゥスが唱えた、霊的権威を世俗権力に厳格に従属させるべきだという主張は、ルター自身によっても後押しされていた。 そしてルター自身の態度は、皇帝を高め、教皇を貶めようとしたオッカムのような中世の理論家の態度とも関係している。 しかし、ルター派が宗教問題の管轄を与えようとした君主(cujus regio, ejus religio)は、普遍的な皇帝のような存在ではなく、一定の限られた領域を、世襲の権利によって統治する者であった。 これに対し、カルヴァンの神権国家は、皇帝を犠牲にして教皇を高めた中世の理論に関連するが、ここでも普遍性の要素は欠けている。 実際には、ルター派国家もカルヴァン派国家も、神のものとカエサルのものとを混同しがちで、個人が世俗権力から逃れて身を寄せうるような civitas dei(神の国)を、どこにも持たない状態に置いてしまう。 したがって、プロテスタンティズムをそのあらゆる形態において、ナショナリズムの勃興における一つの出来事にすぎないと見る人々の意見にも、それなりの根拠がある。 重要な政治的思考の一類型の例として(きわめて不完全ではあるが)注目に値する王権神授説の擁護として、私がいま挙げたフィルマーの著作『パトリアルカ、あるいは王の自然権力』(1680年)がある。 統治の父権的見方を支持する議論は、西洋では実のところ、いまだ十分に展開されたことがない。 アリストテレスらがいかに論じようとも、人類の実際の経験に即して考えるなら、父権的構想にはきわめて強力な要素があると結論せざるをえない。 それは長い時代にわたり、人類の大部分にとって通常の構想であった。 フュステル・ド・クーランジュがギリシャとローマの都市国家と、その家族宗教からの派生を論じた研究のようなものは、China and Japan のような国々に今なお残る政治・社会制度を理解する助けとなる。 残念ながらフィルマーは、父権的構想に十分な心理分析を加え、人間性という現実の事実の中にあるその深い根を掘り起こしてはいない。 彼は同時に、あまりに自然主義的であり、またあまりに神学的でもある。 副題そのものによって、父権的権力が「自然」なものだと宣言する一方で、やや滑稽な推論によって、王の現実の権力がアダムからの直接の血統に基づくことを証明しようとするのである。 父権的・王権の基礎が自然にあることを示そうとした点で、フィルマーは重大に論点を外しているように思われる。 もっと強力で一貫した王権神授説の擁護者は、ボシュエであり、彼の『Politique tirée de l’Ecriture Sainte』(1709年)に見いだされる。 彼はたしかに、すべての法は諸法の第一である自然法に基づくと主張し、自然法を衡平と正しい理性の法として捉える。 しかし総じて彼は、押し寄せる自然主義の潮流に対して、徹底した超自然主義を対置する。 人は自由で平等な者としてではなく、まず何よりも親に従うべき臣属として生まれる。 親の権威それ自体が、唯一の絶対的主権者である神の権威の似姿なのである。 そして親の権威は、今度は王の権威の模範となる。 王の権力は、人民の同意や黙認に依存しない。 それは教皇からも独立している。 しかし絶対的であっても恣意的ではない。上から制御されているからである。 ボシュエは、世俗秩序において君主を高めるが、それは神の前で彼をへりくだらせ、ほとんど耐えがたいほどの責任の重荷を負わせるためである。 「見よ」と彼は言う、「一つの人格のうちに集められた巨大な人民を見よ。この神聖で、父なる、そして絶対の権力を見よ。この国家という身体全体を統べる秘められた理(ことわり)を見よ。 あなたは王たちのうちに神の像を見るのであり、そこから王の威厳という観念を得るのである。」 だからこそ王たちよ、あなたがたの権力を大胆に行使せよ。それは神からのものであり、人類にとって有益なのだから。しかし謙虚さをもって行使せよ。 それは外から、あなたがたの上に課されている。 結局のところそれは、あなたがたを弱いままにし、死すべき者として、罪ある者として残し、そして神の御前で、いっそう重い清算の責めを負わせるのだ。」 要するに王とは、と彼は続けて言う、肉と血の神、土と塵の神にすぎない。 この世の栄華は人をしばし隔てるにすぎないが、死という共通の破局によって、最後には皆が等しくされる。 神への謙虚な従属のもとで王職を行使することは、聖王ルイでさえ、ほとんど成し遂げられなかった。 ルイ十四世については、彼がボシュエの教説の前半(「国家とは我なり」)だけを自分のものにし、謙虚さの方は見落とした、と言いたくもなる。 王権が神から直接に出るのだと主張するにあたって、ボシュエは、神授王権の他の擁護者たちと同様、帝国の中世理論家へと立ち返る。 だが普遍的支配が想定される皇帝はただ一人であったのに対し、同じく絶対を自称する王は何人もいて、世襲の権利によって広大な領域国家を治め、世俗的野心だけでなく、宗教改革の結果として宗教においても衝突した。 実際には、自然状態をどう考えるにせよ、これらの国家の支配者たちは互いに対して自然状態にあったと言える。 ボシュエは統一への愛を推し進め、たとえばナントの勅令廃止(1685年)に見られるように、宗教迫害を助長するに至った。 それでも彼の教説は、遠心的なナショナリズムに対する十分な歯止めを与えなかったばかりか、フランス王と聖職者の自由(ガリカニスム)を強調したために、教会の統一にもむしろ逆らうものに見えた。 ガリカニスムを主張することで、ルイ十四世とボシュエは、中世後期以来の教会の主要な潮流に逆らっていた。 1682年に作成され、ボシュエも署名したフランス聖職者宣言の第四条は、教皇の判断は教会の同意なしには最終的なものではない、と述べている。 しかし、この種の限定的で立憲的なカトリシズムは、公会議運動の挫折によって傷つけられていた。 その日から今日に至るまで、重要な変化はすべて、より強い教皇の中央集権化の方向に進んできた。 この超山岳派的カトリシズムの理論家であり、ボシュエとルイ十四世の敵となるのが、ド・メーストルである。 彼の『教皇論』(1819年)は、第一バチカン公会議(1870年)における教皇不可謬説の教義の最終的勝利を先取りしている。 キリスト教にはかなり早い時期から、ローマ帝国的な組織化と呼びうる主要要素が存在する。 この要素をド・メーストルは、徹底した教皇帝国主義へと展開する。 神授の最高支配者は教皇である。 世俗の支配者は、カトリックである限り、その覇権を認めるべきだ。 ド・メーストルは、こうした硬直した外的権威の観念を、あらゆる個人主義の廃墟の上に打ち立てようとする。 ボシュエは偉大なキリスト教の中心的伝統のただ中にいて、彼を教父たちの最後の一人と呼びたくなるほどだが、それとは対照的にド・メーストルは、立派な人格の持ち主ではあるものの、その著作には内面的生活への感覚が乏しく、彼が攻撃していた18世紀の合理主義者たちと比べても、せいぜい大差ない、と言えるかもしれない。 真のキリスト者の従属は、謙虚さと慈愛に基づく。 ド・メーストルが目指す従属は、主として社会的なものである。 社会の最大の必要は秩序であり、ド・メーストルの考える秩序は、おもに恐怖と抑圧によって達成されねばならない。 彼が有名な章で語るところによれば、社会構造全体の究極の支えは処刑人である。 彼は、教会の諸機関のうちでも、とりわけ超山岳派的で反個人主義的なもの、すなわち禁書目録、異端審問、そしてイエズス会を擁護する。 ボシュエは神授王権の教説をほとんど限界まで押し進め、教皇の神授権を主張する点では、ド・メーストルを超える者はおそらく現れないだろう。 神授に基づく教皇であれ王であれ、絶対で無制限の主権に対する反応は、自然権に基づく人民の絶対で無制限の主権を主張することだった。 人民主権の教説は中世にも見られ、ことにパドヴァのマルシリウスに顕著であり、17世紀初頭にはアルトゥジウスによって、かなり急進的な線に沿って体系化される。 しかし実際には、この教説の展開においてルソーの最も重要な先駆者となるのはロックである。 1690年の『統治二論』のうち第一論は、彼が反駁しようとした神授権の特殊な形態、すなわちフィルマーの『パトリアルカ』とともに、もはや関心を失っているが、第二論はなお政治思想の主要な画期をなしている。 この著作の由来を理解するには、初期ギリシア思想家が打ち立てた自然と慣習の対比に立ち返り、そこから生まれた自然法の観念が、ストア派の影響のもとでローマ法に体現されるに至ったことをたどり、最後に、そのローマ法学的観念が数世紀を経て、ロックのような著者においてついに人権の教説となる過程を追わねばならない。 ロックが主張した自然権の教説はアメリカ独立革命を先取りし、ルソーによって修正されることでフランス革命を先取りする。 ロックは自然権を、王権の特権の党派に対してだけでなく、ホッブズのようなマキャヴェリ的リアリストに対しても擁護しなければならなかった。 ホッブズにとって自然状態とは、自由、平等、そして戦争である。 したがって彼は、平和のために、個人が契約によって自分自身の身体に対する自由、すなわち無制限の主権を一度きりで放棄し、専制者のもとで平等を享受するよう求める。 これに対してロックにとっては、時おり原始主義的な色合いを帯びるとはいえ、自然状態は自由、平等、そして理性である。 それは「平和、好意、相互扶助、そして保全の状態」である。 実際、自然法は神の意志と同一なのである。 (あるいは、少し後にポープが言うことになるように、「自然状態とは神の統治であった」。) ロックは、霊的秩序と世俗的秩序とを実際に混同するほどで、力への訴えを意味するときに「天への訴え」と語る。 しかし彼は、自然状態には一定の不利もあること、とりわけ私有財産の安全に関わる点でそれが問題となることを認めている。 財産を完全に保障するには、自然法に加えて、偏りのない裁判官が執行する実定法が必要であり、裁判官の判断を正当に実行させるには、組織化された国家の強制力がまた必要となる。 したがって、人々が自然状態に代えて確立した政府を置く契約の第一の目的は、共有善を確保することであり、それは財産の保護と同一視される。 財産そのものの源泉は、そしてこれは極めて重要な点で、後に立ち返らねばならないのだが、手による労働である。 人民の意思は、多数者の意思として構想され、最高のものとされる。 ただしこの意思は直接にではなく立法府を通じて表明され、人民意思の機関である立法府が、行政府と司法府の双方を支配することになる。 実際のところ、ロックの論考は、1688年の革命の帰結、すなわち国家の最終権力が王から議会へ移ったことを反映している。 立法府は、とくに共通の利益、すなわち財産の安全に関わるあらゆる事柄において、行政府に対する統制に格別に警戒的である。 (代表なくして課税することは専制である。) 1『第二論』第3章。2同書第11章。 神授権の理論家であるボシュエでさえ、統制されない行政府の危険を認めている。 「率直に認めよう」と彼は言う。「権力ほどの誘惑はなく、人々がすべてを与え、あなたの欲望を先回りして満たそうとし、さらにはそれを煽ろうとさえする時に、何かを自分に禁ずるほど難しいことはない。」 ロックに関して言えば、人によって制限されなくとも、自分より上位のものに対する責任によって統治者は制限されうるのだ、と主張する人々に、わざわざ答える価値すら認めていない。 彼にとって王は、他の王たちに対してだけでなく自国の臣民に対しても自然状態にあり、そうして拘束を欠くがゆえに、へつらいで腐らされると同時に権力で武装している。 ロックはこのように統制されない王の意志には警戒しているのだが、反対側の危険に対して何ら手当てをしているようには見えない。 彼自身が人民主権をいかに穏健に解釈しようとも、その主権が新たな絶対主義へと発展するのを防ぐものを、彼の理論のうちに見いだすのは容易ではない。 人民は立法者に対して法的統制を行使するだけでなく、立法者が人民の利益に反して行動しているように見えるなら、蜂起して彼らに抵抗する権利をもつ。 つきつめれば、無制限の民主政の害悪を抑える唯一の歯止めは、何らかの形で貴族的原理を認めることにある、という結論に至る。 そうした認識はロックにはまったく欠けている。 自然権の論理そのものが、少なくとも力以外の根拠にもとづくかぎり、敬譲と従属という考えに反する。 自然状態においては、ロックによれば、すべての人間が等しく王であり、誰にも従属しない。そしてこの平等は、社会契約の結果としても大きくは減じない。 ロックは、アリストテレスや孔子にとってきわめて重要に思われる政治問題、すなわち指導の問題を、ただ回避しているにすぎない。 ロックのうち急進的で平等主義的な側面が発展するのが遅かったのは、イギリス人の特質である。 彼が理論家となった1688年革命は、伝統的な従属関係の存続によって権力と威信を得ていた寡頭制に、統治の統制権を与えた。 教義的な正当化を欠く貴族政で統治を続ける、というホイッグの立場の困難は、やがて明らかになった。 この貴族政は、改革法(1832年)の時期に事実上退場した。 ロックの時代に動き始めていた運動の完全な帰結が、われわれの時代になってはじめて露わになりつつある。 人民、とりわけ大都市中心部の人民は、ロックに促された功利主義的気質に深く染まり、そのせいでおそらくは尊敬に値しなくなってしまった代表者たちを、もはや敬意をもって見上げない。 貴族的原理が指導の必要を否定する平等主義に押し退けられ続けるなら、議会政治はいずれ不可能になるかもしれない。 ロックの狙いは、人間性を、哲学上の先行者たちよりも経験的ないし実験的な仕方で扱うことにある。 同時に、デカルトの影響を示す強い合理主義的側面も彼はもっている。 想像力や拡張しがちな欲望に対して、補助なしの「理性」が人間のうちで勝利しうると主張する点で、ロックもデカルトも、ストア派の立場を新たにしている。 これに対しパスカルが、理性は単独ではそれほど容易に勝利できず、むしろ「想像力がすべてを支配する」と言ったのは、観察される事実により近く、したがってより真に実験的であるように思われる。 ロックによれば、想像力は慣習や伝統に具現化し、それらは理性の観点からは単なる偏見として退けられうる。 このように理性と偏見を対置することによって、ロックはデカルトと並び、「啓蒙」と呼ばれるヨーロッパ文化の時代に主要な影響を与える。 ロックのフランスおよびヨーロッパ一般への影響において、おそらく誰よりも大きな役割を果たしたのは ヴォルテールであったが、政治理論の分野では、他方、この影響はモンテスキューに即して検討するのが最も適切であろう。ロックと同様、彼は行政府に対する議会の統制、とくに課税および予算関連法案の発議に関わるすべての点での統制を擁護する。 しかし彼は、ロックよりも立法・司法・行政をより明確に分け、司法と行政を立法からより独立させて、それぞれの統治機能が相互に抑制と均衡として働く体系となるようにする傾向がある。 よく知られているように、アメリカ初期の政治理論に最も影響を与えたのは、モンテスキューのこの側面であった。 とはいえ、アメリカ憲法の起草者たちをモンテスキューの純粋な弟子と見るのは、よほど敵意ある批評家だけであろう。 彼らは、モンテスキューにはほとんど主張しがたいものを、顕著な程度に備えていた。すなわち実際的な賢明さである。 マキャヴェリの政治観に比べれば、モンテスキューの政治観には非現実の空気がまとわりついている。天使のようなジュベールでさえ、モンテスキュー一巻から学ぶより、マキャヴェリ一頁から統治の技術を多く学べると言ったほどである。 さらに、われわれ自身の憲政の政治家たちも、多くの場合モンテスキューの一般哲学を共有してはいなかった。 この哲学は『法の精神』(1748年)に見られるかぎり、いくつかの不整合を抱えているが、全体としては、ロックのそれと比べても、純粋な自然主義の方向への著しい前進を示している。 (参照:J. デデュー『モンテスキューとフランスにおけるイギリス政治伝統』。)神学的な見方はさらに社会学的観点へと後退し、モンテスキューを社会学の創始者と見る者さえいるほどである。「彼ほど宗教心のない精神はかつてなかった」とファゲは言うが、実際、彼は内面生活の価値に対する感覚をほとんど完全に欠いている。真に宗教的であるにせよ人文主義的であるにせよ、人は、神の恩寵という形であれ自由な道徳的選択という形であれ、個人の心のうちに、彼を身体的自然の上へ引き上げうる力を主張しなければならない。彼が認める三つの主要な政体類型、すなわち君主政・共和政・専制政において、モンテスキューはそのような固有に人間的な要因にほとんど重みを与えない。キリスト教に儀礼的敬意は払うものの、彼は決定論と物理的原因の支配へ傾き、よく知られているように気候と国民性の関係をとくに強調する。したがって、法は何か絶対的なものとしてではなく、その一般精神が国民性と一致しなければならない、とする彼の主張は、エートスを強調するアリストテレス的立場とは大きく異なる。 というのも、アリストテレスも気候の影響は認めるが、総じて彼の関心は、自然が人間をどうするかより、人間が自分自身をどう作るかにあるからである。 モンテスキューの見方では、宗教さえも大部分が気候の問題である。 気候が、世界のどの地域がイスラム教徒になるか、どの地域がキリスト教徒になるかを定め、さらにキリスト教の内部でも、どこがプロテスタントになりどこがカトリックになるかを定める。 「良識」もまた、どうやら気候の産物であるらしい。この自然主義的相対主義は、倫理の基礎そのものに革命を含意する。 事実、モンテスキューには、徳という語を伝統的意味で用いていないのだ、とわれわれに警告するだけの分別がある。 『法の精神』第24巻第26章。 同書第14巻第3章。 同書第14巻第5章。 「私が共和政において徳と呼ぶものは」と彼は言う。「それは道徳的徳でもキリスト教的徳でもなく、祖国愛、すなわち平等への愛である。」 彼は、この共和政的な平等愛は、必要な従属関係と両立しなくなるほど押し進めてはならない、という命題を見事に展開している。 ボシュエなら明白にこう答えるだろう。従属が力以外の原理に立脚するためには、人間の通常の意志がより高次の意志に服することを含意しなければならず、言い換えれば、それは究極的には謙虚さに根を下ろしていなければならない、と。 もっとも、モンテスキューは時に、共和政的徳と宗教的統制との関係を認めているようにも見える。 彼は有名な一句でこう言う。「ローマは嵐の中、二つの錨――宗教と風俗――でつながれた船であった。」 この伝統的エートスが衰退すると、奢侈が増し、自由は衰えた。 モンテスキューは、君主政の根本原理である名誉を、外面的で形式主義的な仕方で捉える。 それは、彼が定義する意味でも、また伝統的に理解されてきた意味でも、徳とはほとんど関係がない。 しかし、貴族的原理のこの形態を扱う彼の議論は、それがルイ十五世時代に貴族が実際にどうなっていたかを忠実に反映しているとしても、ノブレス・オブリージュという格言の含意に十分な正義を与えているとは言いがたい。 紳士(オネット・オム)が名誉崇拝と結びつけて保とうとした人文主義的な均衡のうちに、彼が見いだすのは、宮廷人が王の寵愛を奪い合うさまを覆い隠す、礼儀正しさの薄い上塗りにすぎない。 もっとも別の章では、そしてこれは彼の不整合の好例だが、奢侈を擁護するマンデヴィルの議論を採用している(同書第19巻第9章)。 モンテスキューによれば法と政府は相対的であり、とりわけ物理的原因に対して相対的なのだから、人間がそれらの原因の働きに介入して得るものは多くない、と考えてよさそうである。 しかし実際には、モンテスキューには別の側面があって、人間は人文主義的・宗教的な線に沿って内側から自分を変えることはできないとしても、気候だけでなく制度によって外側から変えられうるし、その制度は多かれ少なかれ進歩的な性格を持ちうる、ということを示唆している。 要するに、彼は偏 見に対する理性の最終的勝利への、啓蒙人に典型的な信頼を示している。 彼の影響は、とりわけ18世紀末に多く見られた、政治機構を巧みに操作すれば社会を刷新できると望み、紙の憲法の効力をほとんど無制限に信じた人々のうちに跡づけられる。 いま私は「進歩」という語を用いた。 実際、近代自然主義に固有の色調を与えることになる進歩観は、まさにモンテスキューの時代に明確な形を取り始めたのである。 この観念のごく萌芽は、ストア派であれエピクロス派であれ、ギリシャとローマの古代自然主義のうちに見いだされるにすぎない。 進歩観の究極の源泉は、ルネサンスにおける科学的方法の最初の勝利にある。 イングランドでの初期形態では、それはベーコン主義的影響と王立協会(1662年)の創設と結びつき、実践的で経験的な傾向を帯びる。 フランスでの初期形態では、それはデカルト的影響と結びつき、より抽象的で論理的になりがちである。 ベーコン主義的潮流とデカルト的潮流は18世紀に、とりわけフランスで合流する。 その結果、人間は完全化しうるという確信がますます強まっていく。 サン=ピエール修道院長は、いわば「職業的慈善家」と呼びうるタイプの、すでにかなり完成した標本である。 ディドロら『百科全書』派は、伝統的な神の王国に代えて、ベーコン主義的な人間の王国を据えようと意図的に乗り出した。 しかし同時に、この新しい教説が、ここ数世代にわたり西洋の真の宗教となってきた「人類の宗教」へと発展するには、なお欠けているものがあった。 ここまでの運動は、主として合理主義的であった。 その主要な達成は、主にデカルト的な線に沿って普遍的機械論の観念を展開し、一定で硬直した法則体系として構想された自然を、旧来の二元論者たちが何らかの形で主張してきた自然法への摂理的介入と対置したことにあった。 したがってボシュエのようなキリスト教的超自然主義者が、自然主義的傾向に対する宗教擁護の中心に摂理の観念を据えたのは、彼自身の立場からすれば正当であった。 摂理の代わりに法の観念を置くこと自体は、厳密な実証主義者の観点からは、荒唐無稽な企てではない。* しかしその場合、内面生活の真理を保持しようとするなら、物にも法があるのと同様に、人間にも法があるとして、二つの法を主張する必要があったはずである。 ところが新しい運動の眼目は、まさにそのようなことを一切しなかった点にあった。 それは自然秩序と人間秩序の双方を単一の法のもとにまとめ、さらにデカルトの先導に従って、この一つの法を数学的・機械的な公式へと還元しようとしたのである。 *たとえばブッダが最終的に敬意を捧げたのは、キリスト教的意味での摂理ではなく、法(「ダンマ」)であった。言うまでもなくそれは、物理的自然の法とはまったく別の法である。 もちろん、古い二元論から近代の一元論的観念へ移行する途中の重要な媒介段階である理神論の運動においては、摂理の観念は一応の形でなお保持されている。 しかしこの理神論的摂理は、真のキリスト教のように直接には働かず、自然の法則を媒介として働くのであり、それゆえ摂理は、人間の利益に特に資するよう自然の法則を工夫したものと見なされた。 ここから、多くの理神論者が目的因の教説を強調し、自然秩序を通じて人間の善のために働く摂理という自分たちの理論とどうにも整合しないかに見えるリスボン大地震のような出来事に当惑したことが理解できる。 理神論の運動は、そして実のところ先に述べたとおり、ルネサンス以降の自然主義運動全体もまた、ここまで主として合理主義的であった。 しかし、単なる合理主義が人間を満たさないことは、あらゆる時代を通じて人間が絶えず経験してきたことである。 人間は、言葉のどの意味にせよ、ただ合理的な自己から自分を引き上げてくれる熱狂を渇望する。 啓蒙の代表的人物ともいうべきヴォルテールでさえ、幻想こそが人間の心の女王だと述べた。 政治思想の領域では、人権の観念は、それが仮説的な自然状態から抽象的推論の過程だけで導かれているかぎり、比較的不活発なままであった。 ルソーの言葉を借りれば、「冷たい理性は、いまだかつて何一つ輝かしいことを成し遂げたためしがない」。 ルソーには、イングランドの背景についてすでに述べたことからも分かるように多くの先駆者がいたが、人権の教説に、それまで欠けていた想像力と情動の推進力を与え、同時に人類の宗教に不足していた要素を補ったのは、何よりも彼であった。 伝統的秩序をルソーに対して擁護した人々の中で、バークが容易に第一といえるのは、彼もまた自分なりの仕方で、「冷たい理性は何一つ輝かしいことを成し遂げない」という真理を見抜いていたからである。 彼は、意味のある保守主義とは想像力の保守主義にほかならないことを理解していた。 したがって、ことさら奇をてらうことなく、18世紀末以来政治思想の領域で続いてきた戦いを、その最も重要な局面においては Burke and Rousseau の精神の戦いだと見なすことができる。 そしてこの Burke and Rousseau の対立自体も、突き詰めれば二つの異なる想像力の型の対立へと帰着することが分かるだろう。 第II章 ルソーと牧歌的想像力 ルネサンスから18世紀にかけての時期は、第一章で示したとおり、外的権威およびその権威が押し付けようとした超自然的信念から、個人が次第に解放されていく過程によって特徴づけられていた。 個人はその新たな自由を用いて伝統宗教の批判的等価物を作り上げたのではなく、むしろいよいよ自然主義的になっていった。 同時に彼は、典型的な政治的自然主義者であるマキャヴェリの理論とは正反対の極にある統治論にしばしば耽溺した。 というのも、過去においては人文主義的のみならず宗教的な鍛錬の、苦労して得られる果実だと見なされてきた一定の徳が、ますます「自然」と結びつけられるようになったからである。 もしこの結び付けの正当性が確立されるなら、私が出発点とした、エートスと統治の必然的関係に関するアリストテレスの一般化は、明らかに放棄せざるをえないことになる。 しかしアリストテレスを見捨てる前に、通俗化していった「自然状態」という解釈の中に、何らかの詭弁が潜んでいないかを検討しておくのがよいだろう。 自然状態、ならびに実定法と組織化された社会に先行する自然の法(自然法)の観念は、見てきたとおり、決して新しいものではない。 それは古典古代に、とりわけストア派の間で現れ、ストア派の影響がローマ法に浸透したことによって、主として中世を通じて生き残った。 さらにそれは、先に述べたとおり、ルネサンスがストア派の* ほかの古代的源泉へ直接立ち返ったことによって、再び強化される。 そのうえ教父たちの時代にすでに、想定された自然状態を堕罪以前の人間の状態と同一視し、その状態に共産主義的な色合いを与える傾向、そして同時に、人間が無垢から転落したことと私有財産の成立とを結び付ける傾向が見いだされる。^ もっとも自然の法はそれ自体の仕方で神的だと考えられてはいたが、啓示によって知識を得る神の法の権威には、結局のところ比べようもなかった。 神の法のこの実定的形態を保持しているかぎり、自然状態を主張しても、それは人間のうちに「古きアダム」が生き残っているという生き生きとした確信によって必ず緩和された。 たとえばフッカーは、『教会統治論(Ecclesiastical Polity)』を1592年に刊行したが、自然法に関する彼の多くの考えはロックを先取りしている。 しかしこの法を主張しつつ彼はこう宣言する。「人々の間の外的秩序と統治のために定められる政治的法律は、人間の意志が強情で反抗的であり、その自然の聖なる法にいかなる服従も嫌うものだと前提しないかぎり、決してあるべきようには作られない。要するに、堕落した心に照らせば人間は野獣と大差ないと前提しないかぎり、である」。 フッカーとロックの間の時期に、人間の堕落に関する確信は著しく弱まっていく。 グロティウスはすでに、たとえ神も実定的啓示も存在しないとしても、政治の事柄において人間は、正しい理性の法として構想された自然法によって正しく導かれうると断言している。 ・参照:L. Zanta, La Renaissance du stc/icisme an xtri^ siide. ストア派の影響はここにも跡づけられる。セネカ『書簡集』XIV・2参照。あわせてF. J. C. ハーネショー編『中世の偉大な思想家数名の社会・政治思想』43頁参照。 理性のこの賛美と並んで、16世紀にまでさかのぼって、のちにその最も特徴的な表現の一つとして「高貴な野蛮人」崇拝へと結実することになる、本能の萌芽的な賛美が見られる点にも注意しておくべきである。 しかし本能の賛美が、倫理の基盤そのものに影響を及ぼすほど明確に感情的な色彩を帯びるのは、18世紀初頭になってからにすぎない。 シャフツベリの「道徳感覚」説と、そこに含意される本能的な善性は、広く、しかも即座に人気を博した。 たとえばジョン・ホーキンズ卿は『ジョンソン伝』でこう述べている。「彼(フィールディング)の道徳は、徳を善い感情へと還元する点で、道徳的義務や義務感と相反しており、シャフツベリ卿の説を通俗化したものだ。 彼は『心の善さ』という、あの気取った言い回しの発明者であり、 それは日々、廉直さの代わりに用いられているが、意味するところはせいぜい馬や犬の徳に近い。」 私がすでに述べたとおり、楽観的自然主義者シャフツベリだけでなく、自然主義的な冷笑家マンデヴィルもまた、ルソーの感情的倫理への道を準備した。 ルソーによれば、自然状態は理性の状態ではない。 それどころか、考える人間はすでに高度に洗練されており、ルソーの言い方では「堕落した動物」である。彼によれば、自然状態の人間は孤立しており、しかも同時に本能に支配されている。 しかしこの孤立した単位は、ホッブズが主張したように、自愛の本能にそこまで支配されて互いに戦争することにはならない。 自然人にはもう一つの本能、すなわち同類が苦しむのを見るのを本能的に嫌う性向があり、それだけで自愛に対する十分な釣り合いとなる。 ルソーは、この二つの原理、自愛と本能的な憐れみとの合流と結合から、自然権のあらゆる規則を導き出そうとする。 「人間の徳を最も無法に貶める者」(すなわちマンデヴィル)でさえ、とルソーは言う、「自然の憐れみを認めざるをえなかった。ただし彼は、この性質だけから社会的諸徳 すなわち寛大、慈悲、博愛、人間性、善意、そして友情そのものが生じることを見なかったのであり、しかも彼はそれらを人間から奪おうとしているのだ。」 実際、洗練されていない人間、すなわち憐れみと自愛という原初の本能にのみ従う人間を考えるなら、彼は「自然の単純な衝動に最も抵抗しない者こそが最も徳のある者だ」と結論せざるをえない。 ショーペンハウアー*によれば、憐れみに基礎を置くことで道徳を変革したことこそ、ルソーの輝かしい業績であった。 この業績の帰結として注目すべきなのは、いま引用した一文にも明らかなように、「徳」といった語の意味が変容することである。 事実、18世紀を研究すればするほど、近代のほかのあらゆる革命に先立って、当時およそ「辞書における革命」が起きていたことが、いよいよ明白になる。 ルソーが「徳」という語を再鋳造したことを十分に理解するには、ひとまず「First Discourse」(1750年)へ立ち返る必要がある。 彼はそこで、徳と、芸術と科学の陶冶から必然的に生じると彼がみなした洗練と奢侈との両立不可能性を主張する。 奢侈の侵入によってローマや他の大国が掘り崩されていくさまを述べるくだりで、彼は数えてみると実に43回も「徳」という語を用いている。 しかし、彼が同時代を悩ませた奢侈の問題の解決を論じるにあたって、本当にファブリキウスやリュクルゴスやカルヴァンの徳を回復しようとしているのだ、と考えるべきではない。 彼が奢侈に対置するのはむしろ、自然と素朴な生活への回帰であり、彼が構想するその素朴さは、じつに徹底して素朴であるべきものなのだ。^ 彼の徳とは、本能的で理性以前のものの賛美にほかならない。 だからこそジュベールが、自分の立場から見て「ルソーは人々に徳について語りかけることで、人間の魂のうちの知恵を破壊した」と言ったのは、もっともなのである。 * ショーペンハウアー『Grundlage der Moral』I 19, 9。 「First Discourse」における徳は明らかに原始主義的だが、「第二論文」では、それが憐れみの観念と結び付けられることで、本質的な付け加えを受けた。 見てきたとおり、ホッブズにとって自然状態とは自由・平等・戦争を意味し、ロックにとっては自由・平等・理性を意味した。 これに対してルソーは、戦争も理性も、ともに社会的洗練の結果であると言う。 真の自然状態とは、自由・平等・兄弟愛的な憐れみである。 ホッブズを反駁し、理性の代わりに友愛を据えたことによって、ルソーは自然主義に、それまで欠けていた推進力を与えた。 こうして自然主義は、古い福音と同様に愛へと帰結するかに見える、新たな福音へと発展させることが可能になった。 たとえばM・ボルド『Dernière Réponse』参照:「必要なら、彼らに草を食ませてもよい。私は、人間が都市で互いに食い合うくらいなら、野で草をはむのを見るほうがまだましだ……本能の側に立って理性に逆らう決断を、はたして下せるのか。まさにそれを私は求めている。」 このように、拡張してゆく感情として愛を捉える発想は、私がすでに述べたとおり、キリスト教的な愛(慈愛)を戯画化した一種のパロディである。 自然状態においては、どうやらすべての人が等しく憐れみの能力をもつ、と考えられる。 しかし現実の社会では、憐れみの強調は、一種の逆さまの序列を打ち立てることにつながる。 キリスト教では、人の霊的な位階は神への近さによって定まり、それはまた慈愛の熱情によって示されるのと同様に、新しい福音では、人は自然への近さによって評価され、それはまた同情の温かさによって示されることになる。 さて、素朴な民衆の人間においてこそ、生来の生き生きした衝動は「思考の青白い影」によって最も損なわれにくい。 「愛は貧しい者が横たわる小屋の中に、彼は見いだした。」 社会的階梯を上るにつれて愛は減少し、頂点に近づくほど、それは反対物へと置き換わっていく。 富者についてルソーは、「いったん人肉の味を覚えれば他のどんな食物も拒み、以後は人間だけをむさぼり食おうとする、貪り食う狼」にたとえている。 実のところルソーは、旧来の神学に代わって人間の想像力を支配する点で、少なからず成功を収めた新たな一群の神話を、せっせと作り出しているのである。 古い神学では、すべてが人間の「神からの堕落」にかかっていたのと同じく、ルソーでは、すべてが人間の「自然からの堕落」にかかっている。 この堕落における最初にして決定的な一歩、そして社会悪の源泉は、ルソーのおなじみの説明によれば、土地所有という形での私有財産の発明であった。 財産の発明とともに、「平等は消え去った」。 「労働が必要になり、広大な森は、人間の汗で灌がねばならない微笑む野へと変わり、その中で奴隷制と悲惨が、作物とともにまもなく芽生え成長するのが見られた。」 要するに、悲惨は産業の結果なのである。 ルソーがこのように作り上げている神話の底にあるのは、明らかに新しい二元論である。 古い二元論は、善と悪の葛藤を個人の胸中に置き、堕罪以来悪があまりに優勢であるがゆえに、人間は謙虚であるべきだとしたが、ルソーではこの葛藤が個人から社会へと移される。 ルソーに古い二元論の名残があることは疑いないが、彼の仕事の実際の影響がほとんど全面的に新しい二元論と結び付いてきたことも、同様に疑いない。 彼自身、この新しい二元論のうちに、ヴァンセンヌへ歩いて向かう途中、道ばたの木の下で自分に訪れたという黙示録的幻視の本質を見たのである。 彼が言うところでは、彼の著作を導く原理は、悪徳と誤謬が人間の本性には異質であり、外部から持ち込まれるのであって、要するにそれらは人間の制度に由来するのだ、と示すことにある。 そして制度とは、実際にはそれを運営する者たちを意味する。 人為的な序列の頂点にいる少人数、すなわち王や聖職者や資本家が、いわば蓋の上にどっかと座り、(シェリーの『縛を解かれたプロメテウス』にあるように)人間本来の善が奔流となって噴き出すのを押さえつけているのだ、というわけである。いずれにせよ悪いのは「自然」ではない。自然だって?違う、断じて違う。 王や僧や政治家は、人間という花を、まだ柔らかな蕾のうちから枯らしてしまう;彼らの影響は、荒廃した社会の血の通わぬ静脈を、微妙な毒のように突き抜けて走る。 この奇妙な二元論がどこから生まれたのか、すなわち「ジョージ三世とペイリーとエルドン卿が、いかにして自然から独立した存在を持つに至り、自然の善き目的をことごとく無に帰す力を獲得したのか」という問題は、シェリーについてレズリー・スティーヴンが言うとおり、「つい問わずにはいられない類いの問い」の一つである。 ルソーの二元論についても、同様の問いが生じる。 しかし多くの人々は、自然の善性という神話を、そんな無遠慮な詮索にかけようとはしてこなかった。 それ自体きわめて気持ちのよい話であるばかりか、神学的悪夢から逃げ出す便利な抜け道を与えてくれるように見えるからである。 とりわけそれは、社会的序列の底にいる者たちの自尊心をくすぐった。 キリスト教は最善の形においては富者を謙虚にしようとしてきたが、ルソー主義的福音の避けがたい効果は、貧者を誇らせ、同時に自分は陰謀の犠牲者なのだと感じさせることである。 社会と法の成立は、「巧妙な簒奪を取消不能の権利へと変え、少数の野心家の利益のために、以後人類全体を労苦と隷属と悲惨へ服従させる」ことを可能にした。 『第二論文』のこの種の文章が、いまなお爆弾を投げるアナキストにとって直接の霊感の源であるとしても、さほど驚くには当たらない。ここで聞こえてくるのは、ルソーの他の著作でもそうだが、愛の名において実際には憎悪と階級闘争を煽っている、怒りと嫉妬に満ちた平民の声である。 『エミール』にはこうある、「私のうちで最も壊しがたかったのは、誇り高い人間嫌い、つまり世の金持ちや幸福な人々に対するある種の辛辣さであった。まるで彼らが私の犠牲の上にあるかのように、まるで彼らの所谓の幸福が私のものから簒奪されたかのように」。 ※この点に関するフランスの判事の証言として、L. Proal『L’Anarchisme au xviiie siècle』Rome philosophique 第82巻、pp.135-60, 202-42 を見よ。 ルソー主義的な筋書きで社会的不平等に十字軍を起こす者は、単なる熱狂家にとどまらず、容易に狂信者になりうる。 この感情の解放こそが、一見すると、ルソーの自然解釈の本質的側面であるように思われる。 デカルト派の合理主義的で機械的な自然に代わって、自然とは自発性であり、それは拡張し、さらには爆発すらしかねない情緒主義の意味での自発性である。 ルソー自身こう言う、「私は理性を船外へ投げ捨て、自然に相談した。つまり、理性とは無関係に私の信を導く内なる感情に相談したのだ」。 しかしよくよく見ると、ルソーには情緒主義よりもさらに根本的なものがあることが分かる。それは彼特有の想像力の質である。 この点を明らかにするには、『第二論文』で彼が打ち立てている自然と人為の対比を、いくらか注意深く考えねばならない。 この対比に到達する彼の方法は、ある点で現代の進化論者のそれに似ている。 人間本性を理解するためには目的を見よとアリストテレスが促すのに対し、ルソーは進化論者のように、手探りで起源へと遡れと言うのである。 原始人から文明人への変化は、いくつかの中間段階を伴う緩慢な発展として描かれ、各段階はルソーによれば「数千世紀」を費やしたという。 人類全体の進展をこのように段階を追って描き出したことは、ついでに言えば、ドイツにおける数多くの歴史哲学の勃興を助けた。だがルソーの自然は、一つの点において、歴史哲学者の大半の自然とも、あらゆる進化論者の自然とも、激しく食い違っている。 進化論者は、空疎な仮説を弄する自由を得るために先史時代へわれわれを連れ去りがちではあるが、進化過程のいかなる段階の自然にも、憐れみの源を見いだしたりはしない。 自然状態に憐れみを帰属させたことで、ルソーは実際、『第二論文』でこの状態を論じ始める際の一句、「まずあらゆる事実を脇に置こう」という宣言を大いに正当化してしまったのである。 ルソーの自然の鍵、そして無数のルソー主義者にとって理想と見なされてきたものの鍵は、現実の世界に自分の気に入る人間を見いだせなかったので、彼は自分のために「幻想の黄金時代」を作り上げたのだ、という彼の告白にある。 つまり彼の自然とは、私が別のところで述べたように、田園的想像力の投影にほかならない。 ファゲは、ルソーが大衆の心に残した像は、桜の木の上の紳士が下の二人の乙女にさくらんぼを投げ落としている姿だ、とこぼしている(『告白』にあるガレ嬢とグラッフェンリート嬢の逸話)。 だが結局のところ大衆の見方も、ルソーの本質的態度という点では、そう見当外れでもないのかもしれない。 ルソーの著作に目を通せば、牧歌の主題の変奏がいかに多いかに、否応なく気づかされる。 ルソーのように、この田園的な仕方で豊かに、しかも自発的に想像することが些細だなどと、誰も思ってはならない。 ある黄金時代、あるいは心の望む国への憧れほど、普遍的な人間的特性はおそらくない。 この憧れは、世界の芸術と文学の大きな部分を鼓舞しただけでなく、哲学や宗教にも入り込んできた。 エデンの園の物語には田園的要素が明白に存在し、『雅歌』はミルトンによって「神聖な牧歌」と呼ばれ、初期キリスト教徒の千年王国的渇望もまた、同種の想像力と無縁ではない。 『バガヴァッド・ギーター』のクリシュナは少しも牧歌的ではないが、インド版のこの詩に口絵としてしばしば用いられる絵では、クリシュナは牧笛と牛を伴い、ゴーピーすなわち羊飼いの娘たちに囲まれて描かれている。 ※Richard Fester『Rousseau und die deutsche Geschichtsphilosophie』参照。 『M. de Malesherbes への手紙』1762年1月28日。 ここで我々の関心があるのは、この種の想像力と近代の政治的理想主義との関係である。 煽動家が、現存する社会秩序の破壊ののちに到来する幸福を絵に描いて群衆を煽り立てるとき、彼がとりわけ訴えかけるのはこれである。 イギリスの画家エドワード・リアは、革命の年である1848年、自分がシチリアのある町に滞在していた、と語っている。 彼は数週間町を離れ、絵やその他の品を一室にしまい込み、鍵を宿屋の主人に預けた。 戻ってみるとちょうど革命が起きたところで、給仕たちはキアンティで頭がいっぱい、愛国的熱狂に酔いしれていた。 彼は服を取り出したいので部屋の鍵をくれないかと、恐る恐るその一人に尋ねた。 するとその給仕は、黄金時代の夢から日々の生活の些事へ引き戻されることを徹底して拒んだ。 彼は憤然として叫んだ、「もう鍵も部屋も服もないんだ」。 「あるのは愛と自由、ただそれだけだ。 おお、なんと美しい革命だ!」 ところが不幸にも、現実が理想のために消え失せてくれないとき、単純な人々に、失敗の原因は理想そのものではなく何かの陰謀だと思い込ませるのはたやすい。 ルソーのこうした子供じみた弟子の一人について、Anatole France は、運命が彼に課した料理人という職業に、黄金時代のために生まれたエリュシオンの魂を持ち込んでしまったのが不運だった、と語っている。 彼はこの上なく優しい楽観主義によって、最も野蛮な残虐へと導かれたのだった。 Anatole France が付け加えるように、人間は生まれながらに善良で徳があるという前提から出発すると、最後には必ず、人間を皆殺しにしたくなるのである。 十八世紀以後の時代に際立つのは、一般大衆だけでなく指導者たちまでもが、田園的想像力の誘惑に従ってきた度合いの大きさである。 こうしてシラーは、牧歌を文学の第一位にまで高め、理想と結び付けた。 私は別のところで、牧歌は文学においてそのような地位に値しないことを示そうとした。 政治行動の基礎としては、なおさら疑わしいと言うべきであろう。 リンカンは友人スピードにこう書いている、「君と僕の二人には、地上のいかなるものも実現しえないほどのエリュシオンを夢見てしまう、特有の不幸があるのだと、私は確信している」。 リンカンは、こうしたエリュシオンへの憧れにおいても、その他の点でも、きわめて人間的であった。 しかし実際の政治活動において、彼はエリュシオン的ではなかった。 「この話はテニスンのお気に入りだった。ウィルフリド・ウォード『Problems and Persons』204-205頁から抄録する。」 この後の章では、リンカンとは違って、田園的なタイプの「幻視」を政治や経済の領域へ持ち込んださまざまな人物を、より詳しく検討することになる。 ここで私が示したいのは、ルソー自身の場合、彼の感受性でさえ想像力に従属しており、その想像力が彼の言う「自然」というアルカディア的状態を呼び起こすがゆえに、 彼の感情がそれへ向かってあれほど自由に広がっていく、という点にほかならない。 だが、ルソーをただ田園的で感傷的な夢想家として示すのは、たとえば「社会契約(『社会契約論』)」のように、彼が厳格で冷徹な論理家として姿を現す著作の一面を忘れている、という反論もあるだろう。 ルソーの論理に折に触れて厳しさがあることは認めよう、しかしそれが冷徹だというのは別の話である。 架空の自然状態という前提から出発するその論理は、既成のあらゆるものに対する感情的反抗を正当化する結論へと導き、まさに「ローマの石ころさえ立ち上がって反乱する」ほどの力を持つ。 たとえば暴君の臣民が(「社会契約(『社会契約論』)」の論理によれば、ヨーロッパの王はすべて暴君であるが)家庭の安寧を享受しているように見えるとしても、それはルソーによれば、キュクロプスの洞窟で自分の番が来て食われるのを待つオデュッセウスの仲間たちの安寧にすぎない。 ルソーの論理は、感情との関係において、かかあ天下の夫にたとえられてきた。表向きは勇ましく独立を装いながら、実際には妻の言いなりで動いている夫、というわけである。 さらに、ルソーが局所的な厳密さを誇示することには、別の狙いも果たされている。 既存の社会秩序の最下層にいる人間は、最上層にいる人間よりも徳が高く、言い換えれば自然状態の自発的な善性をより完全に備えているのだ、と告げられておだてられる。 しかし彼は、感情の点では自分が優れていると信じたがる一方で、それでも自分を思考不能な人間として眺められるのは好きではない。 アリストテレスが言うように、大衆は区別をつけられない。 ルソーの論理は、大衆にも少なくとも区別をつけられるという幻想を与えるように巧妙に仕組まれている。 彼が驚くべき影響力を持ったことの少なからぬ部分は、大衆の心だけでなく大衆の頭をもおだてた点に負っている。 テーヌがW・S・リリー宛の書簡で書くとおりである。「ルソーの思想に並外れた力を与えているのは、何よりも概念の単純さである。 実際、それが生み出す政治的推論は三数法と同じくらい容易だ。 どうすればこの男に、君は理解していないのだ、国家という観念は形成するのが最も難しいものの一つで、政治的推論は君の手に負えないのだ、と証明できるというのか。 それでは彼を侮辱することになる。 彼はそんな馬鹿げたことがあり得るとさえ認められないし、彼の自尊心は健全な判断力を盲目にするのに十分なのだ。」 ここまで私は、実際に世界を動かしてきたルソー, すなわち想像力の呼び起こす幻影へ向かって感情が飛び出し、その感情に奉仕するよう論理が動員されるルソーを扱ってきた。 しかし、このルソーの傍らには、まったく別のルソーがいることも認めねばならない。 ストラスブールにいたとき、ある父親が「エミール」の原理に厳格に従って息子を教育している、と彼に語ったという。 ルソーは「それなら、その子にとって気の毒だ」と答えた。 厳密な事実でないにせよ、この逸話には一定の象徴的価値がある。 これは、彼の心と頭は同じ一人の人間に属しているようには見えなかった、という彼自身の言葉と結び付けて考えるべきである。 彼の心(先に示したように、論理がそれに従属している心)が革命的だとすれば、彼の頭は用心深い。 彼に助言を求めた人々への返事は, 書簡集に目を通した者なら誰でも証言するように, しばしば非常に鋭く分別があった。 ランソンが言うように、彼は最も大胆な教説を、保守派を安心させ、便宜主義者を満足させるような仕方で適用する。 二つのルソーの対照はあまりに著しく、彼の誠実さそのものが問題になるほどである。 この点を論じる前提として、近ごろやたらともてはやされる特殊な種類の誠実さが、それ自体ルソー主義的運動の産物であることを指摘しておく必要がある。 ある方面では、感情的な激烈さを十分に伴ってさえいれば、ほとんどどんな意見も正当化されるかのように考えられている。 それを思うと、こうした意味での誠実さの最良の実例は精神病院にあるのかもしれない, そしてルソーの誠実さの多く, たとえば晩年に自分が世界的な陰謀の犠牲者だと確信したことなどは, その類のものだったのではないか, と考えずにはいられない。 実のところ誠実さは、しばしば根本と取り違えられる一群の徳の一つにすぎず、実際には、より根本的な何かに関連してはじめて徳となる。 たとえば多くの「リベラル」は、前向きであることそれ自体が徳だと考えるが、もし見据えている未来が有害だったり幻想にすぎなかったりするなら、それは悪徳にもなりうる。 同様の指摘は、開かれた心を誇る人々にも当てはまる。 心を開くのはよいが、それは閉じるための前段階としてのみであり、要するに、最高の判断と選択という行為に備える準備としてのみである。 同じように、誠実さの価値も、先行する真理か誤謬かという問題に照らしてしか見積もれない。 アテナイのソクラテス的集団や今日の科学研究者が、感情主義者に比べてこれほど立派に見えるのは、まず第一に、ある人が誠実かどうかではなく、正しいか誤っているかを問うからである。 その人が正しいなら、もちろん少なくとも道徳的価値の領域では、誠実に正しいことが重要になる。 先に論じた種類の感情的誠実さをルソーに認めないのは難しい。それは穏やかな形では、今日で言うところの「信じようとする意志」を思わせ、極端な形では狂気とほとんど隔たりがない。 しかし同時に、ルソーの頭は折に触れて距離を取り、心を相手にむしろソクラテス的に対処することもできた。 たとえば、彼の本の文体と雄弁さをほめたヒュームに、ルソーはこう言った。「正直に言えば、その点では自分に満足していないわけではない。しかし同時に、私の著作は底のところでは何の役にも立たず、私の理論はことごとく途方もないことだらけなのではないか、と私は恐れているのだ。」 * しかし、ここでのこの自己批判的なルソーは気にする必要がない。単純な理由として、世界を動かしてきたのはこのルソーではないからである。 ランソンが続けて言うように、世界を動かしてきたルソーの側面とは、「人を苛立たせ、反乱へとかき立てる」側面である。 … … …それは暴力の母であり、いかなる妥協も許さないものの源泉である。 それは、その奇妙な徳に身を委ねる単純な魂を、絶対を求める必死の探索へと投げ込む。絶対は、今日は無政府によって、明日は社会的専制によって実現されるべきものとして。 ^ 「ヒュームからブレア博士への書簡、1766年3月25日。この手紙は、注意して見れば、ヒュームがまだルソーと友好関係にあった時期に書かれている。」 影響力を持ったルソーは常に過激派のルソーだが、彼は揺れ動く、M.が言うように。 ランソンは、両極端のあいだを行き来していると言う。 『第二論文』の断固たる個人主義から、 そこでは人間が、孤立し関係をもたない粒子のようなものとして考えられているが、彼は『社会契約(『社会契約論』)』の同じく断固たる集産主義へと移っていく。 彼は揺れ動くのである。 集産主義的な理想においてさえ、両極のあいだを揺れ動く。 たとえば彼はミラボー侯に宛てて、「最も峻厳な民主政と最も完全なホッブズ主義とのあいだに、耐えうる中間など見いだせない」と書いている。 彼いわく、人間をつくるか、市民をつくるか、そのどちらかを選ばねばならない。 両方をつくれるなどとは望めない。 これまでは主として、『第二論文』に描かれた自然状態における人間の徳について語ってきた。 次に語るべきは『社会契約(『社会契約論』)』であり、そこで示された、人間から自然の徳をできるかぎり徹底して剥ぎ取り、市民の徳を獲得させるための方法である。 『社会契約(『社会契約論』)』について述べるにあたっては、妥協のない主論点に限って論じることにする。 『社会契約(『社会契約論』)』にほかの要素があることは、 疑う余地がない。 ルソーは時に、統治の原理は絶対ではなく相対的であり、その適用は歴史的事情や物理的環境、とりわけ気候に左右されるのだと主張している。 『Annales de la Societe Jean-Jacques Rousseau』第7巻、31頁。 とはいえ、私が述べたように、モンテスキューの影響は時に、 絶対と無制限へと突き進もうとするルソーに比べれば取るに足りない。 このルソーの絶対主義は、よく知られているように、とりわけ人民主権の学説に最も鮮やかに現れる。 彼はこの学説を、ほとんど幾何学のような厳密さで第一原理から演繹していく。 その推論の最初の効果は、既存のあらゆる政府を不正統に見せてしまうことだ。 「人は自由に生まれながら、いたるところで鎖につながれている。」 自由で正統な政府は、真の社会契約に基づくものだけである。 この基礎に立てば、組織された政府の利点と、自然状態において人間が(道徳的努力の結果ではなく)無償の贈り物として享受する自由・平等・友愛とを結び合わせることができる。ただし社会契約のもとでは、これらの徳はもはや 個人にではなく、一般意志に宿る。 社会契約のすべての条項は「ひとつに帰着する。すなわち、各結合者が自己のすべての権利とともに、自分自身を全面的に譲渡すること」である。 (財産権を含む)それらを「共同体全体へ」譲り渡すのである。 では個人は、自分の身体と財産に対するこの無制限の支配を共同体に与えたとして、共同体がそれを乱用しないという、どんな保証を持てるのか。 国家がルソーにとってもホッブズにとっても自然ではなく人工物である以上、彼はこの人工的な身体と現実の個人の身体との類比を発展させていく。 個人と国家の精巧な対応関係を立てようとするこの傾向の最重要の源泉の一つは、プラトンの『国家』である。 しかしプラトンでは、この対応関係は、個人の諸能力・諸機能が正しい秩序と従属のもとに働かねばならないのと同様に、国家における厳格な階層秩序を打ち立てるために用いられるのに対し、ルソー主義的な構想を貫く精神は平等の理念である。 ルソーがこの対応関係を用いるのは、共同体は、それを構成するいかなる個人にも害をなそうとは意志しえない、ということを論じるためである。それは、単一の人間が自分の身体の一部に害をなそうと意志しえないのと同じだ、というわけである。 とはいえ理論の側で、一般意志が無私であることを支持するルソーの主要な論拠は、社会契約によって、自然状態における個人の意志に属する自発的な善性が一般意志へ移し替えられた、という点にある。 しかしこの地点で、ルソーの良識が割り込んでくる。 一般意志を生み出す多数者が正しいことを望むとしても、常にそれが見えているわけではない。 要するに人民には導きが必要なのである。 ここから立法者の必要が生じる。ルソーは、ほとんど超人的な叡智をもち、他の人々から切り離され、私利私欲の嫌疑を一切受けない人物を想像し、その者が一般意志を導くべき理想的な法典を起草するのだとする。そしてその法典は宗教的な権威を帯びているように見えるがゆえに人民から信用される、言い換えれば、立法者は自分のために語るのではなく、神の知恵の通路として語るのだと見なされるのである。 こうして課された法によって一般意志が制限され、法が国家における恒常的な統制原理、いわば高次の自己となって、単なる一時の欲望に対抗するようになる、と人は思うかもしれない。 だが結局のところルソーは、無制限へ向かって突き進む自らの論理と感情に、実効的な歯止めがかかることを望まない。そこで彼は、個人について主張した無政府的な印象主義を、ついには一般意志へと移し替える。 法と立法者の必要についての彼の思索がはっきりもたらした結果は、ロベスピエールのような追随者のうぬぼれを助長したことだけだった。彼らは自分の内に、近代のリュクルゴスをつくり出す力があると感じたのである。 現実には一般意志は無法である。支配者に服従するよう自らを拘束できず、支配者を単なる執行官、いわば人民が雇った者と見なし、気に入らなければいつでも罷免できる。 過去に自ら意志したいかなる事柄にも縛られず、将来に向けていかなる形でも自らを義務づけることができない。 主権者たる人民の集会は、つねに次の二つの問いを別々に採決することから始めるべきだ。「第一に、主権者は現在の統治形態を維持することを望むか。第二に、人民はその行政を、いま担当している者たちに引き続き委ねることを望むか。」 主権者たる人民は、イングランドのように議会によって代表されることはできない。 「国家が代表者を持った瞬間、国家はもはや存在しない。」 主権は絶対であり、分割できない。 「それを制限することは、それを破壊することだ。」「主権者たる人民は、存在するという事実そのものによって、つねにあるべき姿のすべてである。」 ルソーが「国王は過ちを犯しえない」という学説を人民へ移し替えた、としばしば指摘されてきた。 しかし彼はそれ以上のことをする。 国王は、下に対して責任を負わないとしても、少なくとも上に対しては責任を負う。すなわち神に対してである。 しかし主権者たる人民は、誰に対しても責任を負わない。 それは神なのである。 それが結ぶ契約は、三位一体の評議の間で交わされたと古い神学者たちが語ったあの契約のように、自己自身との契約である。 「神の単なる御心によって」とジョナサン・エドワーズが言うのは、「私は神の主権的な御心、恣意的な意志、何の義務によっても拘束されない意志を意味する」等々である。 人民の意志は、中世の神権国家において最終的に万物の根源であった神の意志の後継者なのである。 ルソーの主権概念は自然主義的である以上、その究極の本質において、中世的でも神権的でもないのはもちろんである。 人民が自己自身と結ぶ契約によって、相互の義務を負うことなく全面的な権力を自らに僭取する、という彼の考えは、重要な点でルソー独自のものである。 「われわれは」と彼は『エミール』に書いた、「危機の時代、革命の世紀へと踏み込んでいる」。 彼はその予言をしただけでなく、その成就をもたらすうえで、ほかのいかなる一人の人間にもまさって働いた。 絶対でありながら移ろいやすい一般意志を主張することで、彼は政府を恒久革命の上に据えるという逆説を成し遂げた。 彼は、おそらく従来のどの政治思想家よりもホッブズに近い存在である。とりわけ、サント=ブーヴが言うように「空虚ほど腫れ物に似たものはない」というのが真であるなら、なおさらである。 彼の自然状態と主権とは、要するにホッブズの自然状態と主権を言い換えたものにすぎない。 ルソーでは人民が支配者に対して好きなことを何でもでき、ホッブズでは支配者が人民に対して好きなことを何でもできる。 だがホッブズの国家には、それ以上の自己はない(「より高い自己」という発想そのものが、彼の唯物論的哲学には異質である)とはいえ、少なくとも永続する自己はある。 人民が自らの権力を支配者に譲り渡すこの契約は、決定的なものである。 しかしルソーは、すでに見たとおり、そのような永続性の要素を認めない。 もし彼が一般意志を、場合によっては通常の意志と衝突しうる人民の恒常的な意志として構想していたなら、無私のvolonté généraleと、個人や集団の利己的意志以上の何ものでもないかもしれないvolonté de tousとの区別は、重大な意味を持ちえただろう。 しかし現実には、この区別は精査すると溶け去ってしまう。 それは悪い意味で神秘主義的なのである。 ふつうの場面ではいつでも、一般意志とは、その時々の単純な数的多数を意味する。 個人、あるいは少数者は、 この多数派が一般意志をどう解釈しようと、その決定に対して訴える先を持たない。 これは論理的である。というのも個人は、自然状態において享受していた無制限の自由を、一般意志へと譲り渡したのだからである。 もし誰かが多数決で敗れたなら、彼は「自分が間違っていたのだ。自分が一般意志だと思ったものは、この意志ではなかった」と考えることで慰めを得られる。 もし彼の私見が勝っていたなら、彼は自分の真の意志と真の自由に反することをしていたはずである。 したがって多数派が彼に強制を加えるのは、ただ「彼を自由にするために強いる」だけなのである。 この仕掛けによってルソーは、イギリス系の政治思想家を主として悩ませてきた問題、すなわち勝ち誇り専制化した多数派に対して、個人や少数者の自由をいかに守るかという問題を、取り除いてしまう。 1 この区別を厳格に貫けば、政党政治は不可能になる。またそれは、1789年に三部会が、代議員は身分(等級)の一員としてではなく個人として投票すべきだと決定したことへと通じる道筋をも示す。この決定は、事実上、聖職者と貴族に対する第三身分の勝利を意味した。 しかしこの問題解決は、新たな二元論を打ち立てることを含む。すなわち、日常の自己としての個人と、市民として、また主権者たる人民の一員としての個人(それが彼の真の自己とみなされる)との二元論である。 だがこの二元論の第一項、すなわち日常の自己としての個人が厳格な統制に服しうるとしても、第二項、すなわち一般意志に体現された国家は、繰り返すが、いかなる統制にもまったく服さない。 一般意志の自由は、自然状態における個人の自由と同じく、仮に制限されるとしても、ルソーが意味深く言うように、力によってのみ制限されうる。 この主題を歴史的にたどる者は誰でも、すでに述べたとおり、キリスト教が、プラトンにもアリストテレスにも十分な観念がなかったあるもの、すなわち人格的自由を打ち立てたのだという確信を得るに至るだろう。 神の事柄とカエサルの事柄を分けたことによって、キリスト教は自由な良心の領域を確立し、そこに個人は全能の国家の侵害から逃れて身を寄せることができた。 ルソーが個人にそのような避難所を残すつもりがないのは明らかである。 社会契約(『社会契約論』)の最終章は、市民宗教に充てられている。 この章は、驚くほど鋭い洞察に満ちた指摘(たとえば、十字軍は真にキリスト教的精神のものではなかった、という観察)を数多く含む一方で、その全体的結論に関しては、ルソー自身の言葉を借りれば「詭弁の海」と呼びうる。 ルソーは宗教を三種類に区別する。第一に、組織化され伝統をもつキリスト教、とりわけカトリック教会のキリスト教である。 この種の宗教は、あまりに明白に悪く、真面目に反駁するにも値しないほどだという。「人間を自己矛盾に陥れるあらゆる制度は無価値である。」これに対し、古い型の二元論者なら明白にこう答えるだろう。人間は自己矛盾のうちにあり、教会は人間性の根源的事実を映しているにすぎない、と。制度それ自体にそのような効果を生む力があると認められないのは、制度の結果として共同体の全成員が分別、正義、誠実を持ちうる、というルソーの反対主張を認められないのと同様である。1 〔『社会契約論』第4巻第8章〕 ルソーが認める第二の宗教は、真のキリスト教である。それは儀礼や典礼を伴わない、完全に心の宗教であり、彼の理解するところでは、感傷的な理神論者の流動的な情緒主義と多くを共有する。 真のキリスト者は、ルソーが第二論文で語るあの偉大なコスモポリタン精神の持ち主たちに似ている。すなわち「諸民族を隔てる想像上の障壁を超え、それらを創造した主権的存在のように、慈愛をもって全人類を抱擁する」人々である。 しかし、このように自然の憐れみが普遍的な博愛へと花開いた人が、必ずしも現世離れしているとも謙虚であるとも限らないのだが、ルソーは真のキリスト者がその両方であることを見抜くほどには鋭い。 それゆえ彼は、制度化されたキリスト教だけでなく、真のキリスト教そのものをも攻撃する。 真のキリスト教もまた人間を自己に対立させ、天上の祖国を与えることで、地上の国(civitas terrena)への忠誠を弱めるからである。 ルソーは、精神的秩序と世俗的秩序の区別、そしてこの区別がキリスト教において展開した結果としての実際の政治的帰結という、異常なほど複雑な問題を提起する。これらを適切に解明するには一巻の書が必要だろう。 ここで我々に関わる主要点は、キリスト教の根底的徳である謙遜に対する彼の攻撃であり、それが市民の完全な徳と両立しないという理由による。 謙遜であるとは服従することである。したがって「真のキリスト者とは奴隷であるはずだ」というのである。 それゆえ謙遜は捨て、ローマとスパルタの偉大な時代に栄えた種類の、愛国的な誇りで置き換えるべきだという。 ここでもまた、教会と国家(政教)の関係を扱う際に、ルソーはホッブズを想起させる。 「すべてのキリスト教著者のうちで」とルソー自身が言う、「哲学者ホッブズだけが害悪と治療法を明晰に見抜き、鷲の二つの頭を結び合わせることを提案する大胆さを持った」。すなわち、すべてを政治的統一に従属させるということである。 しかしホッブズ以前に、すでに述べたとおり、マキアヴェッリは、国家がすべてですべてとなるために、独立した精神的秩序の観念、そしてキリスト教的謙遜そのものを貶めようとしていた。 ルソーのマキアヴェッリ崇拝とは別に、また意識的な弟子筋であるか否かとも別に、国家についての彼の見方は、初めに思うよりもマキアヴェッリ的見方と多くを共有している。 マキアヴェッリはもちろん、ルソーのような情緒主義者ではないが、その主要な傾向としては功利主義的である。 功利主義の予言者たるフランシス・ベーコンが、アクトン卿の指摘するとおり、彼の最も卓越したイギリス人の弟子であったのは偶然ではない。 しかしルソーにもまた、強い功利主義的側面がある。 実際、彼のうちには、そして近代全体のうちには、感傷的要素と功利的要素との尽きることのない相互作用が見いだされる。 ルソーのこの功利主義的側面は、社会契約(『社会契約論』)で論じられる第三の宗教形態において現れる。 制度化されたキリスト教と真のキリスト教の双方を、反国家的だとして退けたのち、彼が承認に値するとして提案するのは、厳密に言えば宗教ですらなく、社会的効用であるようなものだ。 主権者によって定められるその信条の条項は、正確には教義としてではなく、社交性を促進する感情として課されるべきである。 この市民的信条の積極的教義は、ルソーが挙げるところではかなり実質的である(たとえば神の存在、来世、正しき者の幸福と悪しき者の処罰)。 もし誰かがこれらを信じないなら、彼は不敬虔だからではなく、非社交的だからという理由で国家から追放されうる。 「もし誰かが、同じこれらの教義を公に承認したのち、あたかも信じていないかのように振る舞うなら、死刑に処せよ。」 市民宗教が持つべき消極的教義はただ一つ、すなわち不寛容の断罪である。 これはとりわけ制度化されたキリスト者に向けられているが、宗教の事柄において、全能の国家とその想定される効用とは別個に、一定の善悪の基準を保持する者が、いかにしてこの断罪を免れうるのかは、理解しがたい。 ルソーの「市民宗教」は、ロベスピエールの「最高存在の祭典」のような出来事を先取りしているのは明らかだ。 だが残念ながらそれは、聖職者市民憲章や、ローマへの忠誠を放棄する誓いを拒んだ多くの司祭が「狂信者」としてギロチンにかけられることをも、同じく先取りしている。 付け加えて公平を期すなら、「社会契約(『社会契約論』)」は、革命以後のフランスで時に内戦に近いほど顕著となった聖職者派と反聖職者派の対立の、数ある原因^の一つにすぎない。 総じて想起すべきは、ルソーはここまで論じてきた諸観念の創始者というより、何世代にもわたって勢いを増してきた巨大な運動の中で、単独の人物として最も重要な存在だったということである。 スタール夫人の言葉を借りれば、彼は何も発明しなかったが、すべてに火をつけた。 ルソーの最大の論敵であるバークが、この運動とそれがかき立てた熱狂を重大問題として受け止めたのは、それらが大きな歴史的事件へと姿を変え始めてからであった。 彼がフランス革命で攻撃したのは、ルソーその人と、彼が体現していたすべてである。 参照: P.-M. Masson, La Religion de J.-J. Rousseau, iii, ch. v. 第III章 バークと道徳的想像力 「誰もが知っていることだが」とバークはフランス国民議会の議員たちについて書く、「彼らの指導者たちの間では、誰がルソーに最も似ているかをめぐって大論争がある。 実のところ、彼らは皆ルソーに似ている。 彼の血を、彼らは自分たちの精神と作法の中へ注ぎ込んでいる。 彼らが学ぶのは彼であり、黙想するのも彼であり、昼の骨折り仕事の害悪や夜の放蕩からわずかに時間を盗めば、そのすべてを彼に費やして反芻している。 ルソーは彼らにとっての聖典の規範であり、その生涯はポリュデクトの規範であり、彼は彼らの完全の標準像である。 いまパリの鋳物工場では、この人物、この著述家を、作家たちとフランス人の模範として像にするために、貧者の鍋や教会の鐘を溶かしてまで鋳造が進められている。」 私はルソーを、その本質的影響において、妥協を拒む過激派として描いてきた。 これに対してバークは、ふつう穏健の精神を体現する者だと見なされ、そしてそれは正しい。 しかしフランス革命についての彼の言明の多くは(いま引用した一節がその一例である)、穏健さをほとんど感じさせず、晩年には露骨に激烈になる。 それでもバークを弁護しうる点が少なくとも一つあるとすれば、革命についての彼の著作の大部分は第一原理をめぐる論争であり、第一原理となれば問題は穏健か否かではなく、真理か誤謬かなのである。 バークは現状維持の単なる党派人ではなかった。 彼は原理として革命に反対していたわけでもない。 1688年の革命への讃嘆を行き過ぎたほど推し進めた、という非難は、彼にはおそらく当てはまる。 アメリカ独立革命に対する彼の態度は、一貫して妥協的で、多くの点で共感的ですらあった。 彼は権威ある者たちを不当に畏れていたわけではない。 必要とあらば彼らにより厳しい責任を求め、不当な権力の犠牲者のために、より私心なく擁護者となりうる者は他にいなかった。 彼はフランスの旧体制(アンシャン・レジーム)の弊害を具体的に認め、そうした弊害にかなり抜本的な処方を適用することも認める用意があった。 それでも彼がフランス革命とは妥協しなかったのだとすれば、その理由は政治という領域より、一般哲学、さらには宗教の領域に求めるべきである。 彼は、革命が他の革命のように特定の個別的な不満の救済を目指したのではなく、普遍的な僭称を抱いていることを見抜いた。 フランスは「諸国民のキリスト」^となり、 人類の政治的再生のための十字軍を率いるはずだ、とされたのである。 神のものとカエサルのものとをこのように混ぜ合わせることは、彼には心理的に健全でないように思われ、いずれにせよヨーロッパの既存の社会秩序を転覆させるものだった。 この新たな革命的福音は、自然状態、自然権、社会契約、そして抽象的で無制限の主権について、何世代にもわたって重ねられてきた思弁の、最終的な帰結であった。 バークは、私が形而上学的政治と呼びうるものへのこの傾向、とりわけ「人間の権利」という教説に体現されたそれの、最大の反対者である。 「彼らは人間の権利のことにばかり心を奪われて」と彼はこの学派の人々について言う、「人間の本性をすっかり忘れてしまっている。」 偏見を取り払うという名目で、彼らは人間から、実際には人間が巻き込まれて生きているあらゆる習慣、具体的な関係、歴史的事情の網の目を剥ぎ取り、ついには「形而上学的抽象のあらゆる裸と孤独の中で」震えさせたままにするのだ。 彼らが論理に課す限界は、専制以外にない。 偏見の敵への攻撃において(ここで偏見とは、実際上ほとんどすべての伝統的・慣習的なものを意味した)、バークは、おそらくいくつかの小さくともなお重要な区別、とりわけ、理性の名において偏見を捨てようとした者たちと、ルソーのように感情の名においてそれを捨てようとした者たちの区別を、過度に等閑視した。 合理主義者とルソー主義者は革命のさなか、実際に互いをギロチンにかける用意があったのであり、この対立は、ルソーと、各種の「哲学者」たち、とりわけヴォルテールとの確執にすでに先取りされている。 ルソーはバークと同じく(ただし根拠は異なるが、それは後ほど示すつもりである)、「この啓蒙の時代の重く固い闇」に抗議する用意があった。 ある共同体の蓄積された経験に少なからず根ざす伝統的形態が、単なる偏見として退けられることによって、国家は歴史的連続性を失い、いわば現在を過去と未来へ結びつける永続的な自己を失う。 ルソーの印象主義的な一般意志観が助長するような、原則なき容易さで国家を変えていけば、人間の世代は夏の蠅のように互いを結び合うことができなくなる。 彼らは個人性の塵と粉へとばらばらに分解されてしまう。 実際のところ、ホッブズであれルソーであれ、人間は本来孤立した単位であり、社会は作為の結果としてのみ達成される、という仮定から出発する政治哲学は、その本質において激しい個人主義である。 国家を原子論的・機械論的に見るこの見方に対して、バークは有機的・歴史的な観念を置き換えたのだと、ふつう考えられている。 ドイツ^その他における彼の実際の影響の多くが、この線に沿っているのは確かである。 しかし、これがバークについての真実のすべてというわけではまったくない。 有機的・歴史的観念への一面的な傾倒それ自体が、自然主義的運動の一つの帰結なのである。 それは伝統的形態への宿命論的な追認へと導きうるし、抽象的合理主義だけでなく、状況の変化に応じてそれらの形態を理にかなって調整することまで、妨げてしまいかねない。 それはまた、道徳的選択と意識的熟慮を犠牲にして無意識を高揚させる、ロマン主義運動の一側面ともきわめて容易に結びつく。 個人におけるこの能力, すなわち彼を現象的自然の上へと持ち上げる唯一のものをいったん曖昧にしてしまえば、長い目で見て彼の自律を保つことは容易でなくなり、彼は(ドイツ理論にしばしば見られるように)独立の意志を失って、全能の国家の単なる器官となる傾向を強めるだろう。 さらにまたテーヌは、フランス革命攻撃においてしばしばバークの弟子を自任するが、「悪徳と美徳は、砂糖や硫酸のような製品である」と宣言した哲学者に、真の追随者を見るのは容易ではない。 ※レーベルク、サヴィニー等について 真実を言えば、バークはどんな意味でも集団主義者ではなく、ましてや決定論者などではない。 もし彼がそのどちらかであったなら、古今の政治思想家のうちでもおそらく誰にも勝るほどの、真の自由についての深い洞察に到達しえなかっただろう。 バークの意味で個人の自由を信じる者にとって、最終的に力点が置かれるのは国家ではなく個人であるほかない。 ただし彼の個人主義は、ルソーのそれのような自然主義的なものではなく、人文主義的であり宗教的である。 もっとも、個人が日常の自分を超えて人文主義や宗教へと到達するための基準を得るにあたっては、彼はその人に慣習(先例)へ大きく依拠させようとする。 バークが反個人主義的だと言えるのは、個人に自分だけの私的な才知の持ち分で勝負させようとはしないからである。 彼はむしろ、浅薄な合理主義者が偏見として切り捨てるような習慣や慣行のうちに体現された、一般感覚と過去の蓄積された経験を尊重せよ、と求める。 個人が一般感覚を断罪し、私的な自分を過度に信頼するなら、手本を失ってしまう; そして人間の第一の必要は、健全な手本を仰いでそれに倣うことである。 そうして彼は、やがて自分自身が模範となりうる。 自分より上位にあるものへの敬意と奉仕という原理は、真の主権者にして至高の模範である神への忠誠において、その頂点と最終的な根拠を得る。 バークの国家観は、真にプラトン的かつキリスト教的な要素を、自由で柔軟に適応させたものだと述べられる。 「われわれは知っている、いやそれ以上に、宗教こそが市民社会の基礎であり、あらゆる善とあらゆる慰めの源泉であることを、内面で感じ取っているのだ。」 「神は国家を欲した。」 (このように最高のものを意志の観念によって捉えるのはキリスト教的である。) 「神は、国家があらゆる完全の源泉であり原初の原型と結びつくことを欲した。」 (ここでの言葉遣いはプラトン的である。) イングランド人は、宗教だけでなく実際の国教会制度そのものを、自国の国家にとって不可欠のものと見なし、それがまさしく自国憲法の土台であると考えている。 「社会はたしかに契約である」が、その契約の基礎は単なる功利ではない。 国家は、胡椒やコーヒーの取引における共同事業契約のようなものとして見なされるべきではない。 それは、ある同時代の平和主義者が主張したような共同体の「寄せ集めの自尊心」ではなく、むしろ共同体の永続する倫理的自己である。 したがってそれは、あらゆる学術と芸術、そしてあらゆる徳と完成における共同体なのである。 「そのような共同体の目的は多くの世代を経なければ達成できないのだから、それは生きている者どうしの共同体であるにとどまらず、生きている者と死者と、そして未だ生まれぬ者とのあいだの共同体となる。」 このようにバークは契約という言葉を用いるが、契約という観念を、人間が義務の履行に先立って自然から自由の贈り物として一定の権利を与えられていることを意味するとしたロックら(彼を含む)とは、彼がまったく別の世界に住んでいるのは明らかである。 ルソーは言う、子どもには彼の関心を引くことを語れ, つまり義務ではなく権利を語れ、と。^ バークが基本的に主張するように、権利とは特定の義務を果たした結果として獲得される具体的歴史的権利に限られるのだ、と断言することは、面倒を見て生まれてきただけで人は一定の抽象的権利を享受するのだというルソーの断言から、明らかにかけ離れている。 ここでの差異は、バークとルソーのあいだだけではなく、バークとロックのあいだにもある。 >『エミール』liv. n. ロックの最終的な浅薄さは、人間が義務に先立って抽象的な自然権を与えられていることを認めておきながら、その後でこの学説を穏健に適用できるはずだと期待した点にある。 しかし、こうした種類の学説は、極端に論理を押し切った形においてこそ最も効力を持つ, なぜならその形においてこそ想像力をとらえるからだ, と正当に言われてきた。 さて、私がルソーに帰した意味で徹底した急進派がしばしば想像力に富むのに対して、ホイッグ党の伝統に従うホイッグ党員や自由主義者は、むしろ想像力の面で欠けているのではないかという疑いを免れがたい。 たとえば、もしマコーリーがより想像力に富んでいたなら、ベーコン論においてあれほど人道主義的な自己満足を見せなかっただろう, と感じずにはいられない。 またディズレーリは、J・S・ミルが人間事における想像力の役割を見抜けなかったことを軽蔑していたと言われるが、この欠落は、彼の想像力の質をどう評価するにせよ、少なくともディズレーリ本人には帰しがたい。 これに対してバークは例外的なホイッグであり、見事に想像力豊かなだけでなく、私が彼と結びつけてきたキリスト教徒やプラトン主義者に一般的に見られる以上に、想像力の至高の役割をかなり明確に認めている。 彼は、生の知恵の多くが、過去の経験を想像力によって引き受け、それを現在に生きた力として作用させることにあるのを見ていた。 仰ぎ見て倣うべきその手本そのものが、想像力の産物なのである。 人の想像力は、祖先のうちに、その時々の卑俗な実践を超えた徳と知恵の基準を実現しうる; それによって彼は、倣おうと志した手本とともに高みに上ることができる。 過去の諸形態と、それを運用する人々は、バークの目には主として想像力的象徴として映る。 マリー・アントワネットについての有名な一節では、苦しみつつ生きる一人の女性をほとんど忘れてしまい、バークとともに、騎士道の時代が「詭弁家、経済学者、計算屋」の時代へと屈していく、その壮麗な象徴として彼女を見ることになる。 この意味では、トマス・ペインの「バークは羽飾りを憐れみ、瀕死の鳥を忘れる」という嘲りにも真実がある。 新しい哲学は、人生のまともな装い*をこともあろうに乱暴に引き剥がすのだと、バークは嘆く。 「道徳的想像力の衣装箪笥から与えられた、あらゆる付け足しの観念は、... ばかげた不合理で時代遅れの流行として、吹き飛ばされねばならないのだ。」 人間の権利の使徒たちは、バークによれば、ヨーロッパの秩序において真に文明的なものが何世紀にもわたり依拠してきた二つの原理, すなわち宗教の精神と紳士の精神を掘り崩していた。 これらの原理と、それを体現し道徳的想像力に奉仕する象徴の守り手であった貴族と聖職者は、かわって学識ある者たちの支持を受けてきた。 バークは学識ある者たちに警告する, 自然の守護者を捨ててデモスに走れば、「泥の中へ投げ込まれ、豚のような群衆の蹄に踏みつけられる」危険がある、と。 要するにバークは、率直な貴族政の擁護者である。 しかしとりわけここでこそ、彼はキリスト教的・プラトン的、そして人文主義的な原理を柔軟に適用する。 彼は伝統秩序への崇敬と、健全な個人主義的要素とを結び合わせる。 彼が望むのは静止したヒエラルキーではない。 彼は、人間を階級や集団として扱うあらゆる傾向を是認しない; この傾向は、極端な急進派と極端な反動派が共有している。彼は、人を世襲の身分で測るのではなく、個人としての達成によって評価せよ、と言う。 「統治の資格はただ徳か知恵だけだ」と彼は言う, 「現実のものであれ推定されるものであれ。 それが実際に見いだされるところでは、どのような身分・境遇・職業・商売であろうとも、天が人間の地位と名誉へ与える通行証を持つのだ。」 ただし彼は、肉体労働者がそのような徳と知恵を身につけるのは難しい, なぜならそれに必要な余暇を欠くからだ, という点は認めている。 とはいえ、社会の下層から上層へと稀有な功績が上りゆく道は、たとえその功績が厳しい試練をくぐり抜けねばならないとしても、常に開かれているべきだ。 同じようにバークは、既存の社会秩序への改革も、厳しい試練の期間を経た後にのみ認めるだろう。 彼は、硬直した伝統主義の党派ではない。 彼が「真の指導者」ないし「自然の貴族」と呼ぶ人物は、新しいものと古いものの相克する要求を調整するにあたり、ハリファクスが描いた「トリマー」に近い性格を多分に備えている。 「国家運営において自然の方法を保つなら、改良する部分では決して全面的に新しくはならず、保持する部分では決して全面的に旧弊にはならない。」 「保持しようとする気質と、改善しうる能力と、この二つを合わせたものが、私の政治家の基準である。」 こうした言葉においてバークが述べているのは、もちろん最良の形でのイングランド的自由の理論であり、言い直すにはあまりに馴染み深い理論である。 生における不変の要素と流動の要素との仲介という課題に含まれるすべてを想像力によって把握すること、いわば「多の中に一を見いだす」プラトン的技芸において、政治思想の領域で彼に比肩する者はほとんどいない。 しかしバークは、ある重要な点で大いに非プラトン的であり、それは知性に対する態度である。 今日でいうところの「インテリ」に対する彼の不信は、さまざまに説明しうる。 それはある点では、付け加えねばならないがキリスト教の一面, つまり弱い側面と関係している。 「知性のある種の不節制は、時代の病であり、他のあらゆる病の源である」と彼は書いている。 彼はこの濫用の危険をあまりに明確に見抜いていたため、ときにキリスト者がそうしてきたように、知性そのものをも疑いの目で見るに至った。 そして彼は、私たちが皆そうであるように、正しいことをするのに何の理由も挙げない者、あるいは誤った理由を挙げる者をよく知っていたし、逆に、誤ったことをするために最も論理的で巧妙な理由を並べ立てる者もよく知っていた。 正しい行為の基礎は推理ではなく経験であり、それも個人の経験よりはるかに広い経験である; それを確かな持ち物とするには、正しい習慣を早くから身につけるほかない。 さらに、バークの知性軽視には、明らかにイングランド的なものがある。 ある種のフランス人が、誤った、あるいは不完全な前提から厳密に推論しがちな結果を見て取るイングランド人は、自分たちの漸進的な常識と「何とか切り抜ける」傾向を好むようになる。 ディズレーリが外国の客に語ったように、この国を動かしているのは論理ではなく議会なのだ。 ほぼ同じようにベイジョットも、政治におけるイングランド人とフランス人の比較の中で、半ばユーモラスに「真に健全な愚鈍さという点でイングランド人に並ぶ者はいない」という結論に到達している。 知性に反感を抱くバークの側面は、ときにルソーの反知性的側面を思い起こさせる, たとえば彼が「自然に従うことの幸福な効果, それは反省なき知恵であり、反省を超えた知恵である」と語るときのように。 しかしこの類似は、表面的なものにすぎない。 ルソーが唱えた知恵は、反省を超えるのではなく、反省よりも下にあった。 この種の区別は、慎重な心理学的分析に支えられていない限り、むしろ無意味である。 おそらく超理性的なものと下理性的なものの最初の対照は、畏敬と驚嘆との対照であろう。 ルソーは明らかに驚嘆の使徒であり、ロマン主義運動がもたらした「驚嘆の復興」において、彼はおそらく単独の影響として最大の存在である。 ロマン主義が知性に異議を唱えるのは、知性が精密な分析と因果の追跡によって驚嘆を減じてしまうからである。 これに対してバークは、慎みのない知的活動が畏敬と崇敬を掘り崩しかねないことを恐れる; 「我々は」と彼は言う、「いま理解できないものをこそ崇敬すべきである。」 崇敬を確保する最良の手段としてバークが大きく依拠するのは習慣であるが、ルソーからウォルター・ペイターに至るロマン主義者たちは、習慣が定型化された世界, 生彩と驚きのない世界へ導くように見えるがゆえに、同じく明確に習慣を敵視する。 >CL『Rousseau and Romanticism』, p.49以下。 崇敬を重んじることは、少なくとも世俗の秩序においてバークにとって、身分と位階を重んじることを意味した; これに対し、ルソーの想像力が投影した自然状態の際立った特徴は、私たちが知る限りの原始生活の事実に反して、それが平等主義的であることだ。 この特徴は、彼の無国家と全国家, 彼の無政府主義的ユートピアと集産主義的ユートピアに共通している。 『社会契約論』の世界も、『第二論文』の世界と同様に、 位階も従属もない世界である; 誰も誰かを見上げず、誰かに見上げられることも期待しない世界であり; 誰も(そしてこれはルソーにはきわめて望ましいことに見えるのだが)命じる必要も従う必要もない世界である。 平等を強調する点でルソーは、少なくともある程度は、自分一人のために語っているのではなく、フランス, とりわけこの二百年ほどのフランスのために語っている。 「自由, それはフランス人には永遠に理解不能なものだ」とマレ・デュ・パンは言う。 ^ おそらく自由は、その真の本質においては、どこであれ多くの人々にとって理解可能ではなかったのだろう。 「真の自由への愛, さらにはその観念そのものが」とバーク自身も認めているように、「きわめて稀である。」 この真の自由の基礎が、バークの言うとおり従属の行為であるなら、それはルソー主義的な平等とは両立しない。 いかなる地上の権威への従属も、その権威がさらに高い何ものかを仰いでいる場合にのみ正当化される; したがって真の自由は、真のキリスト教をも支える徳に根を下ろしている。 * 同程度の知的卓越を備えたイングランドの著者の中に、次のプルードンの一節(Œuvres, ii, p.91)に相当するものを見つけるのは容易ではあるまい: 「L’enthousiasme qui nous possede, I’enthousiasme de l’6galit6, . . . est une ivresse plus forte que le vin, plus p6n6trante que I’amour; passion ou fureur divine que le d61ire des L6onidas, des Saint Bernard et des Michel-Ange n’6gala jamais.」 * 参照: E.ファゲ『Politiques et moralistes』第1巻 p.117: 「II est k peu pr^s impossible & un Frangais d’etre liberal, et le hb4ralisme n’est pas frangais.」また同書第3巻 p.95も参照。 「真の謙遜, それはキリスト教体系の基礎であり、あらゆる真の徳の低い, しかし深く堅固な土台である。 しかしこのことは, 実践においてはきわめて苦痛で、見かけも少しも人目を引かないために」と彼はフランス革命家について言葉を継ぎ、「彼らはそれを完全に捨て去った。」 彼らは、虚栄の哲学の偉大な「教授」かつ創始者であるルソーに従うことを選んだのである。 ルソー自身、自分の立場は「最も高貴な誇り」に基づくと言ったが、誇りは、虚栄以上に、謙遜の意味ある対立物である。 ルソーが愛国的誇りを優先して謙遜を低く見たことについては、すでに述べた。 いうまでもなく、誇りと謙遜の問題は、第一義的には政治問題ではまったくない。 それは内面生活の問題である。 ルソーは、古い「人間の罪深さと誤りやすさ」という教説の代わりに「自然の善性」の教説を据えることで、個人の謙遜を掘り崩した。 他方バークが擁護する宗教的・政治的な諸形式と伝統は、恣意的なものではなく、膨大な過去の経験を手際よく要約したものだという理由から、個人の想像力を支える; こうして想像力は、いわば倫理的中心へ引き戻され、そこから今度は、個人が自らの自然的自己の無法な膨張(そこには知性も感情も含まれる)に限界を設けるための基準を与える。 純粋に心理学的観点から言えば、バークが謙遜と, それを確保するのに必要だと見なす想像力の象徴を重視することは、自由におけるいわば向心的要素を重視することへと帰着する。 ルソーは、少なくとも世界に影響を与えてきたルソーは、自由におけるそのような向心的要素の必要を、実際にはほとんど否定している。というのも、伝統的統制が消え去れば自ずと現れてくるのは、兄弟愛へと広がっていく意志だというのだから。 バークのようにこの「普遍的博愛」の福音を退けるなら、自由をバーク流に、すなわち内的統制を引き受けることと外的統制を振り払うこととの微妙な調整として捉えずにはいられない。 「社会は」と彼は言う、「意志と欲望に対する統制力がどこかに置かれないかぎり、存在しえない。そして内にあるそれが少なければ少ないほど、外にあるそれは多くなければならない。」 主として個人に関わるこの内的統制と外的統制の調整が、結局のところ、いかなる共同体であれ政治的自由にどれほど耐えうるか、その度合いを決定するのである。 真の政治指導とは、この意味で人文主義的な調停であって、極端のあいだを怠惰に揺れ動くことではない。 「政府をつくるのに、大きな慎慮はいらない。 権力の座を定め、服従を教えれば、仕事は終わる。 自由を与えるのは、なおさら容易である。 導く必要はなく、手綱を放せばよいだけだ。 しかし自由な政府を形づくること、すなわち自由と抑制という相反する要素を一つの首尾一貫した仕事として調和させるには、多くの思考、深い省察、鋭明で力強く、諸要素を結び合わせる精神が要る。」 すでに述べたように、バークは、きわめて例外的なことに、きわめて想像力豊かなホイッグである。 実際、ホイッグの伝統に属する典型的ホイッグや自由主義者の多くは、バークと同じく、人格的自由と節度という意味での自由の党派である。 しかし彼らは、その人格的自由と節度に、宗教と人文主義的統制という同じ基礎を与えてはいない。むしろ彼らは合理主義者か感情主義者に傾きがちで、要するに倫理を、効用の原理に置くか、あるいは同情と奉仕という新しい精神に置くか、もっと多くの場合には、こうした人道主義の主要要素を混合した何ものかに置くのである。 私が示そうとしてきたところでは、バークの自由は宗教的に根拠づけられているだけでなく、その政治的適用において真の人文主義的調停を含んでいる。 これに対してホイッグ的妥協は、宗教的・人文主義的な人生観と、功利主義的・感傷的な人生観という、本質的には両立しえないもの同士のあいだで妥協しようとする試みであることが、あまりにもしばしばである。 したがって、J・S・ミルの自由主義は、バークの自由主義と比べると、想像力に欠けるという非難にさらされうる。 さらに、厳密に近代的な観点から見れば、批判性が不十分だという非難にもさらされうる。 ミルが望む種類の自由は、伝統的な精神的統制、あるいはそれに代わる十分な代替物からしか生じえないのに、彼の哲学は、後でもっと詳しく示すつもりだが、そのいずれも与えないからである。 バークについて、両立しえない第一原理のあいだを調停しようとする試みに由来する種類の浅薄さを、ほとんど問題にすることはできない。 しかし、新しい原理と古い原理の衝突がどれほど全面的で深刻かを、彼が十分に認識しなかったと感じることはありうるし、また、自らの宗教的・人文主義的立場を擁護する際に入り込む蒙昧主義的要素を正当化するのは難しいとも感じうる。 バークから受ける印象では、イングランドはほとんど全面的に、伝統文明という壮麗な建造物と、それを支える生活のあらゆる礼節(最終的には道徳的想像力に根ざすもの)を守るために結集する用意のあるキリスト教的紳士から成り立っており、その道徳的想像力の代わりに抽象的な形而上学的理性を据えてこの建造物を破壊している「詭弁家、経済学者、計算者」たちは、ほとんど全面的にフランス人だということになる。 彼はたしかにイングランドの理神論者に触れはするが、それも彼らを無名の風変わりとして退けるためにすぎない。 同時代のイングランドの知識人や急進思想家は、最大限の軽蔑とともに一蹴し、彼らに対置するのも、より鋭く考える人々ではなく、まったく考えない人々なのである。 「シダの下で半ダースのバッタがせかせかと鳴いて野原に響き渡らせている一方で、British Empireの樫の影の下に横たわる何千もの大きな牛は反芻して沈黙しているからといって、騒いでいる者だけが野原の住人だなどと、どうか思わないでいただきたい。もちろん彼らは数が多いのでもなく、また結局のところ、彼らがこの時の、小さく、しぼみ、やせ細り、跳ね回るが、声だけは大きく厄介な虫けら以上のものだというわけでもないのだ。」 この一節では、蒙昧主義的バークがもっとも弱いところをさらしている。 実のところ、この小さくやせ細った跳ね回る虫けらこそ、巨大な規模の国際的運動の代表者であり、その運動は最終的に、バークが擁護していた偏見と慣習的権威に打ち勝つ運命にあった。 しかもこの運動は、大部分が、いや主としてと言ってよいほど、イングランド起源だったのである。 「イングランドからだ」とジュベールは言う、「霧のように、あらゆるものを暗くしてしまった形而上学的・政治的観念が流れ出たのは。」 ルネサンス以降のヨーロッパの生活と思想の主要潮流、ことに功利主義的側面と感傷的側面の双方における人道主義の興隆をたどってみて、ジュベールのこの断言にかなりの程度同意せずにいるのは難しい。 プラトン的実在論(語の古い意味での)を強く帯び、最終的には謙遜、すなわち神の意志への服従を強調するバークの人間観と国家観は、中世的な人間観と重要な接点をもっている。 ところが、フランシス・ベーコン以前から、ブリテン諸島の人々はこの実在論を切り崩すのに重要な役割を果たしていた。 ドゥンス・スコトゥスは、神学において理性の信用を、恣意的な神の意志を優先することで失墜させ、その結果、理性を世俗秩序で用いる道を開いた。 オッカムのウィリアムは、われわれの型の実在論を先取りする名辞説を主張した。すなわち「一者」の実在論ではなく「多者」の実在論であり、それゆえ中世的な型とは正反対の極に立つ。 ロジャー・ベーコンは、物理的秩序への関心と、その秩序に向き合う際に示す実験的気質という点で、未来にとって重要である。 さらに後の時代に進むと、17世紀イングランドの内乱的激動の帰結は、過去への想像力的忠誠を弱めることだった。 クロムウェル自身の最大の業績は、彼の崇拝者マーヴェルが認めたように、「時という偉大な仕事を滅ぼす」ことだった。 大いなる伝統への忠誠が衰えるにつれ、イングランドは、フランシス・ベーコンが予言者であるところの功利的努力に集中し、こうして他のどの国にも増して産業革命を準備し、それを成し遂げたのであって、それに比べればフランス革命などメロドラマめいた一挿話にすぎない。 バークが真に代表的だと考えたキリスト教的・古典的イングランドが、たとえばオックスフォードのような場所に生き残っているとすれば、功利的イングランドはバーミンガムのような都市に具現化しており、この二つのイングランドの対立、つまり第一原理の対立が、風景そのものの顔に書きつけられるようになったのである。 しかしイングランド人は、論理的な排除によって進むのではなく、究極的には両立しえないものを、多少なりとも友好的に並置して維持することができる。 こうして若者は、オックスフォードで宗教的・人文主義的教育を受け、それを、インドにおけるBritish Empireの統治を助ける準備とする。この帝国は、その起源においては、主として功利的で商業的に拡張するイングランドの産物なのである。 バークが望んだ種類の指導、すなわち真の紳士の指導は、いまなおイングランドと世界の事柄に小さからぬ役割を果たしている。 彼が典型とみなすイングランド人、すなわち「神を畏れ、王を畏敬の念をもって仰ぎ、議会を愛情をもって見、行政官に義務を感じ、聖職者に敬虔の念を抱き、貴族を尊重する」人間は、いまなお存在するが、典型性はかなり薄れている。 とりわけ、その心理は、産業革命によって存在するに至った大都市の大衆の心理ではない。 バーミンガムが象徴するものは、オックスフォードが象徴するものに着実に追い迫ってきており、そのことはオックスフォードそのものにおいてさえそうである。 私は、唯一有効な保守主義は想像力的保守主義だと言った。 ところがいまや、ある種の伝統的象徴に想像力によって入り込むことはますます難しくなっただけでなく、一般に想像力は、事物の統一の要素から多様性の要素へと、いよいよ強く引き寄せられてきた。 宣揚されてきた種類の進歩の結果として、あらゆる善は、新奇さと変化、発見に発見を積み重ねることと結びつけられるようになった。 このように見られる人生は、もはや何らかの中心や一者への畏敬を含まず、驚異と好奇心の無限で無際限な拡張として構想される。 この変化への酩酊の帰結として、世界は、われわれが信じさせられるところでは、ある「はるか彼方の神的出来事」へ向かって動いているのだという。 まさにここで、人道主義運動のうち功利主義的、つまりベーコン主義的な側面と、感情主義的、つまりルソー主義的な側面とのあいだに親和性が現れる。 その「はるか彼方の神的出来事」は、ルソーの自然状態と同様、牧歌的想像力の投影である。 神的出来事の幸福は、自然状態の幸福と同じく、個人の側の真剣な道徳的努力や自己鍛錬を何ら含まないことが示されうる幸福である。 ルソー自身は黄金時代を過去に置いたが、ルソー主義者でありながら、同時にベーコン主義的に、黄金時代を未来に置くことほど容易なものはない。 ベーコン主義的な者とルソー主義者との差異は数多いが、彼らの「ヴィジョン」の質におけるこの根底的な類似に比べれば、重要ではない。 私は冒頭で、近代の政治運動は、そのもっとも重要な側面において、ルソーの精神とバークの精神との戦いと見なされうる、と述べた。 理由が何であれ、この運動がバークから離れ、ルソーへと向かってきたことは疑いえない事実である。 「バークの星は明らかに衰えつつある」と、 レッキーは数年前に書くことができた。「そして『社会契約論(Contrat Social)』の教えのかなりの部分が、イギリス政治の中へ入り込みつつある。」 また、近年のルソー政治著作の定本版の編者であるヴォーン教授は、その序文で、ことさら反論や驚きを呼ぶ様子もなく、政治的知恵の要諦においてバークは「彼が侮蔑と嫌悪をもってしか語らない人物、すなわち軽蔑された理論家、ジュネーヴの形而上学的狂人に、測り知れぬほど劣る」と述べた。 バークは、真の自由の本性を見抜く者がこの世に一人でも生き残るかぎり、愛され続けるだろう。 しかし明らかに、今日の状況のもとで真の自由主義を首尾よく擁護しようとするなら、それはバークの方法だけでは成り立たない。 偏見と先例(prescription)と「省察を超える知恵」をめぐる戦いは、すでに敗れている。 もはや近代主義者を、ただ一時の騒々しい虫けらとして払いのけることも、健全ならぬ知性の活動に対して、鈍重さや思考への不透過性だけで対抗することもできない──ブリテンの樫の陰で反芻する、あの大きな牛のように。 だが方法の問題に入る前に、大革命(フランス革命)の最中およびそれ以後の近代ヨーロッパ史において、ルソーの勝利が実際には何を意味したのかを考えねばならない。 この種の概観は、現代の二つの主要な政治問題、すなわち民主主義の問題と帝国主義の問題とを、それ自体としても、また相互の関係においても、検討することを含むはずである。 第IV章 民主主義と帝国主義 近年、世界を民主主義にとって安全なものにするための十字軍においては、民主主義は自由と同じであり、帝国主義とは正反対だ、ということが当然視されていた。 ところが歴史の教えるところは、奇妙なほどそれとは異なる。 アリストテレスが遠い昔に指摘したように、直接で無制限の民主政という意味での民主主義は自由の死であり、その専制的な気質ゆえに、私がこれまで用いてきた広い意味での帝国主義とも、またきわめて近縁なのである。 そして、ルソーの特異性は、見てきたとおり、近代の直接民主政の理論家のうちでもっとも妥協を許さぬ存在だった、という点にある。 では、ルソー主義的な福音の普及から、自由・平等・友愛の楽園を予期してきた人々よりもむしろアリストテレスの方を、ルソー主義の実際の帰結はどこまで正当化してきただろうか。 民主主義運動におけるルソーの卓越した地位は、いずれにせよ疑いようがないが、ただしここでも誇張はありうる。 「民主主義には父はただ一人しかいない──ルソーである」と、ヴォギュエ氏は言う。 (略) (略) (略) 「われわれを呑み込みつつある、あの大きな濁流は、絶えずそれらを満たすアルプスの貯水池からライン川やポー川が流れ出すのと同じく、ルソーの著作と生涯とから流れ出ているのだ。」 これと同様の、いくらでも増やせそうな文章と並べてみると興味深いのは、ルソーこそが何者にも増して自分たちのKulturの父だ、という趣旨の、同じく非常に数の多いドイツの権威者たちの言葉である。 ここでもまた、誇張の要素を差し引かなければならない。 ドイツにおいてしばしばルソーに帰される多くのものは、ルソー自身にも作用したのと同じイギリス的影響へと遡ってたどることができる。 『J.-J.ルソー図像集』序文、第1巻、vii-viii頁。 先に引いた種類の文章は、Kultur(本質的に帝国主義的と見なされるようになったもの)と、ルソー主義的民主政とのあいだに、まず第一の連関を打ち立てているように思われる。 綿密に検討すると、Kulturは二つの主要要素へと分解される。すなわち一方では科学的能率、他方では、その能率を奉仕させる民族主義的熱狂である。 ルソー主義との関係は、明らかにまず、これら二要素のうち第二の、民族主義的熱狂という要素の側に探されねばならない。 ここで想起すべきは、ルナンが前世紀七〇年代にまで遡らせている一つの言葉である。 「民族性の感情は、この世界においてまだ百年の歴史しかない。」 ルナンは、ほぼ同じ程度の真実性をもって、国際的あるいは世界市民的な感情もまた、百年の歴史しかない、と言ってよかっただろう。 どちらの言い方も、sentiment(感情)という語に十分な強調を置くなら、おおむね正しい。 これらの文章のいくつかは、拙著『Rousseau and Romanticism』194頁注で引用した。 『Réformes intellectuelle et morale』194頁。 中世が世界主義的であったこと、プロテスタンティズムの主要な帰結の一つが国民理念の発展であったこと、そして国民理念はまた、別の前提に立ちながらもマキアヴェリによって促進されたことを、改めて繰り返す必要はほとんどない。 しかし十八世紀になると、ナショナリズムもインターナショナリズムも、いっそう情緒的な色合いを帯びる。 その基底にある影響の一つは、ルソーによる「徳」の再解釈であり、この再解釈自体が、私が示そうとしてきたように、それ以前のかなり大きな運動の産物である。 新しい倫理によれば、徳は抑制的なものではなく拡張的なものであり、一つの感情であり、さらには一種の酩酊である。 それが未修正の自然な形であるかぎり、徳は憐れみに基礎を置き、ついには彼が『第二論文』で語る、国境を超え、慈愛によって全人類を抱擁する偉大な世界市民的魂の徳へと発展しうる。 ここに、過去一世紀の感傷的インターナショナリズムの源流がある。 しかしルソーは、すでに述べたとおり、単に人間としての人間の徳と、市民の徳とを鋭く区別する。 人が国家に入ることで「脱自然化」されるとき、その徳はやはり感情であり、さらには酩酊であるが、世界市民的であることからはほど遠い。 ルソーは、人間の徳と市民の徳という二つの型のあいだを揺れ動き、その両者を真剣に媒介しようと試みたとは、ほとんど言いがたい。 彼は、どちらの型の「徳」を欲するかに応じて、異なる教育体系を案出する。 たとえば『エミール』では人間をつくろうとし、『ポーランド統治論(Considerations on the Government of Poland)』では市民をつくろうとする。 祖国愛と人類愛とは両立しえない情念だ、と彼は宣言する。* では、感情的ナショナリズムと感情的インターナショナリズムとのあいだで、ルソー自身の選択はどちらだったのか、と問うてよいだろうか。 この点については疑いの余地がない。 * Vaughan編『Political Writings』第2巻、172頁参照。 祖国愛こそ、彼がより美しい情念とみなすものである。 インターナショナリストの徳なる酩酊は、市民の徳なる酩酊に比べれば色あせて力弱いものに見えるのであり、この点では歴史がたしかに彼を裏書きしてきた。 愛国的酩酊(l’ivresse patriotique)が、一国の市民を他国の市民に対して冷酷にしうるという事実も、彼にとっては些末なことであるらしいし、愛国感情を内側で濃縮して培養する彼の構想は、実際にこの一世紀、とりわけおそらくドイツにおいて現れたナショナリズムの型を予見しているかのようである。 このようにヨーロッパ、ひょっとすると世界が、統一へ向かう対抗原理を何ら持たずに、それぞれが思わず「狂乱的ナショナリズム」と呼びたくなるものに突き動かされた国家から成ることになるのだとすれば、戦争の問題は切迫したものとなる。 新しいナショナリズムが新しいインターナショナリズムより強力であることは、1914年8月、祖国の呼びかけに応じて、何百万人もの社会主義者が、他国の社会主義者仲間を屠るために行進していったときに露わになった。 プロテスタントの統一もまた不十分であったことは、二大プロテスタント国の人々が、高性能爆薬で互いを粉砕し合うのと同時に、相手国の女と子どもを集団として飢えさせようとしたという事実からして、十分明らかであろう。 さらに、ヨーロッパ文明の伝統的統一を代表する教皇権も、ナショナリズムの衝動を有効に抑え込むことができないことを示してきた。 1 『エミール』冒頭段落参照(「Tout patriote est dur aux strangers,」等)。 さらに、近代ヨーロッパで形成されてきた種類のナショナリティは、ルソーが指摘するとおり、条約や同盟によって互いに戦うのを防がれることはない。 彼はポーランド人に、キリスト教国のあいだでは条約や同盟など紙切れにすぎないと警告し、ただしトルコ人のほうが国際的義務をもう少し尊重する、と付け加えている。 ルソーがこの問題群を否応なく意識させられたのは、サン=ピエール師の『永久平和』の「計画」(原著1712〜17年刊)を抄録する「摘要」(1761年)を作り、さらにその「計画」への「判断」(1782年刊)を書いたときであった。 サン=ピエール師は、シュリーがアンリ4世に帰しているヨーロッパのアメリカ合衆国構想(le Grand Dessein、グラン・デサン)を復活させようとした。 ルソーはサン=ピエールの編集に関連して、中世以来のヨーロッパにおける戦争と平和の問題を論評するにあたり、かなりの慧眼を示している。 ある制度が、かつて政治的対立を和らげるうえで大きな役割を果たしてきたことを、彼は認める。 ヨーロッパが、今日に至るまでなお構成員のあいだに存続している一種の結合を、とりわけキリスト教に負っていることは否定できない、と彼は言う。 そして彼は、ハイネを先取りしホッブズに従って、ローマは物質的には敗北したのち、軍団の代わりに教義を属州へ送り込んだのだ、と述べる。 中世および近代のヨーロッパが、パクス・ロマーナのわずかな代用品として享受しえたものがあるとすれば、それはこの精神的ローマのおかげであった。 中世秩序における究極の結合要素は、神の意志と、その地上における代表者たち、とりわけ教皇への服従であった。 中世後期とルネサンスは、この統一原理の弱体化と、広大な領域国家的ナショナリティの台頭とを目撃した。 グロティウス学派によれば、これらのナショナリティ相互の関係は、いかなる意味でも「意志」によってではなく、主として「理性」によって規整されるべきものだという。 おそらくフランスにおける「職業的博愛家」の最初の完結した例ともいえるサン=ピエール師は、理性に対してさらに素朴な信頼を抱いている。 いったん確立されさえすれば自分の構想がどう働くかは十分わかっていた、とルソーは言うが、それを確立する手段については幼稚であり(この点で彼は、今日に至るまで他の「改革者」たちにも似ている)、というのである。 ルソーが不満を述べるところでは、彼の根本的誤りは、人間は理性によって支配されると思い込んだことであり、現実には人間は情念によって支配されているのである。* ルソーにとって自然状態は、いずれにせよ理性の状態ではない。 彼は、あまり牧歌的でない気分のときには、国家と国家の関係にかんして、ホッブズと同様それは戦争状態である、という見方に傾く。 その救済策として彼が好むのは、国際連盟、あるいは平和を強制するための同盟といったものとして、連邦的原理を何らかの形で適用することであるように見える。 しかし彼は、こうした構想の危険について、近代の提唱者の一部よりもはるかに生き生きとした感覚を示している。 平和を強制する同盟について彼は、「それは一撃で、何世紀分の防止効果を上回る害をもたらしかねない」と言う。 アンリ4世の「グラン・デサン」を支持しつつも、 彼は、この構想を駆動した力が、中世的意味でのキリスト教的なものでも、また人道主義的なものでもなく、帝国主義的なものだったことを見抜いていた。すなわち、スペインとオーストリア家を屈服させ、フランスをヨーロッパの覇権へと押し上げたいという欲望である。 アンリ4世は、戦争を終わらせるための戦争を準備していたが、暗殺によってそれは潰え、「世界最後の希望を永遠に追放した」のである。 ルソーは、ヨーロッパ諸国が軍備拡張によって自滅する運命にあることを予見している。 要するに彼は、自分自身が大いに強めつつあった遠心的ナショナリティという問題について、何ら十分な解決を残していないのである。 * Vaughan編『Political Writings』第1巻、392頁注。 ルソーは折に触れて世界市民主義者を公然と軽蔑してみせることもあるが、彼の主たる影響が及んだのは、国内的にも国際的にも、友愛を掲げて出発した人々であったことを示すことができる。その友愛は、自由と平等とが理想的に結び合わされるべきものとされたのである。 この福音がもたらした帝国主義的帰結を、ことにフランス革命において簡単に跡づけ、ついで民主主義と帝国主義の関係のより周辺的な側面から目を転じ、個人の心理においてこの全問題の根をつかもうとしなければならない。 ルソーは、われわれが見てきたとおり、ある特定の貴族制のみならず、貴族的原理一般を失墜させようとする。 「人民は」と彼は言う、「人類を構成する」のであり、人民でないものはすべて寄生的で、「害をなすのでなければ、数に入れるに値するかどうかすら怪しい」。 貧しい者や平民を、独善的な誇りで満たすと同時に、社会的・経済的優位を享受する者たちへの憎悪と猜疑心で煽り立てるために、これほど巧妙に練り上げられた教説は、かつてなかったかもしれない。 この時代を学ぶ者なら誰もが知る興味深い事実だが、ルソー主義、ひいては新しい博愛主義の普及に、おそらく最も力を尽くしたのは、他ならぬ特権階級の成員たち自身であった。 この奇妙な現象の原因は複雑だが、テーヌが『アンシャン・レジーム』で十分な精度で跡づけている。 フランス貴族は、リシュリューやルイ14世の時代にまでさかのぼって、貴族としての仕事を大幅に果たさなくなっていた。 彼らはサロンの蝶となり、宮廷の取り巻きと化していた。 そして、ある意味で「働くこと」をやめた者たちの敵は、常に倦怠であったが、加えてサロンの住人たちは18世紀前半、合理主義的な乾燥と、過度に人工的な礼儀作法に苦しめられた。 彼らはついに、自然と素朴な生活への回帰に救いを求めたのである。 周知のとおり、サロン生活には当初から牧歌的要素が含まれていた。すなわち、デュルフェの『アストレ』がランブイエ侯爵夫人とその一派に及ぼした影響を研究した者なら皆知っていることであり、これが別の形の田園趣味への道をいっそう容易にしたのかもしれない。 テーヌの言い方を借りれば、「気取り屋たちは、二つのマドリガルのあいだに、処女林で裸のまま眠る幸福を夢見た」のである。 マリー・アントワネットは自分で牛の乳を搾り、プチ・トリアノンで田園の夢を生きた。 新しい熱狂に取り込まれた多くの貴族や高位聖職者は、新しい平等のために身分上の特権をすべて捨てると誓いを立てたが、その平等自体も、黄金の友愛の夜明けへ至る前段にすぎないはずだった。 この友愛の到来は、あらゆるフランス人が兄弟の抱擁のうちに溶け合うことを象徴する意図で行われたChamp de Marsの連盟祭(1790年)において、実際に祝われた。 「人類の演説家」アナカルシス・クローツは、地上のさまざまな人種と諸国民の代表を、それぞれふさわしい衣装で国民議会の前に行進させ、さらに普遍的な友愛の象徴とした。 「これほど愉しい夢が、これほど恐ろしい目覚めに続いたことはなかった」とセギュール伯は言う。 普遍的友愛の代わりに、猜疑の熱病が増大していった。 ルソーの病は流行病となり、恐怖政治の最盛期には、人々は「疑われているという疑い」をかけられるに至った。 Champ de Marsの連盟祭で抱き合っていた当の人々が、今度は互いをギロチンにかけ始めた。 そうして死んでいった者の中には、「人類の演説家」もいた。 初期の犠牲者には、新しい博愛を熱心に推進していた特権階級の人々が含まれていたが、それは、現代のサロン的社会主義者たちも、彼らが唱える転覆が現実に起これば真っ先に苦しむ側に回るだろうというのと同じである。 チェスタトンの言うとおり、社会革命が起これば街路は博愛家たちの血で赤く染まるだろう。 革命後期の心理に踏み込みたいなら、ロベスピエールのようなルソーの公然たる弟子に特別の注意を向けるべきである。 彼はルソーのいう「徳」をかなり妥協なく採用し、その結果、現実のフランスに対置して「理想」のフランスを打ち立てるが、この「理想」のフランスは、私が田園詩的想像力と呼んだものの投影に大きく由来している。 彼が打ち立てた善人と悪人の対立は、個々人としての善悪の対立というより、むしろ階級全体どうしの対立に近い。 個人の功罪ではなく社会的な所属によって人を裁くことは、バークには極めて不正義に見えたが、実際にはフランス革命からロシア革命へ至るこの運動の論理に、最初から潜んでいたのである。 ダントンはすでにこう言っている。「この司祭たち、この貴族たちは罪があるわけではない。だが死なねばならない。場違いで、物事の進みを妨げ、未来の障害になるからだ」。 ダントンは、九月虐殺に責任がある限りにおいて、この革命的論理をある程度適用した。 しかしRobespierre and Saint-Justのような指導者たちは、それをダントン以上に、全面的な追放と粛清の計画へと押し広げた。 現実のフランスは、あまりに豊かで、あまりに人口が多かった。 Robespierre and Saint-Justは、寄生者や陰謀家から成ると彼らに思われた社会階層を、夢想するスパルタに合わせて現実のフランスを作り替えるため、暴力的に一掃する用意があった。こうして恐怖政治は、一般に思われている以上に田園詩的な挿話だったのである。これは「感傷主義の末期は殺人狂である」という主張に、もっともらしさを与える。 (参照)シャトーブリアン『墓の彼方からの回想』第2巻12-14頁:「悲劇が街路を血で染める一方で、劇場では牧歌劇が栄え、無垢な牧人と清らかな羊飼い娘ばかりが語られた。野原、せせらぎ、草地、羊、鳩、茅葺きの下の黄金時代が、笛の溜め息とともによみがえり、ギロチンの見物から出てきた鳴き交わすティルシスと素朴な編み物女たちの前で演じられた。サンソンに暇があればコランを演じ、テロワーニュ・ド・メリクール嬢がバベを演じていただろう。国民公会の面々は自分こそ最も温厚な人間だと気取り、良き父、良き息子、良き夫として子どもを散歩に連れ、乳母役まで務め、素朴な遊びに愛情の涙を流し、荷車が犠牲者を処刑場へ運ぶのを見せるため、子羊のような幼子をそっと抱き上げた」。 「彼らは自然、平和、憐れみ、慈善、純真、家庭の徳を歌い上げた。こうした博愛の陶酔に酔った者たちは、人類の幸福のためだとして、極度の感傷をもって隣人の首を刎ねさせた」。 理論上、ロベスピエールはルソー同様、徹底した平等主義者である。 彼は本当の指導者などではなく、人民の「雇われ人」にすぎない。 だが決定的な局面では、自分はその器官にすぎないと言い張る理想的な一般意志の名のもとに、現実の人民に対して専横に自分の意志を押しつける用意がある。 したがってルソー主義的運動の最終的な結果は、指導者を不要にすることではなく、むしろ劣悪で、時には狂気じみた型の指導者を生み出すことであり、いずれにせよきわめて帝国主義的な型の指導である。 この力の勝利は、ルソー主義的な意味での自由・平等・友愛がもたらす総体的帰結だと示しうる。 ルソー自身が、先に見たとおり、人々を自由であるように強制するだろう。 自由と平等を結びつけようとする試みは、そしてアクトン卿によれば常に、恐怖政治へと至る。 ジャコバン的友愛とは、結局「俺の兄弟になれ、さもなくば殺す」という一句に要約できる。 さらに、ロベスピエールのような指導者の衝突は、革命の敵に対してだけではなく、想像力が別々の「理想」を投影している、多少なりとも誠実な革命狂たち相互の間でも起こる。 それぞれが別々の夢を追って頑迷に突き進む指導者たちに共通する唯一の分母は、力である。 この運動は伝統的な統制を否認してしまったため、新しい結束原理について言えば、激しく遠心的なものに終わった。 ジャコバンの指導者たちが築き得た唯一の兄弟団は、テーヌの言うとおり、カインたちの兄弟団だった。 しかしロベスピエールは、革命から最終的に現れてくる運命にあった指導者の型ではなかった。 1790年という早い時期に、バークは革命が最後には何らかの軍事的な冒険家の利益に転化すると予言していた。 『社会契約(『社会契約論』)』から展開された人民主権の教義は、一種の慢性的無政府状態を助長することが判明した。 社会は何らかの規律なしには存続できない以上、他の形の規律が欠けると、人々は軍事的な規律へと向かわざるをえなかった。 軍隊には、ジャコバンが原理的に市民フランスで掘り崩してきた、秩序だった服従と、公認された功績への忠誠を、なお見いだすことができた。 だからボナパルトは偶然ではない。 彼こそ革命の真の継承者であり、執行者である。 18ブリュメールに、彼の擲弾兵がサン=クルーのオランジュリーで五百人会の議員たちを扉から、さらには窓から追い立て、彼が帝国主義的な超人としていよいよ露骨に姿を現したとき、ジャコバンが一団として距離を置いたなどとは考えられない。 むしろ明らかになったのは、無制限の民主政と冷酷な権力崇拝とのあいだに常に存在してきた親和性である。 元恐怖政治派の中には、ナポレオンの足もとにこれ以上ないほど卑屈に這い寄った者がいた。 「男爵や伯爵になろうとする段になると、ジャコバンは1793年の恐怖ばかりを語り、プロレタリアを罰する必要や、大衆の行き過ぎを抑え込む必要ばかりを口にした。 日ごとに、共和主義者が帝国主義者へ、万人の圧政が一人の専制へと変貌していったのである」。 (注) * シャトーブリアン『墓の彼方からの回想』第2巻243頁。 なおついでに言えば、シャトーブリアンのナポレオンへの反感が実効を持たなかったのは、彼の頭が心と一致していなかったからでもある。 彼がひそかにナポレオンに共鳴していたのは、ナポレオン的な「無制限さ」の性質と自分自身とのあいだに類似を見いだしていたからである。 ある意味で、両者の想像力は似通っていた。 私は別のところでロマン主義を定義しようとしたが、両者は道筋こそ大きく違うものの、いずれも無制限なるものへ向かって身を引き絞るように伸びていたのである。 ヴィクトル・ユーゴーもまた、 ナポレオンをある種の暴挙の作者として断罪しながら、同時にその「無制限さ」に強く魅了され、ナポレオン伝説を作り上げた主要な立役者の一人となった。 私は、フランス国内におけるルソー主義的民主政と帝国主義の関係を明らかにしようとしてきた。 ルソー主義的運動を国際的に検討しても、同じ関係が見えてくる。 世界の始まり以来、これほどまでに、より大きな国家では帝国主義的野心へとたやすく転化する種類の国民感情が自己増殖しやすかった運動は、ほとんどないのではないか。 私が言ったように、革命はほとんど当初から普遍的十字軍の性格を帯びた。 そこに前提された第一原理は、事実上、既存のあらゆる政府を正統性のないものに見せた。 諸国民は、簒奪に基づき、かつ本来の権利を奪い去ったとされたこれらの政府を打倒し、フランスとともに栄光ある友愛に加わるよう招かれた。 その後に続いたことは、繰り返すまでもないほど周知である。 こうして正統性を疑問視された政府のいくつかは危機感を抱き、同盟を結んでフランスへ侵攻した。この対外的脅威が、近代的意味での最初の大きな国民的熱狂をフランスにもたらしたのである。 ヴァルミーの砲撃が一瞬途切れたとき、ゲーテが耳にした革命軍の叫び「Vive la nation(国民万歳)」は、新時代の夜明けを告げるものとして彼が受け取ったのも当然であった。つい最近まで私たちがヨーロッパで目撃してきた種類の戦争、すなわち国民全体が集結して相互に殺し合う(総動員=levée en masse)という戦争の原型は、この時期にさかのぼる。 この新しい国民的熱狂は、数でも気概でも圧倒的な兵士をフランスに与え、フランスは侵略を撃退しただけでなく、今度は解放の使命を掲げて他国へ侵攻し始めた。 しかし現実の出来事の圧力の中では、友愛への意志よりも権力への意志のほうが強いことが明らかとなり、人道的十字軍として始まったものは、ナポレオンと帝国主義的侵略へと帰結した。 この侵略はまた諸国で新たな国民感情を呼び覚まし、強力で統一されたドイツへの道を切り開くうえで、他のあらゆる要因を合計した以上の役割を果たした。フランスはもはや「諸国民のキリスト」ではなく、特にスイス侵攻(1798年)以後、幻滅した当時の急進派によって普遍的に糾弾される「人類への裏切り者」となった。 ※ この時期を通じて、君主主義者も革命的理想主義者も、口にしていた動機に加えて、もちろん別の動機をも持っていた。この全期間については E. Bourgeois『Manuel historique de politique étrangère』第II巻、1〜184頁を見よ。 ※ M. Chuquetによれば、私が言及するゲーテの発言は戦闘当夜(1792年9月20日)ではなく1820年のものだという。『Revue hebdomadaire』1915年12月18日号の記事を参照。 「フランス革命はドイツ統一という理念を生み出した出来事であった。」ルナン『知的・道徳的改革』130頁。 ※ コールリッジ「France: an Ode」を見よ。対応するドイツ側の展開については G. P. Gooch『Germany and the French Revolution』各所参照。 人道主義的な友愛理論を退ける者は、友愛の感情に欠けると非難される危険がある。 これに対する批判的・実験的気質の人の明白な答えは、理論を退けるのはまさに友愛を望むがゆえだ、ということである。 すでに数世代にわたってこの理論を経験した後では、世界が憎悪と疑念の煮えたぎる巨大な塊になったかのように見えることさえある。 革命についてカーライルが書いたことは、いまなお当てはまる。「普遍的な慈善という薔薇色のヴェールの下には、暗く、争いに満ちた、地上の地獄がある。」 ついには、この運動における理想と現実の対照は、精神の志と肉体の弱さというありふれた対照ではない、という確信に導かれる。むしろこの特定の「人間の合一」の理想は、本来防ぐはずの争いの現実を、かえって促進しているのである。 それほど突飛でなくとも、平和主義的構想の流行と、現実の戦争勃発とのあいだに、一種の同時性を打ち立てることができるかもしれない。 サン=ピエール師の宣伝(提唱)の後に、Frederick the Great の戦争が続いた。 カントの『永久平和』論に表れた18世紀末の人道主義運動の後には、世界史上最も血なまぐさい戦闘の二十年間が、続き、またそれと並行して起こった。 20世紀初頭の平和主義的扇動は、ハーグの平和宮に外面的表現を見いだしたが、その後に何百マイルにも及ぶ戦線が現れた。 皮肉屋だなどと誰も言わないであろう故ブートルーは、1912年に「タン」紙の記者に対し、国外での平和談義の多さから、将来は「この上なく戦争的で血なまぐさい」ものになりそうだと推し量った、と語った。 戦争と平和の問題でも、他の領域でも同様に、人道主義者には、自説が機能しないあらゆる失敗に対して即座に用意できる説明がある。彼は、それでもこの陰謀さえなければ見事にうまくいったはずだ、と言い張るのである。 ある種の人道主義者に、自分たちの理論に何かが間違っていると納得させるには、地球が自滅するほどのことが必要だろうし、それでもなお、最後の一人生き残った人道主義者はきっと「陰謀だ」と嘆き続けるに違いない。 厳密に心理学的な観点から言えば、私たちが研究しているこの運動は、すでに百年以上前にその特徴的な果実をすべて結んだだけでなく、二人の際立って重要な人物、すなわちルソーとナポレオンをも生み出していた。 ナポレオンは、ルソーがいなければ革命はなく、革命がなければ自分はありえなかった、と言ったと伝えられている。 さてルソーは、人道主義のメシアと呼ぶに最もふさわしい人物である。 一方ナポレオンは、ハーディの言葉を借りれば、戦争のキリストと定義できる。 つまり人道主義のメシアが、私が粗い概略として描いてみた過程を通じて、戦争のキリストの出現へと至る力を動かしたのである。 人道主義運動の注目すべき特徴の一つは、感傷的側面でも功利的側面でも、大衆の境遇に強い関心を寄せてきたことだ。 たとえばコンドルセはこう言う。「すべての制度は、最も貧しく最も多数を占める階級の身体的・知的・道徳的改善を目的とすべきである。」 しかしこの運動では、感傷的側面に劣らず功利的側面においても、理想と現実の対照があまりに露骨で、人道主義の心理学に何か中心的な欠落があるのではないかと思わせる。 ルソー主義者が普遍的友愛の理想を掲げて、実際には普遍的徴兵へと至らせたのに対し、功利主義者は物質的な組織化と効率に最重要の重点を置き、自然科学の助けを借りて、人類に奉仕し「最大多数の最大幸福」を促進するはずだと理論上はされた巨大で相互連結した機械体系を、徐々に築き上げてきたが、実際にはそれが個人や社会集団や民族の権力への意志に奉仕するために駆り立てられてきた。 私が列挙した諸要因が結びついた結果、戦争はほとんど想像を絶するほど有害なものになった。 最大の犠牲者は、ルソー主義者もベーコン主義的な者も、あれほど熱心に利益を与えたいと公言してきた当の大衆であった。 現状の条件のもとでは、国家と国家、あるいは国家連合どうしの衝突は、フランケンシュタインの怪物どうしの衝突になってしまったのである。 思い出すべきは、フランケンシュタインの怪物は、一般に思われているような魂なき怪物ではなかったということだ。 それどころか、シェリー夫人が描いた彼は、ルソー主義的な意味では美しい魂の持ち主であり、おそらくは『若きウェルテルの悩み』のような作品から読書を覚えた結果でもあるのだろう。 彼が冷酷になるのは、自分の魂の美しさと共感への渇望が他者に理解されず、心理的な孤独へと押し戻されるときに限られる。 ここでもまた、感傷主義の最終段階は殺人の狂気である。 ※ 『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』第15章参照。 西洋世界全体、そして増大しつつ世界全体が、いま、何世代にもわたり西洋が主たる努力を注いで築き上げてきた物質的効率の巨大な機構を動かしている「魂」の質という、同様の問題に直面している。 この「魂」はルソー主義的な「魂」なのか、それとも真に倫理的な「魂」なのか。 人は、この文明(あるいは私たちがそう呼びたがるもの)を、伝統的な統制の衰退とともに姿を現しつつあるものとして、 利他主義と高性能爆薬の混合物だと定義したくなる。 もし利他主義のほうに何か不具合があるなら、その結果はかなり深刻になりうる。 理想主義者は、人間は自然のままでもあまりに美しいのでまったく統制を必要としないのだ、というか、さもなければ、仲間の善を考えることによって必要な統制を行使するよう人間を仕向けることができるのだ、と断言する。 いずれの場合も、すべては、自然人のうちに、愛、あるいは奉仕への意志という要素が存在し、それ自体で自然人の権力への意志に対する十分な釣り合いとなりうるかどうかにかかっている。 ここに利己主義者と利他主義者の分岐線があり、それは単なる効用への訴えの違いにとどまらない。 「最大多数の最大幸福」という原理は、すでに指摘されているように、マキアヴェッリ自身が主張している。 ※ 『マンドラゴラ』第3幕第4場参照。ただしこの箇所での原理の適用は皮肉である。 自然人における友愛への意志と権力への意志のどちらが強いかというこの論争の事実は、公平に見渡すなら、「理想主義者」よりもマキアヴェッリ派に有利に見える。 先見の明があると自負する人々こそ、マキアヴェッリを特別に崇拝すべきである。 彼は、あらゆる先見家の中でも最も成功した先見家と見なされるに足る。 ゲルヴィヌスの言葉を借りれば、「彼は近代史の精神を言い当てた」のだ。 先の大戦は「マキアヴェッリの再来」と評されてしかるべきものだった。 しかし科学が「殺人という秘術」を改良するうえで成し遂げ、なお絶えず成し遂げつつある進歩を見れば、空から数分で大都市を破壊できるらしいとさえ言われる今日、どんな鈍感な者にも、マキアヴェッリの再来を許す余裕など我々にはないことが明らかなはずだ。 現状の条件のもとで、こうした再来がもう一、二度でも大規模に起これば、白人文明の終焉、ひいては白人種そのものの終わりさえ意味しかねない。 いま終わりつつある時代の重大で明白な誤りは、機械的・物質的な進歩を道徳的進歩と取り違えたことだった。 自然科学はそれ自体の領分では優れているが、最高度の道徳問題が関わるときには、正しくも指摘されているように、単なる増幅装置にすぎない。 中心に正しさがあるなら、それは疑いなく正しさを増幅するだろう。 だが逆に中心に誤りがあるなら、今日のように人々が結びつけられている状況では、その周縁への反響は恐るべきものになる。 ラジオや無線電話のような発明が発達した結果、世界全体がきわめて文字どおりの意味で「ささやきの回廊」になりつつある。 そこでささやかれる言葉が憎悪と猜疑の言葉であったなら、何が起こるかを長々と述べる必要はほとんどない。 人々の物質的結合が強まる一方で精神が遠心的なままであるなら、それはマキアヴェッリの再来、言い換えれば狡知の法則と力の法則の勝利であり、過去に比類のない規模でそれが起こることを意味する。 最上級の言葉は危険だが、現在の状況を前例のない深刻さだと述べても、おそらく許されるだろう。 ※ この点はJ・ミドルトン・マリー氏が「文明の本質」論(『知性の進化』168頁)で見事に述べている。 民主主義と、それが説いてきた特有の友愛が帝国主義とどう関わるかを論じるにあたり、私はこれまで主として、この関係の国内的・国際的な局面に話を限ってきた。 いまこそ約束を果たし、周縁から中心へと踏み込みつつ、個人の心理のうちにこの問題全体の根を探るべき時である。 あらゆる帝国主義の背後には究極的に帝国主義的な個人がいるのと同じく、あらゆる平和の背後にも究極的に平和的な個人がいるからだ。 私はすでに、個人という観点から戦争か平和かの問題を研究するうえで最重要の区別を一つ示したが、それは、霊的な従属を含意する伝統的キリスト教の自由観と、第二論文の「無国家」でも『社会契約論』の「全国家」でも徹底して平等主義であるルソー主義的自由観との区別である。シェリーは『プロメテウス・アンバウンド』の末尾で、伝統的な従属や不平等の廃止から生まれるはずの楽園を、まさに第二論文の精神で描いた――「忌まわしい仮面は落ち、人間が残る。王笏なく、自由で、限界なく、しかし人は平等で、階級なく、部族なく、国家なく、畏れも崇拝も位階も免れて」。 だがこの計画を実行に移そうとすると、この運動のまさに中核にある巨大な皮肉と矛盾が露わになる。 それは現実世界の基準を打ち壊し、純粋に架空の理想を優先させる方向へと人を導く。 平等主義的自由を打ち立てようとする試みの実際の帰結を知るには、シェリーではなくシェイクスピアに目を向けねばならない――「位階を取り去り、その弦を狂わせてみよ、すると聞け、どんな不協和音が続くか!万物はただ対立し合い、やがて万物は力のうちに自らを包み、力は意志へ、意志は欲望へ」。 この最後の一句は、倫理的統制が欠ければ「人は、荒々しく定まらぬ無限の欲望を満たすこと以外に善を知らない」と言ったジェレミー・テイラーの言葉を思い起こさせる。 「無限」という語が、ここに不可欠な観念を付け加えている。 ほかの動物にも欲求はあるが、それは一定の明確な限界の内にあるのに対し、人間は善い意味でも悪い意味でも「無限の動物」なのである。 マキアヴェッリが君主を獅子と狐の徳を兼ね備えたものとして語るのは、きわめて比喩的である。 獅子も狐も、現実の身体的欲求を満たすのに必要な以上には、力や狡知を繰り出さない。 彼らは他の動物の上に狐的帝国や獅子的帝国を打ち立てようとはしない。 カーライルが靴磨きについて言うように、「宇宙の半分を与えられれば、残り半分の持ち主とすぐ喧嘩を始める」と彼らについて真実に言うことはできない。 もっとも、スウィフトの言うとおりではあるが。 ときに獣は堕して人間になる。 しかし概して、カーライルの靴磨きのような仕方で無限な人間は、獣じみるのではなく、悪魔じみてゆく道を順調に歩んでいる。 この無限性の結果として、人間はほとんど必然的に、他の動物より善くなるか、さもなくばより悪くなるかのどちらかである。 人間の第一の必要は、他の動物のように限られた身体的欲求を満たすことではなく、自分自身に対して良い顔を保つことだ。 さて「自惚れ(conceit)」という語の本質は、かつては想像力一般の同義語であり、いまでは自己中心的な型の想像力と近しい意味で用いられるが、ともかく無限へ向かって引き伸ばされていくところにある。 この自惚れは、残念ながら、未再生の人間においては、自分の自惚れに対抗する主張を立てるように見える相手への羨望や嫉妬と密接に結びついているように思われる。 自惚れはまた、真理に対する人間の態度を大きく左右する。 自然法にかなう真理は、それが自分の力や安楽の役に立ち、あるいは少なくとも驚異や好奇心を刺激するがゆえに、人はこれを歓迎する。 霊的真理は自惚れを減じるので、歓迎されにくい。 この意味での真理は、ゲーテの言うとおり、制限を課すのに対して誤謬は課さないがゆえに、人間性にとって誤謬よりも相性が悪い。 誰かが火星と無線通信しようとしているとか、月にロケットを撃ち込もうとしているとか、そう告げれば、平均的な人はたちまち敬意をこめた関心と注意を示す。 ところが、自分の幸福のために謙虚と自制の道を歩む必要があるのだと告げると、彼は無関心になるか、あるいは積極的に反発さえする。 人間の自惚れ、そしてそれが自然人の衝動に与える無制限の膨張傾向には、さまざまな型がある。 主な型の分類としては、伝統的キリスト教が区別してきた三つの欲、すなわち知識欲・官能欲・権力欲という区分が、おそらく最も適切なものの一つである。 歴史上の征服者や偉大な軍事的冒険家において、権力欲がどのように現れてきたかを研究するのは興味深い。 サン=テヴルモンは「Vast(広大)という語についての論考」で、この種の帝国主義的心理について鋭い観察をいくつか示している。 彼が指摘するように、偉大な支配者たちが計画や野心において示す広大さは、その想像力の質に由来する。 サン=テヴルモンは、想像力が無限へ向かって外へ外へと引き伸ばされていくことを、ピュロスやアレクサンドロス、リシュリューの強さではなく弱さだと見なす。 サン=テヴルモンがナポレオンにまでその洞察を及ぼせなかったのは残念である。 ナポレオンは明らかに二つのまったく異なる「ヴィジョン」を示した。自然的秩序を扱うとき、たとえば戦闘を計画するときには、事実へ驚くべき集中力を発揮したが、より純粋に人間的な秩序の要因が入り込む政治的野心においては、想像力を限界づけられない無能力を露呈し、それが遅かれ早かれ破局を招く運命にあった。 私が定義した二種類のヴィジョンが結びつくと、我々が政治・軍事の指導者だけでなく商業上の指導者にもきわめて見慣れてしまった一つの型、すなわち有能な誇大妄想者という型が生まれる。 こうした指導者の驚くほど多くが、少なくとも意図においては、超人であり、小さなナポレオンであった。 サン=テヴルモンが過去のさまざまな大支配者に帰したのと同じ一般型の想像力をナポレオンが持っていたとしても、ルソー主義的理想主義に対して帝国主義的な権力への衝迫が勝利したことを理解するためには、なぜナポレオンが他の人々の想像力をそれほど魅了するのかを、なお説明しなければならない。というのも、この種の指導者は、多くの共犯者がいなければ明らかに無力だからである。 ルソー主義者は、私が言ってきたように、伝統的な統制を打ち壊すが、新しい統制を打ち立てはしない。 その結果、自然主義的水準へと堕していった多くの人々のうちに現れるのは、友愛への意志ではなく権力への意志であり、この意味でルソー主義者は、理論上は防ごうとしているものを、実際には促進していることになる。 以下を述べるには、フロイト心理学を、フロイト派自身がこれまで主として関心を向けてきたリビドーよりも、あるいはいっそう根本的なリビドー、すなわち支配欲(libido dominandi)に適用する必要がある。 自然主義の時代には、普通の人間は多かれ少なかれカーライルのいう靴磨きの境遇に置かれるが、同時に四方八方から妨げられて、権力へ向かう線に沿って自由に自己を拡張できず、そのため自惚れはしぼんでしまう。 彼は抑圧され、挫かれた欲望に苦しむ。 だが、直接には得られないものを、代理的に手に入れることはありうる。 ここで、ハーディがナポレオンを「戦争のキリスト」と呼んだことの意味が見え始める。 ナポレオンがかけた魔力は、シャトーブリアンの言う元ジャコバン派だけでなく、フランスの大衆にまで及んでいた。 彼がエルバ島から帰還したとき、大衆がいかに彼のもとへ結集したか、しかも彼が彼らにほとんど計り知れぬ害悪をもたらした後でさえそうだったことを思い起こしてみよ。「そうだと言われる、彼は我らに害をなしたが、それでも民衆はなお彼を崇める……」など。 私は、倫理的指導性を備えたバークの国家を、単なる「寄せ集めの自尊心」と見なすのは誤解を招くと言ってきた。 しかしこの語句は、ナポレオン的指導のもとにある国家に当てるなら、一定の適切さを持つ。 この帝国主義的要素の侵入は、世俗の諸制度だけでなく世界の諸教会にも強く見られる。というのも、理論上いかに汚れなきものであろうと、それらは人間によって運営されるからである。 教皇権においてこの要素を見落とすのは容易ではない。たとえ、チュレルのように「ローマが気にかけるのは宗教ではない、ただ権力だけだ」と断言するところまでは行かないとしても。 人間が据えた神々そのものが、かなりの程度、彼らの寄せ集めの自尊心であるかのように感じられることがしばしばある。 ドライデンの言うとおり、「自分で仕事ができないとき、敵を叩きのめすために神が味方についてくれるのは嬉しい」のだ。 ジョナサン・エドワーズには真の宗教的高揚があるが、彼が明らかにその「激烈さ」を喜び、罪人を足の下に踏みつけ、その血が「衣にふりかかる」まで踏みにじるエホバは、エドワーズを神学上の帝国主義者として退けたくなる者もいそうである。 さらに明白な例は、近ごろバプテスト派を分裂させている原理主義者集団の一部で、キリストの再臨を、ネロやカリグラさえ立派に見えるほどの色彩で描いてきた人々である。 キリストが最初の来臨においてユダヤの民衆を深く失望させたことを、いまさら詳述する必要はないだろう。彼らが望んだメシアは、彼らが実際に受け取ったメシアより、はるかにナポレオンに近かった。 もちろん、宗教的信念にもそれを司る人々にも私が見いだした帝国主義的要素が、すべてではないのは言うまでもない。 とりわけキリスト教の場合、それがすべてではない。 キリスト教は実際、人間の心の膨張的な欲望を、そして他の欲望とともに権力欲を、かなり抑える働きをしてきた。 ダンテの言い方を借りれば、「獣性のうちに野をさまよう人間」には二重の統制が必要である。「啓示に従って永遠の生命へ導く最高教皇の統制と、哲学の伝統に従って現世の幸福へ導く皇帝の統制」とである。 もちろん現実がダンテの理想と正確に一致したことはなかった。 当時の私利を追う支配者たちへの彼の猛烈な痛罵から推すと、そのころのヨーロッパも、今日のヨーロッパが確かにそうであるのとほとんど同じほど狂っていた、とさえ推論できる。 それでも中世形態のキリスト教は、ヨーロッパに少なからぬ精神的統一と結束を実際にもたらしたし、たとえ不和があっても、精神的に相いれない者どうしが物質的には結びつけられているという随伴事情によって、今日のように無限に有害なものへと増幅されはしなかった。 De Monarchia、III、第16章。 さて、ここでも他の箇所でも述べてきたことだが、この古いヨーロッパ的統一の喪失は、最も一般的な意味で「批判精神」と呼びうるものの興隆に由来し、この批判精神はひいては個人主義の精神と同一だった。 近代的であることは、実際上、ますます実証的かつ批判的になり、個人にとって「先行し、外在し、優越する」権威によって何事も受け取ることを拒む、ということを意味してきた。 なお外的権威の原理にしがみつく人々と、私は争うつもりはない。 私の主たる関心は彼らではない。 私自身、徹底した個人主義者であり、私と同じく近代という実験に取り返しのつかぬほど身を委ねた人々のために書いている。 実のところ、私が近代人に異議を唱えるにしても、それは彼らが十分に近代的でなかった、言い換えれば十分に実験的でなかったからである。 自然法の領域では、近代性に踏み込んだ人々は、明らかに私の基準を少なからず満たしている。 たとえばベーコンには、スコラ学者の先験論や言葉の詭弁、権威への卑屈な依存のように見えたものに代えて、実証的観察を据えたことは、予期された成果を実際にもたらした。 しかし近代性の使徒たちは、人間の力と有用性に奉仕するだけでは満足しなかった。 彼らはまた、旧秩序の精神的統一に代わるものを持つと公言したが、ここでは、彼ら自身の原理に従って、すなわち実験的に試されると、私が示そうとしてきたように、惨憺たる失敗を喫した。 近代運動の物質的成功と精神的失敗の結果は、いま我々の前にある。 西洋人の力が、その知恵を大きく先行してしまったことは、誰の目にも明らかになりつつある。 もし西洋人が知恵の側の不足を真剣に埋め合わせようとしている兆しがあるなら、見通しはもっと明るいかもしれない。 ところが逆に、彼はほとんど自動的に、さらにさらに大きな力へ手を伸ばしている。 もし彼が原子に閉じ込められたエネルギーの貯蔵を解き放つことに成功するなら(そしてそれが物理学者たちの最新の野心らしいが)、最後の偉業は自らをこの惑星から吹き飛ばすことになるかもしれない。 破壊の手段があまりに恐ろしくなって、誰も使おうとはしなくなるだろう、と我々は聞かされるが、同じ議論は大戦前にも聞かれた。 しかし我々がこれらの破壊手段を積み上げているまさにその同時に、伝統的統制の崩壊と、これまでのところ十分な代替を供給できていないこととが相まって、ためらいなくそれを使う愚者や狂人を生み出しつつある。 実際、我々にまだ残っている知恵は、ただの生き残りにすぎないように思われることさえある。 少なくとも、古い道に立って、今日「進歩的」と見なされるものの多くに対して、あからさまに反動的な態度を取ると決める人々の観点は理解できる。 さらに、1864年の『誤謬表』第80条でピウス9世が述べた、いわゆる山岳越え派カトリックの観点さえ、汲み取れないことはない。「教皇は進歩、自由主義、近代文明と和解し、折り合いをつけることができ、またそうすべきだと言う者があるなら、その者は破門されよ。」 とはいえ、中世から近代への移行、言い換えれば外的権威から個人主義への移行の過程で、何か重要な要素が脱落したことを認めつつ、なお近代人にとどまることは可能である。 ただしその場合、徹底して近代的であることが、しばしば思われているほど単純ではないことを明確にしておくべきだ。 私は、人間が従うのは一つではなく二つの法である、と強調するのが好きだが、完全に近代的であるためには、自然法においてだけでなく、人間法においても、実証的かつ批判的でなければならない。 近代性を誇ってきた人々はこれまでのところ大半が、自然法に即して多かれ少なかれ批判的であるにとどまり、あとはさまざまな合理主義的工夫、あるいは牧歌的な空想によって、不完全な事実調査を継ぎ足してきた。 人間法の領域では、伝統との急進的断絶を標榜した19世紀は、一方で合理主義の時代であり、他方でロマン主義的夢想の時代だった。 私の判断では、このように伝統と決別した者は、近代人ではなく近代主義者と呼ぶべきである。 「近代」という語は、人間法と自然法の双方に即して批判的であろうとする人にこそ留保されるべきだ。 この課題に取り組もうとする者は、「実験」という語に、近年通常とされてきたよりはるかに広い意味を与える必要があると気づくだろう。それは実験室で行われる種類の実験だけでなく、遠い過去にも近い過去にも行われてきた、さまざまな人生哲学の実地試行をも含むよう拡張されねばならない。 たしかに、今日では過去に教えを求める人間は、多かれ少なかれ反動的だと見なされがちである。 よりおなじみの型は、過去を否認し、現在をかろうじて容認し、想像力のうちではただ、あの広大で風の吹きすさぶ住処たる未来にしか居場所を持たない進歩主義者である。 しかしゲーテは反動としてではなく、鋭く実験的な気質をもつ者として、我々は「その時々の逸脱」に対して「普遍史の巨大な塊」を対置すべきだ、と語っている。 無数の研究者の労苦の結果、この普遍史の巨大な塊は、古代中国のFighting States(紀元前三世紀)の時代から、現代ヨーロッパの「fighting states」の時代に至るまで、我々にとってかなり利用しやすくなりつつある。 しかし、過去の記録を生かし、そこから「その時々の逸脱」を裁く基準を組み立てるには、克服しがたいとまでは言わぬまでも重大な困難があることは認めねばならない。 もっとも明白な難点は、歴史は決して繰り返さないという言い方の中に、一面の真理が含まれていることである。 もしそれが真理のすべてで、歴史がいかなる中心的な人間法則の働きも示さない、無関係な出来事の渦にすぎないのだとしたら、過去の経験の光で現在を判断しようとする企てなど、ヘンリー・フォードの言葉(あるいはそれに類するもっと洒落た言い回し)で退けてよいことになる。「歴史はたわごとだ」と。 だが、歴史が繰り返さないのが真であるのとほぼ同じだけ、歴史はつねに繰り返しているとも言える。これは人生そのものの逆説の一部で、ここに同一性、あちらに変化という具合ではなく、つねに変化しつづける同一性を与える。 多様の中の統一という含意は理性にとっての醜聞であり、哲学者たちは概してギリシア以来、理性の助けで多様から統一を抽出しようとするか、同種の合理化過程によって統一を犠牲にして多様を強調するか、いずれかに努めてきた。 そして今もてはやされている哲学者のほとんどすべてが、言うまでもなく後者に属する。 だが徹底した実証主義者は、人間経験の中の不変の要素と可変の要素とのあいだを媒介するところに知恵がある、と主張するだろう。 愛と同情の浸透によって人々のあいだに統一を打ち立てようとするルソー主義者に対し、彼が唱える異議は、その統一が幻想だという点にある。 もし、この非現実の統一という、ロマン主義的想像力の単なる幻に対して、理性によって幻を取り除き、堅固で不動の統一をひとたび定式にして仕舞い込むことができるのなら、問題はきわめて容易であろう。 しかし、人生をありのままに見据える者は、このようにして幻想の要素を消し去れるとは認めない。 その要素を認めることは、自らが夢想家になることではなく、むしろ鋭い観察者であることの証しである。 幻想にどのような役割を与えるかにこそ、たとえばシェイクスピアやソポクレスのような偉大な詩人の知恵が最も明瞭に現れている。 私は別のところで、この幻想の問題が想像力の問題といかに密接に結びついているかを示そうとした。 最後の対立は、理性あるいは判断と単なる幻想とのあいだではなく、移ろいやすく幻想的なもののただ中でなお存続するものへと鍛えられた想像力と、ある「幻影の帝国」を野放図にさまようのを多かれ少なかれ許された想像力とのあいだにある。 経験から益するためには、鍛えられた想像力の真のヴィジョンが不可欠であり、しかもその仕事は、当の経験が自分自身のものであるか、同時代人のものであるか、近い過去ないし遠い過去のものであるかに応じて、ますます困難になる。 この種のヴィジョンは落胆するほど稀に見えるが、これを欠けば人は、とりわけ自分の進歩性を最も自負しているときにこそ、ただ「最も古い罪を最も新しいやり方で犯す」危険にさらされる。 経験は厳しい学校だが、愚者はそこからしか学ばない、と言われる。だがときに思うのは、他人の経験は言うに及ばず、自分の経験からさえ学べるのは、かなり賢い愚者だけだということだ。 1 『ルソーとロマン主義』序論を参照。 だが当面の話題に戻れば、遠い過去の経験を我々の民主主義的=帝国主義的時代に適用しうるこの種のヴィジョンは得がたいが、そもそも歴史に訴えようとするならきわめて必要に思われる。 というのも、今日の混迷に近い類比を見いだすには、かなり古い時代まで遡らねばならないからである。 第一次世界大戦とその心理的背景を、ギリシアのペロポネソス戦争期になぞらえる類比を指摘した人は少なくない。そしてこの類比は、十分な慎重さをもって用いるかぎり、有益である。 ペロポネソス戦争期は我々の時代と同様、商業的・帝国主義的膨張の時代であり、この膨張は、とくにアテナイにおいて、平等主義的民主政への傾向の増大を伴っていた。我々の時代同様、自然と慣習とを対立させることで伝統的規律を否認する「知識人」の時代でもあった。 この自然崇拝は、否定的にはあらゆる規範的・既成のものへの反逆を意味し、肯定的には一方で超人への讃嘆を、他方で弱者への同情を意味したが、この後者の要素は古代自然主義では近代自然主義ほど顕著ではなかった。 当時のソフィストを研究していると、我々の「流転の哲学者」や、アリストパネスの言い方を借りれば「渦巻き神」の信奉者を思い出さずにはいられない。 「この時代の典型的な民主主義的=帝国主義的政治家はペリクレスである。アテナイの膨張政策の危険、そしてギリシア人の結束の重要性を理解するには、キモン型の保守派に目を向けねばならない。」 古代アテナイにも、この無政府的個人主義の危険を見抜く者がいなかったわけではない。 ある者は、アリストパネスのように、ただ「よき昔」への回帰を唱え、ソクラテスと凡庸なソフィストとを区別することすら拒んだ。 しかしソクラテスは、言うまでもなく、プラトンとアリストテレス、そしてより小さな弟子たちとともに、崩れゆく伝統的基準に代えて、批判精神により適う基準を打ち立てようとしていたのである。 ソクラテス的試みは、総じて、とりわけ政治の領域では失敗に終わった。 その失敗の原因は複雑である。 私はまもなく、ソクラテス哲学そのものの重大な欠落と思われる点を指摘するつもりである。さらにまた、逆説でもなく、狡猾なオデュッセウスの時代以来、ギリシア的精神にギリシア的性格が見合わなかったその失敗のために、西洋文明はいまなお苦しんでいる、と主張することもできる。 」 ギリシア人の敵だと誰も非難しないキケロは、この問題について決定的と見なせる一節を残している。彼の Oratio pro L. Valerio Flacco, iv を見よ。 アリストテレスによれば、ヘレネスがただ結束しさえすれば、世界を相手にしても持ちこたえられたはずだという。 だが不幸にも、彼らは決して結束できなかった。 政治的伝統が本質において宗教と同一であり、なお諸ポリスの市民を結びつけていた時でさえ、各国家は相互に遠心的だった。まさに各国家がそれぞれ異なる神々を持っていたからである。 これらの政治宗教的伝統が崩壊し、それが与えていた精神的統制に代わるものをソクラテス的な道筋その他で作り出すことにも失敗すると、各ポリスの市民は、他のポリスの市民に対してのみならず、互いに対しても遠心的になっていった。 その結果、階級闘争の忌まわしい出来事が相次いだ。 たとえばミレトスでは、貧民が優勢となって富者を都市から追放した。 だが後になって、殺し損ねたことを悔やんだ彼らは、その子どもたちを取り上げ、納屋に集め、牛の足で踏み殺させた。 そののち富者が都市に戻り、再び支配者となった。 彼らは今度は貧民の子どもたちを捕らえ、松脂を塗りつけて生きたまま焼いた。これは、フランス革命からロシア革命に至るまで、近代世界がすでにかなりの「第一回分」を受け取っている類の出来事である。 退廃したギリシア人は、今日我々の時代に階級闘争を唱える者たちと同様、立派な言辞を弄したが、実際に支配しがちだった法は力の法であった。 そしてその力は、こうした場合によくあるように、ついには外部から供給された。最初はマケドニア、次いでローマである。 帝国主義的な専制者へのこの最終的屈服に際して、退廃したギリシア人は、偉大な時代のギリシア人なら深い恥辱と感じたであろうことを、やや卑小な虚構によって慰めた。すなわち自分は人にではなく神に服しているのだ、というのである。 * アテナイオス、xii, 26 を参照。 私が試みてきたような要約は、必然的に大いに誤解を招く。 何ものも、原典についての直接の知識、なかでもプラトンとアリストテレス、そしてトゥキュディデスの知識に取って代わることはできない。 とりわけアリストテレスの『政治学』は驚くほど現状に切実であり、しかもこの国で我々が、憲法的な錨を手放して、直接ないし無制限の民主政へと漂流し始めた今、誰でもそれを自ら確かめられる。 朝刊と同じくらい現代的で、しかも少なくとも百倍は分別のある箇所がある。 ローマも後に、これとやや似た循環をたどった。究極的には宗教的統制の上に立つ立憲共和政が、その統制の弱化とともに次第に平等主義的民主政へと譲り、そしてそれが、階級闘争に伴う常の出来事を経て、退廃した帝国主義へと移行したのである。 放縦な個人主義が帝国主義的な帰結を招くことは、すでに触れた古代中国における封建制の崩壊と、その結果としての Fighting States の時代からも例証できる。 この時代の哲学の一部、たとえばメイティ(Mei-ti)のそれは、功利的要素と感傷的要素の混淆を示しており、ギリシアやローマに見いだされるどんなものよりも、おそらく我々の同時代の人道主義に近い。 末期には、勢力均衡、世界的兄弟愛、そして「国際連盟」を含め、ありとあらゆることが試み尽くされ、言語を絶する惨禍ののちには、もはや誰も幻想を抱かなかったようである。残った問いは、どの帝国主義的指導者が最初に他のすべてに自らの意志を押しつけることに成功するか、ただそれだけだった。 アルフレート・フォルケによって、賛辞に満ちた序文付きの『メイティ』独訳が最近刊行された。 儒者が最後に最も重んじる徳である仁は、ふつう「仁愛」などと訳されるが、利他主義とはまったく別のものである。 これは、孟子がメイティに示した容赦ない敵意を見れば明らかであろう。 仁を高く掲げるのは、愛こそが律法の成就であると断言する、儒教なりの言い方にすぎない。 仁が宗教的というより人文的次元で現れる以上、西洋で最も近い類比は、おそらくアリストテレス『ニコマコス倫理学』第八・九巻における友情論である。 我々の西洋文明が、今まさに走っているらしいこの帝国主義的循環の最終段階にまで到達するなら、その前途は明るいとは言いがたい。とりわけ自然科学が「殺人の秘術」を絶えず改良していることを思えば、なおさらである。 北アメリカ、そしてかなりの程度まで。 南アメリカも言うまでもなく、西ヨーロッパ諸国と同じ文化圏に属している。 この文化圏の諸国はいずれも今、過度に遠心的な個人主義の兆候を、形はさまざま・程度もさまざまに示している。 こういう状況ではしばしば外部世界が最後の決定権を握るが、今日の通信手段の発達を考えれば、その外部世界とは、アジアの巨大な競合文化をとりわけ含む、その他すべての人類だと見なしてよい。 先に定義した文化圏のうち、とりわけ強国は、互いに対して帝国主義的であるばかりか、周縁の諸民族・諸文化に対しては、ことさらに露骨に帝国主義的である。 民主的に統治されているはずの国々が、この点で他と大きく異なるとは、とても思えない。 1790年という早い時期にミラボーはフランスの熱狂家たちに、「自由な人民は戦争をいっそう熱望し、民主政は最も絶対的な専制政治よりも情念の奴隷である」と警告している。 これは、明白な政治的意味において、ヨーロッパだけでなく世界の他の地域にも当てはまる。 たとえば共和政フランスは、アフリカとアジアにまたがる帝国を熱心に求めて手を伸ばしてきた。 しかし、こうした目に見える政治的拡張よりも、おそらくさらに重要で、しばしばそれへとつながる帝国主義的拡張がある。すなわち商業主義者の帝国主義的拡張である。 「貿易は国旗に従う」と言われるが、より重大な真理は、むしろ国旗が貿易に従う傾向があるということだ。インドにおける British Empire の起源を思い起こせばよい。 貿易それ自体が平和の媒介だという、十八・十九世紀の多くの自由主義者の考えを、いまさら反駁するまでもあるまい。 商業的利害は、ヨーロッパ諸国の衝突と危険な対立を、ヨーロッパ内部に限らず、世界の各地で引き起こす。 したがって、今日の帝国主義の主要な側面の一つは、国際的な石油争奪戦である。 ある良識あるフランスの刊行物の最近号には、次のように書かれている。「彼らの計画を成功させるために、 カウドレー卿とカーゾン卿は、メキシコで革命を煽り、アジアに内乱の種をまき、競争相手を潰すためにはヨーロッパと世界に火を放つことさえできる! 彼らの帝国主義は世界的な危険だが、壮大さに欠けるわけではない」。 * 私見では、現代イングランドの指導者たちはそこまでマキャヴェリ的ではない。だが、いま引用した見方はフランスで広く行き渡っており、フランスとイングランドが調和ある関係を築くために不可欠な信頼を生むどころではない。 この石油問題は、状況次第ではイングランドとアメリカの間にさえ深刻な緊張を招きかねない。 ^『La Vie dee peuidee』第VII巻196頁参照。 こうした帝国主義的拡張が提起する最大の問題が、アジアと西洋との関係であることは、ますます明らかになってきた。 現状には、真の世界大戦、すなわち東西の戦争へと至りうる可能性がある。そのときには、先のヨーロッパの戦争など、振り返ればかすかな序曲に見えるだろう。 ヨーロッパ人が、最新かつ洗練された科学的効率の方法で互いを殺し合うという贅沢を長期にわたって享受しつつ、同時に約九億のアジア人に対して帝国主義と人種的な威張り散らしを押しつけられる見込みがあるとは、表面上ほとんど思えない。とりわけアジア人は、ヨーロッパ列強の帝国主義的競争とほとんど不治の分裂を、ヨーロッパ内だけでなくアジアの土壌そのものの上で目撃できるのだから。 私の言う可能性が、明日にも現実化するとは限らない。 だが孔子の言うとおり、「遠くを見ることのできぬ人には、近い憂いがある」。とりわけ孔子の国そのものを念頭に、我々の東方との関係を長期的視野で捉え直す試みを始めるべき時である。 さてアジア問題は、政治的観点から見ると、いくつもの小問題に分かれる。 たとえば近東問題があるが、これは主としてイングランドとフランスがまともな合意に達する力を欠いていたために、重大な失政のもとに扱われてきた。 さらにインド問題がある。 また、極東との関係におけるアメリカ合衆国の問題もあり、太平洋の覇権をめぐる巨大な闘争が起こりうる気配がある。 ここで我々は日本という不吉な兆しに出会う。日本は、西洋流の最もお墨付きのやり方で帝国主義のゲームを学びつつあり、さらには「白人の責務」という人道主義的帝国主義の決まり文句を自国用に取り込み、中国を「日本の責務」と呼び始めている。 最後に、そしておそらく最も重要なのがロシア問題である。ロシアは地理的にはヨーロッパとアジアにまたがり、心理的にも、少なくとも人口の大部分に関する限り、ヨーロッパ的であるのと同じくらいアジア的な国である。 上層階級の絶滅ないし窮乏によって、ロシアと西ヨーロッパのあいだの心理的断絶は、いっそう際立ってきている。 ボルシェヴィキ革命は、その根本原理がフランス革命に由来することを示しうるが、帝国主義的な毒性においてはフランスのジャコバン主義以上であった。 ロシアは当分のあいだ、ロシア人のみならずドイツ人や日本人、さらにはおそらくトルコ人による帝国主義的策動の肥沃な舞台であり続けるだろう。その背後にはイスラム世界全体が控えている。 かつてあるギリシア人が、他のギリシア人に対抗して非ヘレネス世界と結ぶ用意があったのと同様、雪辱を望むドイツも、これらヨーロッパ外の勢力と提携したくなるかもしれない。たとえそれが、ドイツ自身が属する文化圏の重大な利害を裏切る行為に等しいとしても。 しかしこの種の考察は、最善の場合でも高度に推測的であり、たとえそれを語る者が政治に通暁しているとしても、私は自分にその能力があるとは主張しない。 実際のところ、政治問題を正面から扱うことは、私の方法の範囲外である。 私の方法は、少なくとも意図においては、純粋に心理学的である。 ヨーロッパ対アジアという問題に心理学的に近づき、十分に長い射程で眺めると、ある際立った事実が注意を引く。すなわち、ギリシア・ローマ世界が与えられなかった、人間同士を真に霊的に結びつける原理は(それを打ち立てようとしたストア派の試みは概して失敗に終わった)、ついに東洋起源の信仰、すなわちキリスト教からもたらされたのである。 ニューマン枢機卿は『アポロジア』で、カトリックへと自分を向かわせたものの一つが、全世界はその判断において健全であると述べるラテン語の格言(Securus judicat orbis terrarum)だったと語っている。 だが厳密に言えば、この格言は、究極的に外的権威へ訴えるカトリックの立場よりも、人生を経験的に取り扱おうとする人のほうに、むしろ有利に働くように思われる。 この格言を積極的な意味で用いるなら、まず強調せねばならないのは、キリスト教の興起へと至ったアジアの経験は、アジア全体の経験の一部分にすぎないということだ。 ヨーロッパとアジアのごく一部とを合わせて orbis terrarum(全世界)と見なすのは、西洋のうぬぼれと傲慢の一形態にすぎない。 それは人類のおよそ半分の経験を、視野から締め出すことになる。 普遍的で容易な通信が可能になったこの時代には、人類経験の二つの半分を結び合わせることが、とりわけ望ましいように思われる。 極東の経験を正しく解釈するうえでの大きな障害は、その仕事に取り組んだ人々が知識不足に苦しんだだけでなく、しばしば神学的な目隠しを着けていたという事実である。 今日さらに深刻な狭量さは、東西を含む世界の総経験を、ただ機械的な進歩という観点から裁断してしまう人のそれである。 十分な知識に基づき、いかなる教条的先入観からも自由なこの総経験の見積もりは、私たちが一面的な自然主義によって陥れられた窮状に、鮮烈な光を投げかけるだろうと私は考える。 それは、中世ヨーロッパから近代ヨーロッパへ移る過程で、明らかに抜け落ちてきた重要因子を、純粋に心理学的に定義する助けとなるだろう。 そうしてその重要因子を、「古い偏見や根拠なき習慣」という形でただ取り戻すのではなく(それを試みるのが、私が言ったようにバーク的方法の弱点である)、近代精神により適った積極的かつ批判的な形で回復し維持する助けとなる。 第V章 ヨーロッパとアジア 新古典主義期の批評書の著者たちは、礼節(デコーラム)の観念を磨き上げることを好み、時にそれをいわば大陸規模にまで拡張して、礼節にかなう(典型的な)ヨーロッパ人と礼節にかなう(典型的な)アジア人とを対比した。 こうした推測は、初見の印象ほど荒唐無稽ではない。 アジア人の気質がヨーロッパ人のそれとどこか根本で異なることに気づくだけでなく、ある程度はそれを言語化することもできる。 ただしアジアについて語る際は、ヨーロッパ以上に、私が主として文明化されたアジア、それもその達成の頂点にあるアジアを念頭に置いていることを明確にしておく必要がある。 野蛮、あるいは半野蛮のアジアの群れは、過去にヨーロッパを脅かし、あるいは実際に席巻しただけでなく(将来再びそうする可能性も大いにある)、はるかな昔から文明アジアにとっても災厄であった。 古代ユダヤでは、北からの荒々しい騎馬民族の記憶が、ゴグとマゴグの伝説として残っていた。 中国の万里の長城は、二つのアジアを隔てる分離の、目に見える象徴のようなものだ。 一方にはアッティラ、タメルラン、チンギス・ハンのアジアがあり、他方にはキリスト、ブッダ、孔子のアジアがある。 キリストとブッダ(典型的なアジア人としての孔子については後でさらに述べる)に触れれば、アジアがヨーロッパその他の地域に比して「宗教の母胎」であったという特色を思い起こすには十分だろう。したがって宗教を批判的かつ経験的に定義しようとするなら(私の方法はそれ以上を許さない)、人生に対するアジア的態度のうち、何がとりわけアジア固有なのかを突き止める手がかりが得られるかもしれない。 もちろん、歴史的なキリスト教は、純粋にアジア的な信仰からはほど遠い。 そこにはギリシア哲学に由来する重要な要素が含まれている。プラトン的、アリストテレス的、ストア派の、そして新プラトン主義的な要素である。加えてローマ的要素、とりわけ私が「ローマ帝国主義的組織」と呼んだ強い性格があり、さらに秘跡的な呪術や、起源は混淆しているがなお大部分がギリシア的な密儀宗教からの要素もある。 キリスト教のうち、どの要素を創始者その人にまで遡って帰すことができるのか。 この問題を経験的に扱うことについては、キリスト自身が「その実によって彼らを知る」と許可を与えている。 さてベーコンや功利主義者たちも「実りの福音」を説いたが、キリストが念頭に置く実りは明らかにベーコン主義的なものではない。 それは霊の実であり、その内容は聖パウロが一度きり決定的に示している。「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制。」 この一覧が全体として強調するものに匹敵するものは、キリスト教以前のどのヨーロッパの宗教や哲学にも見いだせない。 しかし、その等価物は、アジアのより古い宗教思想のうちに見いだすことができる。 紀元前3世紀半ばごろ、インドの仏教徒の統治者アショーカは、広大な帝国の各地で、きわめて近い徳目一覧を石に刻ませた。「慈悲、布施、真実、清浄、温和、平和、歓喜、聖なる心、節制。」(注) このように仏教とキリスト教は、教義の観点から近づけばほとんど救いがたいほど対立して見えることが多いのに、経験的に、しかもその実りに即して研究すると、この驚くべき形で互いを裏づけ合う。(注) 宗教を十分に定義したいなら、さらに一歩進めて、聖パウロとアショーカが列挙した霊の実のうち、真に宗教的な生に最も中心的なものはどれかを問う必要があるのかもしれない。 この中心徳は、少なくとも経験的であるという長所をもつ宗教定義を示したマシュー・アーノルドには見落とされているように思われる。「宗教とは」と彼は言う、「感情に触れられた道徳である」。 宗教は通常、道徳を経由し、少なくとも初期段階では感情と大いに混じり合うが、偉大な宗教指導者自身の言葉を信じるなら、最終的な強調点は別のところにある。 「わたしの平安をあなたがたに与える」と、キリストは弟子たちとの最後の別れに際して言った。 「疲れた者、重荷を負う者は皆、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」 ブッダも宗教の成就をきわめて近い仕方で捉える。「真の智慧によって自由を得、静かな人となったとき、その思いは静まり、言葉と行いも静まる。」 (注) (注)古い宗教がキリスト教に与えた影響という問題が生じる。この点については多くが主張されてきたが、証明されたことはほとんどない。確実に分かっているのは、アショーカがシリア、エジプト、キレネ、マケドニア、エピロスへ宣教師を派遣したということだけである。 その布教の成果については何も伝えられていない。各碑文の翻訳は、Vincent A. Smith『Asoka』(第2版、1909年)に収められている。 (注)『ダンマパダ』96偈。 では、この平安へ至る道は何か。 ダンテはこの問いへの答えとして、キリスト教の最奥の精神を捉えている。「その御意のうちにこそ、われらの平安がある。」 人が日常の自己を、より高い、あるいは神的な意志へ服従させねばならないという観念は、キリスト教だけでなく、真の宗教すべてに本質的である。 この点でムハンマドは、Buddha and Christ と一致している。 「イスラーム」という語そのものが、服従を意味する。 インドでは同じく意志への関心が支配的だったとはいえ、人が日常の自己を従属させる意志は、彼を超越する神ではなく、しばしば自らの高次の自己として捉えられる。 ブッダは、キリスト教を含む他の信仰で本質とみなされる多くの事柄を排しているが、人間の高次の(倫理的)意志と、自然的自己すなわち拡張しようとする欲望との対立だけは排していない。 むしろ彼は、他のどの宗教教師にも増して、この対立という裸の心理学的事実の上に踏みとどまった。だから仏教は、その原初形態において最も批判的であり、言い換えれば最も神話性の薄い宗教なのである。 インドで栄えた教説の多くが、ブッダや他の真の宗教教師のように明確な二元論ではなく、多かれ少なかれ汎神論的傾向を帯びてきたことは、注意しておくべきである。 この傾向は、今日、インドを対外的に解釈すると称する幾人ものヒンドゥー教徒に見られる。 たとえばラビンドラナート・タゴールは、西欧だけでなく東洋自身においても、インドの解釈者として少なからぬ評価を得てきた。 彼には、東西問題全体の重要性を見抜いた功績があり、西欧批判においては、とりわけ否定的側面の指摘にかなりの洞察を示すことが多い。 彼によれば、西欧人は権力と機械的能率に特化したため、地球のいじめっ子になれたのだが、いじめっ子は破滅するということは万物の理において定まっている。 この西欧観は、China and Japan に支持者を見いだしただけでなく、今日ではデリーからタンジールに至るまで、イスラム教のムッラーたちがよく似たことを小声でつぶやいている。 いうまでもなく、事実はそれほど単純ではない。 インド支配を維持できたイギリスの成功は、機械的能率だけに基づくものではなく、まして博愛主義や、いわゆる「白人の責務」を進んで担おうとする気持ちによるものでもない。 それは一面ではヒンドゥー教徒内部の分裂によるが、同時にまた、世界がこれまで見た中でおそらく最良の統治民族をイギリス人たらしめた、健全な道徳的リアリズムという性格の勝利でも少なからずあった。 タゴールはさらに、現在の状況ではヨーロッパ諸国連邦など、せいぜい蒸気ボイラーの連合にすぎない、と述べる。 処方箋は、この機械的能率という悪夢を築き上げた分析を捨て、その代わりに愛の原理を据えることだという。 ここで明らかになるタゴールの親和性は、彼自身が信じ込ませようとするような自国の古代賢者とのそれではなく、むしろわれわれのルソー主義的夢想家たちとのそれである。 タゴールやベルクソンの女性的な弱さ、また東西を問わず分析を犠牲にして「ヴィジョン」を得ようとするすべての人々に対しては、究極の東洋人と見なすに足るBuddhaの例を対置できる。 なぜならBuddhaにおいては、最高の「ヴィジョン」は最高度の分析行為と一致していたからである。 * 彼の著書『Nationalism』を全般的に参照。 私が示そうとしてきたのは、アジア起源の偉大な宗教信仰の中心には、より高次の意志という観念があり、それが人間の通常の意志ないし自己拡張的欲望との関係において、生の統御力として感じ取られているということである。 この意志の承認は、どう捉えるにせよ、キリストとともに「みこころのままになさせたまえ」と言おうと、Buddhaとともに「自己は自己の主である。ほかに誰が主たりえようか」と言おうと、 畏敬と謙虚の源泉である。 そしてこのより高次の意志への服従は、その成就において平安となる。 一見すると孔子は、他の偉大なアジアの教師たちとは非常に異なって見える。 すでに述べたように、彼の関心は宗教的というより人文主義的である。 彼の教えと、西洋最大の人文主義者であるアリストテレスの教えとの接点は、多く、しかも顕著である。 実際、もし時代を超える叡智、すなわち正常な人間経験の中心核とでも呼ぶべきものがあるなら、宗教の次元ではBuddha and Christに、人文主義の次元では孔子とアリストテレスに、それが見いだされると言いたくなる。 これらの教師は、それ自体としてもその影響においても、人類精神史の四大傑出人物と見なしうる。 彼ら以後の世界経験だけでなく、それ以前の経験の多くまでも、適切には彼らと結びつけられる。^ 興味深い類比として、聖トマス・アクィナスが『神学大全』でアリストテレスの知恵とキリストの知恵を結び合わせようとしたのとほぼ同時期に、朱熹もまたその大注釈で仏教的要素と儒教的要素を交融させたことが挙げられる。 1 いわゆる「縁起の連鎖」をたどること。 たとえば孔子について、コレージュ・ド・フランスの故シャヴァンヌ教授はこう述べている。「彼は、いわば紀元前五百年における国民的良心であり、はるかな古代の古典がその最初の輪郭を示す深遠な思想に、明確さと確証を与えた。……彼は、中国が何世紀もかけて徐々に形成した道徳理念に従う必要を説いて回った。同時代人は、安逸や利害を捨てることの難しさゆえに彼に従おうとはしなかったが、それでも彼の声に人間を超える権威を感じ、遠い過去から来る強力な精神に触れたとき、父祖が垣間見た真理を呼び覚まされ、魂の奥底まで揺さぶられたのである。」(『Quelques idées morales des Chinois』、ソルボンヌ講演、1918年1-5月刊行の Bulletin de la Société ... 所収、pp.47ff.) アリストテレスと孔子は中庸の教説では一致するが、人生に対する全体的態度においては、ヨーロッパ的気質とアジア的気質の特徴的差異を示すことを急いで付け加えるべきだろう。 アリストテレスの関心は、決して人文主義だけに限られてはいなかった。 彼は人生で最も幸福な歳月をエーゲ海周辺の島々で過ごし、魚類や海洋生物を観察して、ダーウィンを称嘆させた生物学論考の素材を準備したとされる。 * D. W. トムソン「アリストテレス」(『The Legacy of Greece』p.144)参照。 おそらく、アリストテレスのように広範囲へ及ぶ知的好奇心と、孔子や他の東洋の教師が強調する謙虚さとを両立させるのは容易ではない。 アリストテレスはキリスト教だけでなくユダヤ教やイスラム教の宗教思想にも、ほとんど測り知れないほど大きな影響を与えたが、それでもアリストテレス神殿というものにはどこか微妙な不調和を感じるだろう。 孔子神殿には同種の不調和がないと感じるのに、儒者である必要はない。 彼はアリストテレスのように「知る者たち」の師ではなく、「意志する者たち」の師であった。 彼は、すべての人が心の奥で自らの弱さを知っているその一点において強かった。 彼が自己拡張的欲望に課そうとする礼節、すなわち内的統御の原理は、明らかに意志の資質である。 彼は蒙昧主義者ではないが、意志との関係で見る限り、理性の役割は副次的かつ道具的である。 関心が孔子と同様ほとんど倫理に限られていたソクラテスへ目を転じても、東洋的気質と西洋的気質の同様の対照が現れる。 ソクラテス的な徳の構想は、精神への第一次的な強調を促す。 さらに西洋は、キリスト教形態における東洋的な「意志優位」の主張から自らを解放して以後、ルネサンス以来ますます、ソクラテスの「知は徳なり」ではなく、ベーコン主義的な「知は力なり」に専念してきた。 伝統宗教の衰退とともに謙虚さが減少したことを否定する人は少ないだろう。 ファゲ氏の指摘するように、「謙虚」という語そのものが、そう遠くない将来に古語辞典へ追いやられるかもしれない。 この語は、仮に生き残るとしても、しばしば誤って用いられている。^ ^ ヒュームは動物における謙虚さまで論じている!(『人間本性論』第2巻第1部第xii節。) たとえばこの語は、自然の神秘と無限性に対して科学者が示すべき敬意を指すのに使われることもあれば、他者と自分を比べる際に示す慎み、あるいは場合によっては卑屈さの同義語として使われることもある。 自然や他者に対して高慢にならないのは結構なことだが、謙虚はそれとは別の、そしてパスカルが強調するように超自然的な秩序に属する。 この意味で理解された謙虚こそ他のすべての徳の根であるというバークの主張は、第一原理に関わるがゆえに調停や妥協の対象とはならない。 それは真として受け入れるか、偽として退けるかのいずれかでなければならない。 もしこの主張を真だと受け入れるなら(私自身そうであるが)、次に生じる問いは、なぜ西洋で謙虚がこれほどまでに食にあったかである。 明白な答えは、謙虚が過去において、特に堕罪の教義と神の恩寵の教義という一定の教説と結びつけられており、それらの教説が批判精神の成長によって掘り崩される傾向にあった、ということである。 個人は、これら教説の最終的根拠を与えていた啓示や教会といった外的権威に、ますます服することを拒むようになり、その謙虚さは、自立心の増大とほぼ正確に比例して衰えてきたと言いたくなる。 もし誰かが真に近代人でありたい、言い換えれば権威なるものにただそれだけで服することを拒むなら、深刻な問題に直面する。すなわち、謙虚であると同時に自立的であることは明らかに容易ではない。 自立という教義そのものが、謙虚という観点から見ると、西洋では古代ギリシア以来今日に至るまで、きわめて曇った履歴しか持っていない。 自立(autarkeia)を最初期に唱えたキュニコス派に謙虚さを結びつける者は誰もいないだろう。 ストア派もまた自立を支持した。 パスカルによれば、彼らはその第一前提において「悪魔的な傲慢」を犯していた。 この表現は、特にマルクス・アウレリウスのような一部のストア派に当てはめるには強すぎるにせよ、ストア派一般を柔和さや心の卑下の実例として挙げることはほとんど不可能である。 近代の自立の使徒たちに目を向けると、まず思い浮かぶのは、おそらくルソーと、『エミール』におけるこの教義の擁護である。 彼の謙虚さの程度については、『告白』の第一頁を読めば十分に悟られるはずである。 また、自立の教義を唱えたアメリカにおける最大の擁護者エマソンが、ひときわ謙虚であるとも言いがたい。 謙虚であると同時に自立的であろうとする試みに伴う問題を捉えるには、ルソーとエマソンがある点で復活させた古代の個人主義に立ち返り、その最終的な失敗の原因を突き止める必要がある。 ストア派の楽観主義は、ほどなく分かるように、ルソーのように本能への信頼に基づくのではなく、第一義的には理性への信頼に基づいている。 正しいことを知ることは、それを行うこととほとんど同義である。 こうして理性と意志は同一化しがちになる。 この点でストア派自身は、自分たちが単にソクラテスの足跡に従っているだけだと考えた。 実際、問題全体は、知と徳を同一視するプラトン的・ソクラテス的な見解と密接に結びついており、そしてそれは、知性と意志の関係をめぐる欧州とアジアの大きな対立点を改めて浮かび上がらせる。 ブラウネル氏は、エマソンほど謙虚さに欠ける人間はありえないとまで述べている(American Prose Masters, p. 176)。 アジアの主要な宗教教師たちは、すでに述べたように、人が平和への道に入るためには、自らの自然的自己において(そしてアジア的心理学では知性は自然的自己に属する)、人間が服従しなければならない「より高次の意志」を、何らかの形で主張してきた。 プラトンとブッダを比較すれば、この東西の対照を明らかにする助けになるかもしれない。 ブッダはプラトンと同様に哲学と宗教を結び合わせようとしたが、それでも精神の役割には、プラトンよりはるかに重きを置かなかった。 彼が挙げた「不可思議」の事柄の一覧は、生命が語の深い意味で知られうること自体を、ほとんど否定するのに等しい。 仏教徒の「心」(マノ=mano)が、プラトンの「心」(ヌース=nous)と厳密に一致すると主張することはできない。 しかしなお、「心」が仏教では流転の器官であるのに対し、プラトンは「心」を第一の地位に高めるという点は、示唆的である。 ブッダによれば、自分の「身」を常住のものと見なす誤りよりも、自分の「心」について同様の思い上がりを抱く誤りのほうが、より重大である。 仏教徒は、西洋哲学の根底にある誤りを、少なくともパルメニデスにまで遡る、思惟を存在と同一視する傾向に見るかもしれない。なぜ人間というこれほど幻のような存在が、思惟であれ何であれ、自分の一部を存在と同一視しなければならないのか。 ピンダロスが言うように、「我らは何者で、何者でないのか。 人間とは、影の夢にすぎない。」 ピンダロスは、たとえ「夢の影」と呼ぶことでさえ、人間の自己の永続性への思い上がりを過度にくすぐるのではないかと、どうやら恐れていたのである。 ディールス『前ソクラテス派断片集』第1巻117頁参照。 自分自身にせよ外界にせよ、無常の要素を、どんな意味であれ理性だけによって超えられると思うのは、「幻想は現実の不可欠な一部である」ということを忘れることである。 「理性」を過度に信頼する人は、静的な「絶対」を打ち立てがちであり、他方、流転と相対性を重んじて絶対を退けようとする人々は、同時に規準までも捨て去りがちである。 生の経験においては、一性と多性は不可分に混じり合っているのに、絶対論者も相対論者も、事実を知的にこね回すという点で罪を犯している。 仏教徒(東西の比較に戻れば)は、一見すると流転の使徒たちの側に属するように見える。 実際、両者がともに「生成の哲学者」であるという理由で、ブッダとベルクソンを比較する議論もなされてきた。 時間と空間の隔たりという理由だけでなく、別の根拠からしても、この二つの名を並べることは驚くべきことだと認めてよい。 ベルクソンは変化と自然主義的な拡張性に陶酔し、見たとおり、自らのエラン・ヴィタルの哲学が帝国主義へ直結すると明言している。 これに対してブッダは、プラトンに劣らぬほど流転からの離脱に関心を寄せ、帝国主義的であるどころか、彼自身の言葉でいう「静けさ、知、至高の智慧、そして涅槃」へと、他のすべてを排して向けられている。 流転の哲学と宗教的平和および謙虚とが結びつくこのあり方は、西洋で見てきたどの例とも似ておらず、ブッダを扱うには最大限の慎重さが必要だという警告となるはずである。 少なくとも、ブッダが西洋の伝統の哲学者たちから分岐するポイントについて、ある程度の推測は成り立つ。 徹底した個人主義者として、彼は一者と多者の問題に取り組まざるをえないが、多様性と変化を測るべき統一原理が事物のうちにないなら、個人は規準を失い、必然的に無秩序な印象主義へと落ち込む。 ここでブッダは、真のアジア人らしく、この統一原理を知性ではなく意志のうちに見いだす。 彼自身がきわめて分析的であるだけに知性に重要な役割を与えてはいるが、結局のところその役割は二次的で、道具的なものにすぎない。 知性の観点から直接に生命を扱おうとする試みは、形を変えた「海を盃に入れる」試みにほかならない。 生命はその秘密を、行為する人にのみ明かすのだ、と彼は言っているかのようであり、あらゆる行為のうちで最も困難なのは内的行為である。 ブッダのみならずキリストを理解する第一歩は、両者がともに、アジア人がその偉大な瞬間に理解してきた意味での「行為の人」であったことを見抜くことである。 ブッダは理論を最小限に切り詰めようとする。 西洋の哲学者のうち最も非思弁的な者でさえ、彼にはなお思弁的に過ぎると思われたに違いない。 彼は世の知恵を一句に圧縮することに成功した。「一切の悪をなさず、善を成し、自らの心を清めること、これが目覚めた者の教えである。」 仏教の注釈は興味深い。言葉を繰り返すだけでは何も意味しないように見えるが、実行に移そうとすると、それがすべてを意味していることが分かる、というのである。 パーリ語原文では八語である。『法句経』186偈参照。 一者と多者の問題を主として知の問題として扱おうとする試みに内在する困難の一部は、プラトンのイデア論に現れている。 ある類に属する個々の対象すべてに、一つであるという要素が含まれていることは、直接の知覚として確かめられる。 たとえば、個々の馬すべてには一性の要素があり、この一性こそ、プラトンの言い方では馬のイデア、すなわち天上的原型である。 しかし残念ながら、この段階を越えないなら、その一性は単なる抽象にとどまり、ついには単なる言葉になってしまう。そして人間性は具体的なものを渇望する。 一と多の関係を知性的に扱おうとする試みは、プラトン自身が『パルメニデス』後半で提示した類いの困難へと至るように思われる。 単なる抽象からいかに脱するかというこの問題は、万物のうち最大のイデア, すなわち善あるいは神のイデア(それはまた人間のうちで最も崇高なものとも一致する)の場合にも現れる。 善のイデアを表す語は、卓越した語、すなわちロゴスである。 ギリシア的ロゴス概念が、フィロン・ユダエウスのような媒介者を経て、第四福音書の著者へと伝えられていった過程は、ある程度までたどることができる。 ロゴスの問題に対するキリスト教的解決において、とりわけアジア的な要素は、暗黙にせよ明示的にせよ、神的理性を神的意志に従属させる点にある。 この意志の働きによって、抽象的・一般的な智慧と、個別的・特殊的なものとの隔たりがついに架橋され、言は肉となる。 具体的なものへの人間の渇望は、決定的な点で満たされる。 受肉の真理は、純粋に心理学的な根拠に立って言えば、私たちがより劣った形ではあるが皆経験してきた真理である。人の心を苛むあらゆる疑いへの最終の答えは、どれほど完璧であれある行為論の理論ではなく、品性の人なのである。 ポンティウス・ピラトは「真理とは何か」と問うたとき、ヨーロッパ人として語っていた。 これとは別の機会に、キリストはアジア的な答えを与えた。「わたしは道であり、真理であり、命である。」 人格をこのように重んじる点で、キリスト教は最も確かな観察によって裏づけられる。 しかしキリスト教が確かな観察を超え出るのは、神的であり人間的でもある人格を、無限と永遠の領域へと驚くべき規模で投影している点においてである。 もちろん私はこの一連の議論全体で、きわめて難しく複雑な問題を、プラトンやソクラテス派の他の人々に不当な扱いをしてしまう危険を冒しつつ、単純化して述べてきた。 私はプラトンのうちに、ほとんど尽きることのない智慧の宝庫があることを承知している。 批判精神を不当に犠牲にすることなく宗教的洞察を得ようとする者にとって、彼はいまなお主要な助けの一つであり続けるに違いない。 それでも、知と徳を同一視するというプラトン的・ソクラテス的な見方には、どうしてもいくつかの疑いを抱かずにいられない。 この同一視が表面的だというのではない。プラトンやソクラテスのような人々が表面的であることは決してない。 知が考えうるほど完全になれば、それに反して行動することは、火の中に手を突っ込むようなものになるかもしれない。 さらに、どんな迷路のような誤りから抜け出した場合でも、ふり返ってみれば、その誤りは意志の欠陥というより無知にいっそう由来していたように思えるものだ。 それにもかかわらず、ソクラテスの命題は、ある点で普遍的経験に反している。 人は誤りだと知りつつそれを行うだけでなく、オウィディウスが――神学者たちの言う delectatio morosa(罪への執着的な快楽)を先取りしつつ――早くも指摘したように、それを行うことにねじれた満足すら覚えることがしばしばある。 (…)は、神学者たちのいわゆるdelectatio morosa(遅滞的快楽)を先取りしつつ、それをいち早く指摘した者の一人であった。 私たちの課題は、思い出しておくべきだが、自立的であると同時に謙虚であることだ。 しかし謙虚さを保ちながら、同時にギリシア哲学の流儀に従って精神(知性)に第一位を与えるのは、容易ではないだろう。 (…)哲学は、精神(mind)に第一義性を与える。 ほかのあらゆる形の驕りは、知性の驕りに比べれば取るに足らない。そしてその知性の驕りが最も露わになるのは、善と悪を知ろうとする試みにおいてである。 堕落の神話のうちに、どうやらそれほど多くの心理学的真理が見いだされるのである。 「より善を見、これを是としながら、より悪を行う(Video meliora proboque, deteriora sequor.)」「禁じられたものへ常に突き進み、拒まれたものを欲する(Nitimur in vetitum semper, cupimusque negata.)」 おそらく私の意図は、ソクラテス運動をその結実において(そしてこの運動の中には、プラトン的影響に加えて、少なからぬアリストテレス的影響も含める)検討するのが最も明らかになるだろう。 プラトンが主として宗教的次元で仕事をしたのだとすれば、宗教の結実がプラトンのアカデメイアに現れるはずだと人は期待するだろう。 ところがアカデメイアが生み出したのは、全体としては懐疑主義へと傾く、何人もの卓越した知識人であった。 もちろん、ソクラテス自身がそうしたように見えるように、懐疑的な基盤の上に信仰を築き上げることは可能である。だがアカデメイアにおけるプラトン後継者たちが、それを達成した、あるいは他のいかなる種類の信仰を達成したと主張するのは、ほとんど無理がある。 いずれにせよ、アカデメイアと、ブッダが創設した教団との対照は著しい。 古い記録を調べる者は誰でも、この教団の中に、信仰の人々が多くいたこと、すなわち聖パウロが見事に定義した霊の結実そのものを生み出し、したがって聖人と見なされるにふさわしい人々がいたことを、確信するようになる。 真相はこうだ。ギリシア人は伝統的基準から解放されるや、かなり急速に単なる合理主義へと滑り落ちた。そして単なる合理主義は、ストア派の形であれエピクロス派の形であれ、人間の心の膨張する欲望を制御できないという常の無力さを示した。 ストア派は、人々のあいだに普遍的妥当性をもつ結合原理を打ち立てようとした。言い換えれば、宗教の仕事を果たそうとしたのである。 彼らはその普遍原理を理性に見いだし、同時に「理性に従って生きることは自然に従って生きることだ」と宣言した。 ストア派は、人間の理性は助けなしに外的印象や膨張的欲望に打ち勝てる、と想定したのである。 後のギリシア・ローマ思想の中で、ソクラテス的教えのみならず、プラトン的・アリストテレス的教えの重要な側面が覆い隠される傾向にあったことは疑いない。 同時に、正しい意志は正しい知識に従うと仮定することで、ストア派は(すでに述べたように)自分たちこそ真のソクラテス的立場だと考えた。もしその点で真のソクラテス精神を取り逃がしていたのだとすれば、その精神は案外取り逃がしやすいものだった、と結論せざるをえない。 ストア派は概して逆説的な運動だった。物質的秩序だけが実在だと断言しながら、その物質的秩序が与えない「徳」に最高の強調を置いたからである。 言い換えれば、彼らは一元論的前提のもとで、本来は真に二元論的な哲学と結びつくはずの結実を目指し、ある程度までは実際にそれを達成したのである。 その多くの長所と部分的成功にもかかわらず。 ストア派は全体としては失敗だった。同じことは、行為の問題を批判的に扱い、言い換えれば健全な個人主義の型を練り上げようとした、ギリシアの試み全体についても言わねばならない。 ギリシア哲学のこの失敗は、私が示唆してきたように、密接に結びついた想像力と、より高次の意志(倫理的意志)の問題を扱う点で、それが十分ではないという事実に由来する。 「幻影は現実の不可欠な一部である」と信じ、さらにアジア的立場と同様に、謙虚さを確保するには意志が精神(知性)に優先しなければならないと考える者は、ギリシア哲学の危険が、当初からある種の頑強な知性主義にあったのだと結論せざるをえない。 キリスト教は、ギリシア哲学に欠けていたものを補った。 それは理性をへりくだらせる教義を打ち立てると同時に、人間の想像力を統御し、想像力を通じて意志をも統御する象徴を創り出した。 この東方の信仰が与えた基盤の上で、ギリシア・ローマ世界の崩壊後、そして蛮族侵入の荒廃のただ中にあっても、ヨーロッパ文明を再建することが可能になった。 しかしこの再生の仕事は、少なからぬ程度まで批判精神を犠牲にすることで成し遂げられた。 その結果、個人に先立ち、個人の外部にあり、個人に優越する権威が勝利した。 理性へのギリシア的信頼がある点で誤りだったとしても、あらゆる形の意志崇拝にも、認めねばならない危険と困難がある。 ニーチェ的形態の意志崇拝の危険については、詳しく論じるまでもあるまい。 しかし東方における倫理的意志の崇拝でさえ、落とし穴に満ちている。 針の床に横たわったり、腕が萎えてしまうまで空中に上げ続けたりするヒンドゥーの苦行者は、東方的意味では意志を行使しているが、それを知性的に行使しているとはほとんど言えない。 さらに、より高次の意志が、一語一句に至るまで文字通り完全に霊感を受けた言葉として、一度限り啓示された神の意志だと考えられるとき、欠点と困難が生じるが、それはおそらくイスラム教において最も明白である。 その結果、人間の生は硬直した決定的な型へと押し込められてしまう。 絶対理性のために流動と相対性の要素を見落とすのが危険であるのと同様に、絶対意志のためにそれを見落とすのも安全ではない。 イスラム教徒には、「幻影は現実の不可欠な一部である」ということを忘れる、彼らなりの仕方がある。 さらに、意志が絶対で無責任であり、しかも超越的だと考えられるとき、個人はたしかに謙虚にされるが、自立的にされるどころか、東方的な形態の宿命論に陥りやすくなる。 そこで私たちは、現在の主題のために、一般としての東方的な意志崇拝の困難だけでなく、とりわけキリスト教徒によって実践される場合の困難を考察しなければならない。とりわけ恩寵の教義に現れる形態を。 言うまでもなく聖アウグスティヌスは、この問題に関する聖パウロの教えを発展させるために、他のいかなる一人よりも大きな働きをした。そして聖アウグスティヌスは、ここでも他の場合と同様に、中世以降のキリスト教に対して、ほとんど計り知れないほど大きな影響を及ぼす運命にあった。 さて聖アウグスティヌスは、ある意味でキリスト教のプラトンと見なされている。彼にとって(そしてプラトンにとっても)最高の対比は、一方にある「移ろいやすく朽ちるもの」と、他方にある「確かで永遠のもの」との対比である。 ただしこの二人をさらに比較してみると、知性と意志の相対的重要性をめぐって、強調点が深いところで移動していることが明らかになる。 聖アウグスティヌスによれば、彼の願いはただ二つのこと、すなわち神と魂とを知ることだけである。 (「神と魂、この二つだけを知りたい。」) (「ほかには? まったく何も。」) 神は主として精神としてではなく、意志として思い描かれている。 人間の魂もまた、その本質的側面においては意志へと還元される(「私には意志のほか何もない」)。 しかし人間の意志は、堕罪によって神の意志から救いがたいほど引き離されてしまっている。 この隔たりを越えられるのは恩寵という奇跡によってのみであり、その奇跡自体が贖いの奇跡に依存している。 人の意志が神の意志と調和するためには、キリストの仲介だけでなく、教会と秘跡、そしてそれらを執行するために必要とされる精緻な聖職者ヒエラルキーの仲介をも要する。 プラトンが考えたように正しい知が正しい意志を生むどころか、堕落した人間は悪そのものを楽しむ。 聖アウグスティヌスが少年時代に梨を盗んだ話をする際、舌の上であれほど甘美だったのは梨そのものの味ではなく、自分の罪の味だったと言う。 さらに、この意志の倒錯はもともと知性とその驕りから生じたのであり、人は善悪を知る者として神のようになろうとした。 こうして知性は、正当な従属的地位に置かれただけでなく、積極的な疑いの目で見られるようになった。 蒙昧主義への道が開かれた。 人はへりくだらされ、その意志は新たにされはしたが、先に述べたように、多かれ少なかれ批判精神を犠牲にしてであった。 キリスト教にこの非批判的要素がある歴史的説明は、おそらく他の多くの教説にも増して、それが社会の底辺から上層へとせり上がっていった、という点にあるのだろう。 ともあれ人々は、それが不合理だからこそ信じよ、と求められ、無知こそが信心の母だと宣言された。 「Credo quia absurdum(不合理なるがゆえに信ず)」という句は、テルトゥリアヌス『キリストの肉について』第5章の有名な箇所に実際には現れないが、その章全体の趣旨を正しく要約している。 人々が自立をやめ、とりわけソクラテス的なギリシア人のように知性に依拠することをやめたという事実こそが、教会が再生の働きをいっそう効果的に進めることを可能にした、と論じることもできよう。 「すると正義とは、無知の娘なのか。 」とルソーは問う。 「学問と徳は両立しないのか。 」西洋の歴史は、認めざるをえないが、この点にいくらか疑いを投げかけている。 いわゆる暗黒時代は(やや誇張して、とアクトン卿は言うのだが)精神的には光に満ちていた。 他方で、知的に「啓蒙」された18世紀は、バークが嘆くように、精神的には闇に満ちていた。 18世紀的意味での「啓蒙」の萌芽は、中世そのものに、少なくとも13世紀にまでさかのぼる。 注目すべき符合は、この知性の萌芽的解放と異端審問の創設とが並行していることである。 知性の真の解放がかなり本格的に動き出したのはルネサンスとともにであった。 人々は再び自立的になり、そのほとんど同じ割合で謙虚さを失っていった。 彼らは古代ギリシア人のように、人生を主として認識の問題として見る傾向へ、もう一度傾いていった。 「その後に続いたのが、暗黒時代と呼ばれても不当ではない時代である。この時代に、その後に享受されてきたあらゆる幸福の基礎が据えられ、人間によって達成されたあらゆる偉大さの基礎が築かれた。…際立った聖人の時代ではなかったが、聖性がこれほど一般的だったことはない。最初の数世紀の聖なる人々は、周囲の腐敗のただ中から強烈な輝きを放つ。大教義論争の終結から、新しい神学の興隆、そしてヒルデブラント、アンセルム、ベルナールとともに新たな関心が始まるまでの五つの非識字の世紀には、(光の雰囲気に包まれているがゆえに多くは個々には目立たない)聖人の軍勢が群れ集う。」(『自由の歴史』200頁) ただし彼らがますます求めた知とは、ソクラテスが目指した倫理的知ではなく、自然秩序についての知であった。 倫理的知は、理解しがたい教義と切り離しがたく結びついてしまったかのように見えた。 同じ個人の心の中でさえしばしば、古い謙虚さと新しい知的探究心とのあいだに、鋭い葛藤が避けがたく生じた。 科学的探究者として卓越し、同時に深く痛切な宗教的著作家でもあったパスカルの例を考えてみよう。 彼は自然秩序に対しては批判的・実験的精神の全面適用を勧めるが、自然秩序を超えるあらゆる事柄については、その批判精神が二重の外的権威、すなわち啓示と教会の権威の前に退位すべきだとする。 霊的真理を、理性に最も反する教義、たとえば幼児の永罰のようなものと同一視する。 たしかに人間のあらゆる気高さは理性にあるが、その気高さはそれ自体では大した力にならない、というのも理性は想像力のなすがままの玩具だからだ。 ここに、すでに指摘したように、ストア派の心理学(理性が想像力に勝利しうるとする)とキリスト教心理学との、最大級の衝突がある。 このように理性が想像力の玩具であるなら、ストア派の、あるいはその他いかなる形であれ、自立に依拠することは虚しい。 人間の唯一の希望は、神の恩寵という形を取る恣意的な意志にある。 パスカルは、恩寵の突然の照明を「心」と名づける。 「心には、理性の知らない理がある。」 こうして恩寵としての意志は理性と対立し、その理性はさらに想像力と対立するが、健全な個人主義者であるためには、私が倫理的意志と定義した人間の力に奉仕する形で、理性と想像力とが協働する必要があるのかもしれない。 ※彼の『空虚論断片』を参照。 ※『パンセ』434。 だからといって、私の言ったことから、パスカルが個人主義者にとって価値を失ったと推論してはならない。 彼が謙虚さを擁護し、知性の驕りに反対して持ち出す多くの論拠は、教条的ではなく鋭い心理学的洞察にもとづくという単純な理由から、いまなお妥当である。 パスカルが示すように、人間は小ささの無限と大きさの無限という二つの無限のあいだに挟まれ、どちらも等しく把握できず、したがって事物の本質は捉えがたく、いつまでも捉えがたいままだというのに、なぜ人は誇るべきなのか。 もしあるとき、人が無限にまで届く塔を築くための確かな基礎を見つけたと思うなら、その基礎は突然崩れ、「大地は深淵に向かって口を開く」。 そのような確かな基礎を欠くかぎり、人は自分の知が真の知なのか、それとも夢の中の夢以上の何ものでもないのか、確信を持てない。 しかし、人間をさらにいっそうへりくだらせるものが、無知よりもなおある。それは、助けを欠いた理性が、外的印象と膨張する欲望とを有効に制御できないという無力さである。 ここでは、現実的な観察は、ストア派よりもパスカルの側に分があると言うべきだろう。 人間の特有の盲目は、どんな欲望であれ支配的な欲望において、自分が制限されることを望まないという事実から生じる。 エラスムスの言い方を借りれば、人は自分の愚行を自由に追いかけたいと願い、そして最後には、事物の本性のうちに定められた限界を、そこへ衝突するといういくぶん痛みを伴う過程を通して発見する。 この人間の性向はあまりに普遍的で、しかもそれに下る罰はあまりに苛烈なので、最後に残る印象は、人生そのものにどこか裏切りがあるということだ。 こうした状況では、ジャンセニストである必要も、ひょっとするとキリスト教徒である必要さえもなく、救いを「恐れとおののき」のうちに求める古いやり方が、近代の「危険に生きる」方式、すなわち畏れと謙虚さを捨てて尽きることのない驚異と好奇心の追求へ向かう方式よりも、ある点でまさっていると認められる。 ギリシア人が見たように、人間の膨張するうぬぼれは不遜な過剰(ヒュブリス)を生み、これが盲目(アテー)を生む。 そしてそれが次にネメシスを招く。 ネメシスによって抑えられる膨張したうぬぼれ——これは人間性の本質的側面の定義であり、歴史の事実によってかなり裏づけられている。 人は、見えるか見えないかの深淵の縁に立っているときほど、時に、これほどまで自信満々に突進することはない。 第一次世界大戦前夜のヨーロッパを蝕んでいた病は、無知というより、ギリシア的意味での盲目だった。 ネメシスの働きを明晰に見抜くところに偉大なギリシア詩人の特色がある。倫理性の最も薄いエウリピデスでさえそうだ。「黄金と幸運、そして勝ち誇る力を従えた彼らは、虚栄の愚かさのうちに人を破滅へ急き立てる。法を追い越し、無法が鞭打って速度を増す。終わりに心を向けぬまま、見よ、戦車は突如として激突し、闇の中で砕け散る!」 * 『ヘラクレスの狂気』744行以下、A・S・ウェイ訳。 歴史の事実に巨大なスケールで現れる人間の無知と盲目を考えることは、謙虚さに積極的な根拠を与える。 そうしていると、偉大な宗教教師たちが、人はより高次の意志に自らを従わせねばならない、とりわけ知性がそのような統御を認める必要があると主張したのは、結局正しいのかもしれない、という気がしてくる。 知性の無抑制(libido sciendi=知への欲情)から生じる危険は、おそらくあらゆるもののうちで最も根源的である。 ニューマン枢機卿はこう問う。「面と向かって対抗すべき敵とは何であり、何によってそれに抗し、退けるべきなのか、 …… 知性のあの、万物を蝕み万物を溶かしてしまう力に対して?」 いずれにせよニューマン枢機卿は、彼自身の解答をどう評価するにせよ、本質的な問いを発したのである。 不幸なことに、知性の驕りを取り除こうとして、キリスト教徒はしばしば知性そのものまで取り除いてしまうか、少なくともそれを不当に過小評価しがちだった。そこから、すでに指摘したキリスト教の反知性的(隠蒙主義的)傾向が生じる。 知性を最大限に用いながら、同時にそれを正しい従属的位置にとどめることは、これまでのところ西洋人の能力を超えていたように見える。 思い上がった理性と、いつのまにか迷信同然のものと結びついた信仰との戦争こそ、ギリシア以来今日に至る西洋文化の真の病であるのかもしれない。 頭と心のこの争いは、言語の形態にまで痕跡を残している。 その例はニューマン枢機卿自身から引ける。「知性そのものとは何か。楽園にも天にもなく、小さな子どもにもほとんど見いだされず、せいぜい教会に容認され、再生した心と相容れぬわけではないにすぎない、堕罪の実りではないか……理性は神の賜物であり、情念もまたそうである……エヴァは情念と理性に従うよう誘惑され、そして堕ちた。」(Parochial and Plain Sermons, V, p.112) たとえば、古いフランス語の用法では「強い精神の人」(esprit fort)とはほぼ無神論者のことであり、逆に「祝福された者」とは「愚か者」(benet、benedictus に由来)を意味した。 また「イノセント(無垢な者)」とは、疑いなく「悪魔のように頭が切れる」と言われる人物とは対照的に、間抜けのことである。 英語の silly は語源的には、ドイツ語で「聖なる」を意味する holy(selig)と同語である。 ルソーが、自分の心と頭は同じ人間のものとは思えないと言ったとき、彼はただ新しい、しかも私が後で示すように、いっそう悪い形の隠蒙主義を持ち込んだだけである。 この頭と心の対立は、ルソー主義的な形で、今日にまで続いてきた。 キリスト教徒と疑われるおそれのない哲学者たちでさえ、知性と直観は多かれ少なかれ対立するものだと仮定しており、その結果、ベルクソン的意味で「生き生きしている」ことは、ほぼ反知性的であることと同義になっている。* *「L'intelligence est caracterisee par une incomprehension naturelle de la Vie.」(ベルクソン『創造的進化』p.179) しかし、より重要な対比としてなお残るのは、恩寵の党派と、何らかの形で精神(mind)の優位を主張する人間との対比である。 恩寵の教義が、中世の形をとったヨーロッパ社会全体の建築を支える要石であったことは、示しうる。 ヨーロッパ文明がこの教義の崩壊に耐えて生き残れるかどうかは、望むほど明らかではない。 いずれにせよ、自立だけでは足りず、謙虚でもあるべきだと信じる個人主義者にとっての問題は、恩寵に代わる同等物を見いだすことにある。 そこで、アジアの全経験を考慮に入れることが有益となる。 極東が西洋に対して一般的な倫理的優越をもつなどと主張する賢明な人はいないだろうが、極東は少なくとも、西洋文化の大病たる理性と信仰の戦争に、比較的免疫を持ってきた。 仏陀も孔子も、謙虚さを自立心および批判精神の涵養と両立させることに成功した。 ゆえに両者は、過去にアジアが体現してきた要素を近代的な仕方で生活に回復しようとする人々、そしてその回復がなければ西洋は速度と権力への渇望によって狂気に陥りかねないと信じる人々の助けとなりうる。 平和の要素をアジア的要素と呼ぶからといって、私は地理的その他の宿命論を立てようとしているのではない。 たとえば中国は西洋からの圧力の下で産業革命を経験するかもしれない(漢口はすでに「東洋のピッツバーグ」の様相を帯びつつある)。そしてこの革命は、伝統的エートスの多かれ少なかれ急速な崩壊を伴い、その帰結として、純然たる道徳的混沌へ転落する危険をはらむだろう。 他方、西洋は、倫理的意志の真理を再確認するだけでなく、それを適切に近代的な仕方で、しかも東洋にこれまで見られたものとは明らかに異なる強調点をもって再確認することもありうる。 この主題を扱うにあたっては、自ら近代的だと称する者は、語のいずれかの意味において、みなリベラルであるという事実から出発するのが最もよい。 旧から新への移行に何か本質的な欠落があったとすれば、その欠落は「自由」の定義において最もはっきり姿を現すはずである。 アクトン卿は『自由の歴史』を、この種の定義を百個並べるところから始めるつもりだった。 しかし、その百のうちのどれ一つとして、私が自由のうちの「求心的要素」と呼んだものを、徹底して批判的な仕方で確保するという、われわれの現在の要請を正確に満たしたかどうかは確かでない。 この課題に失敗すれば、人は完全な近代人であることをやめ、単なるモダニストになる。 モダニストは、真に重要な対立は一方のリベラルと他方の反動主義者とのあいだにある、と考えがちだが、より重要な対立は、真のリベラルと偽のリベラルとのあいだにあるのかもしれない。 第VI章 真のリベラルと偽のリベラル 近代人がついには「ボルシェヴィストになるか、イエズス会士になるか」の二者択一に還元されるだろう、と言われている。 その場合(イエズス会士とは超教皇主義のカトリックを指すのだとして)、ためらう余地はほとんどないように思われる。 超教皇主義的カトリックは、ボルシェヴィズムのように文明そのものの根を断ち切ろうとはしない。 実際、すでに一部は視野に入っているある条件のもとでは、カトリック教会こそが西洋に残る唯一の機関として、文明的な基準を支えうるものになるかもしれない。 しかし一方で、徹底した近代人でありながら同時に文明人である、ということもまた可能かもしれない。 この可能性をもう少し詳しく検討する前に、私がいま述べた極端な二者択一を(少なくとも表面上は)迫るかに見える現在の状況が、いかなる過程を経て生まれたのかをたどることが有益だろう。 この過程を追ってゆけば、結局はすべてが、自由という観念と統制の原理との関係にかかっていることが分かるはずである。 旧来の秩序のもとでは、私が述べたように、精神的統制の最終的な源泉と権威づけは、恩寵の教義にあった。 したがって、ルネサンス以来、個人が外的権威から次第に解放されていったこと、そしてそれと並行して自然主義的傾向が増大したことが、この教義の運命にどのように影響したかを、ある程度追わねばならない。 教会内部のある集団、なかでもジャンセニストは、胎動しつつあった自然主義的運動に対抗して、恩寵の教義をパウロ的・アウグスティヌス的な厳格さの全体において復興しようとした。 この教義は本来、キリスト教的来世志向の頂点をなすものだったが、ジャンセニストの復興の時代には、人々はいっそう断固としてこの世へと向かいつつあった。 サン=テヴルモンは、フランスでジャンセニストの求める聖性の基準を満たせる男は十人といない、と見積もっている。 ジャンセニストは、それ以外のフランス人をみな、外の闇へ追いやっているかのように見えた。 恩寵をより穏健に解釈する立場を取ったという点で、カトリック教会は単に良識を示したにすぎない。 より疑わしかったのは、ジャンセニストが望んだ人間の神への内的な依存の代わりに、司祭への外的な依存を置き換えようとする傾向である。 本題の都合上、教会が個人に自らの権威への服従を促すため、キリスト教教義の峻厳さを不当に覆い隠した、要するに決疑論的な弛緩にお墨付きを与え、その帰結がボシュエの言葉でいえば「罪人の肘の下にクッションを置く」ことになった、という非難の当否を論じる必要はない。 ここで指摘しておけば足りるのは、あらゆる種類の個人主義的傾向に対する教会の応答が、ますます強まる教皇権の中央集権化であった、ということである。 超教皇主義的カトリックについても(まったく別の意味合いではあるが)恩寵の極端な党派についてと同じく、彼はただ自力を否認したのだ、と言うことができる。 超教皇主義的カトリックがこれほど妥協なく対抗する個人主義の諸類型を理解したいなら、プロテスタント宗教改革との関係における恩寵の教義も研究する必要がある。 ルターもカルヴァンも、言うまでもなく、この教義に第一の重みを置いたが、同じ置き方ではなかった。 さて宗教改革は、その根底の前提によって、批判的な運動である。すなわち、それがローマ神権政治によって歪められたと見なした真正のキリスト教教義を回復しようとした。 それは個人に、この神権政治に対して批判的態度を取ることを促した。言い換えれば、私的判断の権利を行使せよと促したのであり、これは彼を自立的・自助的であれと励ます別の言い方にすぎない。 しかしプロテスタントは、自立しようとしつつ同時に恩寵の教義を擁護しようとした途端、特有の困難に巻き込まれた。というのも、ルターやカルヴァンが復興しようとしたパウロ的・アウグスティヌス的な形の教義は、自力の全面的な否定であり、人間に神の意志への完全で無力な依存を痛感させるためのものだったからである。 人が自立するには、どう見ても二つのことが必要である。健全な基準を持ち、さらにそれに従って行為できる自由を持つことである。 基準を確保するには知性が必要であり、それに従って行為するには意志が必要である。 ところがルターは、一方では個人主義者でありたいと思いながら、他方では初期キリスト教の反知性主義者に倣って知性を侮り、意志の自由を否定しようとする。 「行いの契約」は堕罪によって破棄されたのだから、人間の意志は罪に対して無力な隷属状態にあり、救いにかなう働きをなしうるのは神だけである。ゆえに人間の唯一の希望は、恩寵の契約と贖いの計画にある。 * ルター『意志の隷従について(De servo arbitrio)』(1526年)参照。 これと異なる見解を取ることは、謙遜を損なうものだ、ということになる。 もちろん、ルターの労働への極端な敵意は、労働を儀礼や典礼の遂行、とりわけ贖罪に関わるもの(satisfactio operis)と同一視したことにも由来している。 ルターや他の改革者たちは、教会から離れたことで、謙遜やより高次の意志の真理を想像力に解釈して見せる伝統的な象徴から、多かれ少なかれ切り離されてしまった。そのため、これらの真理を擁護するにあたって、ほとんど不本意ながら理性に頼らざるをえなかった。 エラスムスはその鋭い心理的洞察によって、宗教改革のごく初めから、そこに知的な思い上がりの要素を感じ取っていた。 神の意志への人間の完全な依存を説くカルヴァンの説教が、厳密には謙遜の印象を与えないとすれば、その説明は、彼がその意志について知りすぎていると僭越にも思い込んでいるからではないか、と疑いたくなる。 さらにジョナサン・エドワーズは、神の絶対的で恣意的な意志を理性的に正当化しようと焦るあまり、ついには三位一体の評議の間に、第四の者として忍び込んでしまったかのように見える。 カルヴァンやエドワーズが直面し、少なくともプロテスタンティズムの部分的な破綻へとつながった困難は、小さなものではない。伝統的キリスト教を受け入れつつ、批判精神の自由な働きを両立させようとする者は、誰しもある程度これに直面せざるをえない。 伝統的キリスト者が常にそうしてきたように、「絶対的予知」を備えた全能の神という仮説から出発すれば、なぜそのような存在がそもそも悪を許したのか、という問いがほとんど必然的に生じる。 さらに厳密な論理は、この存在が、突き詰めれば彼自身が欲したことをしたにすぎないのに、多くの被造物を永遠の責め苦へ定めた、という結論を強いるように見える。要するに、歴史的キリスト教の中心にある批判上の難所は、神の全能と全知を、その正義と慈悲といかに両立させるか、という点にある。 近代性を誇る世界の一部は、この神学的悪夢に背を向けてしまった。 だが不幸なことに、この悪夢を追い払う過程で、内面生活をも捨て去る傾向が生じた。すなわち、人間は自らの自然的自己(そこには知性も含まれる)において、畏れと謙遜をもって、あるより高次の意志を仰ぎ見る必要がある、という真理までが失われがちになったのである。 内面生活が衰えるとともに、自然人の膨張する欲望を抑える統制が弱まった。知識欲であれ、感覚欲であれ、権力欲であれ同様である。 私が追ってきた展開では、霊的意味での「働き」という観念は、恩寵に大きく従属させられるか、さもなければ儀礼や典礼の遂行と多かれ少なかれ同一視されている。ここで私たちは、まったく別種の「働き」の教義の台頭をたどらねばならない。 後期スコラ学者たち、とりわけドゥンス・スコトゥスは、宗教的真理を理性から切り離し、それを絶対で恣意的な意志と、理解不能な神学的神秘と同一視する傾向があった。 * 「神は最初の人間の堕落と、その中にある全子孫の破滅を、ただ予見しただけではなく、そうなることを意志したのである。」(カルヴァン『キリスト教綱要』第3巻第23章7節)またメランヒトンは『ローマ書注解』(1525年)で「神は万事を行う。……ユダの裏切りの作者であると同時に、パウロの回心の作者でもある」と述べている。 教会がこの意味で有効に「働きうる」と考えられたのは、恩寵が教会に委ねられている、とされたからである。 フランシス・ベーコンのような人物は、この種の神学者の言葉を文字どおりに受け取り、人間の把握をはるかに超える霊的真理に対して多かれ少なかれ誠実な敬意を払ったのち、ほかに用いどころを失った知性を自然秩序の研究へと向ける。 彼が目指すのは、空疎な言葉の哲学ではなく、働きと成果の哲学を、この秩序の上に打ち立てることである。 ベーコン主義的な「働き」の観念は、功利主義運動を通じて跡づけることができる。 たとえばロックの『統治二論』第二篇には、それが極端な形で現れている。 ロックにおいて「働き」はほとんど身体的努力と同一視され、所有権の唯一の正当な源泉とされる。 アダム・スミスも、所有と労働の関係において、きわめてよく似た「働き」観へと傾く。 このように「働き」という観念を最低の項にまで切り詰めたことで、正統派の政治経済学は、非正統派の政治経済学への道を開いた。 カール・マルクスは、労働の定義において、とりわけリカードウから影響を受けた。 なぜ、正統派の政治経済学者自身の説明によって「真に働いている」人間が、報酬のすべてを得てはならないのか。 なぜ彼は、その報酬の大部分を、ただの怠け者で寄生者にすぎない資本家に引き渡さねばならないのか。 正統派の経済学者は、富の源泉としての労働を不当に狭い意味に限定してはいるが、公平に言えば、マルクス主義者のように、さらに労働を価値と同一視するという誤謬にまでは陥っていない。 それは主として、供給と需要の法則と競争によって決まるのだ、と彼は言い張る。 過激なマルクス主義者は、労働を純粋に量の面からしか見ず、すでに述べたように、ラファエロの仕事と街角の看板描きの仕事とを同じ水準に置きかねないが、労働の産物を評価するにあたっては競争という要素を取り除こうとする。 近ごろのマルクス主義者は、労働をやや量一辺倒では捉えなくなってきたが、競争を全面的に、あるいは部分的に抑え込むことで生じる誤謬は、社会主義の土台そのものに組み込まれている。 この点で注意すべきは、労働の本性に関する見解において、ルソー主義者とベーコン主義的立場との間には、多くの根底的な一致があることである。 ルソー自身、労働を最低の項にまで切り詰め、手仕事と同一視する傾向がある。 そして、この外面的で目に見える意味で働かない者は、どうやら居候や寄生者で、生きるに値しないものとされるのである。功利主義的で感傷的な労働観を適用しつつ、同時に競争を排そうとした試みは、ロシアでは一方で冷酷な専制を、他方で屈辱的な隷属を生み出した。 実質的には野蛮への逆戻りを意味するような労働観が、重大な欠陥を抱えているのは明らかである。 同時に近代的でも文明的でもありたい人間は、ベーコン主義的あるいはルソー主義的な片寄りに対して、過去への単なる訴えで対抗するのではなく、より正確な定義を提示しなければならない。 ベーコンによれば、アリストテレスは「言葉の卑しい弄びもの」であった。 しかし実際には、ベーコンやルソーのように、目に見えて具体的な対象を「実在」とみなし、それに対して言葉を非実在だとみなすことこそ、言葉の「卑しい弄びもの」になる最も確実な道である。 「国家が何もしない者に金を払うレンティエは、旅人の犠牲で生きる盗賊と、私の目にはほとんど違いがない」等、『エミール』第三巻。 言葉、とりわけ抽象語が現実と深く結びつくのは、それが想像力を支配し、その想像力が行為を決定して、ひいては「人類を統御する」からである。 言葉の専制から逃れる道は、感覚的対象を選んで言葉を非実在として退けることではなく、ソクラテス的な徹底した問答法に付して吟味することである。 たとえば「労働」という一般語の食い物にならない唯一の方法は、それをソクラテス的に分割し、二分して、その語が受けうる多様な意味に気づくことである。 労働を純粋に量だけで定義することに含まれる誤謬は、反駁するまでもないほど粗雑である。 孟子がはるか昔に述べたように、精神で働く者が、手だけで働く者を統べるのは、正当であり、また避けがたいことでもある。 発明にせよ、組織・管理にせよ、才能ある少数者の集中的な精神労働の結果として、今日では、普通の労働者が、二、三世代前には富裕層でさえ手の届かなかった快適さを享受しうるのである。 労働者がこれらの快適さを増やしたい、あるいは少なくとも維持したいのなら、あらゆる優越に対する嫉妬をかき立てようとする扇動家の言い分に耳を貸すべきではない。 むしろ彼は、卓越した能力には卓越した報いが与えられるべきだということを、誰よりも先に認めるべきなのである。 たしかに労働者には不平がある。その不平とは、彼の上に置かれた者たちが、精神の働きをもっぱら物質的秩序にのみ集中させてきた、という点である。 真の問題は、功利主義的なタイプの「働き」が生み出した、力と快適さの巨大な機械装置の全体を、何らかの十分な目的に従属させることであり、ここには明確に倫理的なタイプの働きが必要となる。 そしてこの明確に倫理的な働きは、西洋では伝統的に恩寵の教義と結びついてきた。人間が神の働きの代わりに自分の働きを置くことは、謙虚さを損なうものと見なされたのである。 しかし神の働きを強調することは、私が示そうとしてきたように、不可能な神学的ジレンマへと導いたため、人々はそのジレンマを取り除くにあたって、霊の真の働きを捨て去り、単なるベーコン主義的な働きへと傾いていった。 どうやら問題は、恩寵の真理を、何らかの個人主義的な形で回復することにある。 この課題にあたっては、謙虚さと究極の度合いの霊的な自立とを結び合わせた極東の師に、しばし目を向けることが助けになるかもしれない。 「カルマ(業、働き)」という語は、西洋では一種の神秘的な光彩を帯びるようになった。 だが、この語が仏陀自身によって、きわめて事務的に用いられていることを忘れてはならない。 大工になりたい者は大工の仕事をせねばならず、王になりたい者は王の仕事をせねばならず、聖者になりたい者は聖者の仕事をせねばならない、と彼は言うのである。 人は段階を上がるにつれて、外なる働きから内なる働きへと、ただ移っていくだけである。 個人は、意識の直接の事実として確言される自らの倫理的意志を、外へ向かう欲望に対して、段階的に押しつけてゆくべきなのである。 そして彼は、自らの幸福のために、あるいは仏教徒の目には同じことだが、自らの平安のために、この霊の働きを行うべきである。 「自らを奮い立たせ、精進し、抑制し統制することによって、賢者は、いかなる洪水にも呑みこまれない島を自分のために作ることができる」と仏陀は言う。 この信仰における最高の対比は、つねに、霊的に精進する者と霊的な怠け者との対比である。 おそらく過去のどの師よりも、仏陀ほど徹底して労働の観念を扱った者はいないだろうが、仏教の強調点は、今日の私たちに必要なものと、どうもぴたりとは一致しない。 仏陀は、キリストと同じく、きわめて出世間的であった。 彼が主として関心を寄せた働きは、聖者性へと導くタイプのものであった。 これは私の想像力の欠如を示すのかもしれないが、私は同時代人が聖者の役を演じる姿を想像できない。 おそらく、これほど出世間性を欠き、宗教への理解をこれほど欠いた時代は、かつてなかった。 私たちは仏陀を、重たい眼差しの悲観的な夢想家のようなものに作り替え、そしてルソーに倣って、キリストの姿を感傷化してしまった。 だからこそ私たちは、宗教よりも、もう少し自分たちの力の及ぶ何かに取り組むほうがよいのかもしれない。 およそ、真に宗教的な働きの性質と、宗教が目指す緊張をはらんだ平安とに、かすかな手がかりでも持つ者が一人いるとすれば、媒介的、あるいはヒューマニズム的な諸徳として実を結ぶタイプの働きを、ある程度は理解しうる者が少なくとも百人は見いだされる。 さて、ヒューマニズムは宗教と同じく、何らかの形で内面生活の承認に、言い換えれば、霊の法と肢体の法との対立の承認に、基礎を置かねばならない。 またそれは宗教と同じく、知性を倫理的意志に従属させ、究極の強調点を謙虚さに置かねばならない。 謙虚さという点では、西洋のヒューマニストは、すでにほのめかしたように、儒教的中国から学ぶべきものがある。 宗教と最良のタイプのヒューマニズムとは、ともに謙虚さを重んじる点では一致しているが、拡張的欲望に対する態度においては大きく分かれる。 宗教は、出世間的徳としての平安を求めるあまり、これらの欲望を完全に捨て去る傾向があるのに対し、ヒューマニズムは、この世で最も有利に生きることを目指して、それらを節度あるものにし、調和させようとするにすぎない。 神のものとカエサルのものとを取り違えるという彼特有の混乱の結果として、ヒューマニタリアンは、世俗的秩序における第一の善として平和を打ち立てようとする。 彼は、何らかの機構(たとえば国際連盟のようなもの)によって、あるいは感情への訴えによって、この平和を確保できると望む。 「平和は私の情熱だ」と、拡張的なトーマス・ジェファソンは叫んだ。 だが、平和を情熱に変えてしまう人は、自分の内面においても外の世界においても、平和への道に踏み入れてはいない。 平和主義者が単なる物質主義者であるばかりか、きわめて好ましくない種類の物質主義者であることは、示しうる。 彼は、もっとも美しい徳の名のもとに、実際には倫理的基準を掘り崩しているのである。 不義なる者とは平和は成り立たず、しかも不義なる者は昔から今に至るまで、きわめて多数であるというのは、常識であり日常経験である。 ヒューマニタリアンの価値混同の別の例として、国家は「戦うには誇り高すぎる」ことがありうる、というウッドロウ・ウィルソンの断言を挙げることができる。 個人は謙虚すぎて戦えないこともあるが、このような世界では、戦うには誇り高すぎる国は、国として生き残るには誇り高すぎる国になりかねない。 世俗的秩序において他のすべての徳をまとめ上げる徳は、名に値するあらゆる思想家がつねに見てきたとおり、平和ではなく正義である。 さて、正義の理念を積極的に扱う者は、ほとんど必然的にそれを定義することへ導かれる――各人に、その行いに応じて、であり、この定義の妥当性は、さらに言えば「行い(work)」の定義の妥当性にかかっている。 私が指摘してきたように、ベーコン以来のヒューマニタリアンは、「行い(work)」の定義において驚くほど表層的である。 彼らは、より粗雑な数量的誤謬に陥らない場合でさえ、自然法と外的世界の観点から「行い」を考え、内面生活の観点からは考えない。彼らは、倫理的意志を自然的自己とその拡張的欲望の上に重ねてゆく、そうした形の「行い」を考慮に入れないのである。 私が述べたとおり、この種の「行い」という観念そのものが、恩寵の教義の退潮とともに消え失せる傾向を示してきた。 そこで、いま必要なのは、宗教的水準で(平和への意志として)感じられる倫理的意志の復興ではなく、世俗的水準で(正義への意志として)感じられる倫理的意志の復興だと認め、さらに、正義を積極的に定義すれば「各人にその行いに応じて与えること」だと認めるなら、ヒューマニタリアンが欠落させてきた要素を「行い」という観念に回復させる道を探ろう。 * オハイオ州のある新聞に詩を書いた人物が、「何十組もの夢想家、詩人、演説家、策士」の努力にもかかわらず千年王国が到来しないことを嘆いたのち、次のように結ぶ。 それゆえ私は、我々が嘆く進歩の乏しさについて、単純な理由を述べるのは反逆ではないと思う、と。 それはこうだ――各人が自分自身に取り組む代わりに怠けて、ほかの誰かを改革しようとしているのだ。 この駄詩の作者のほうが、我々のある大学総長たちよりも、時代の知恵に近いところにいる。 この回復にあたっては、たとえソクラテス派が正しい理性と正しい意志を同一視しようとする傾向に同意しないとしても、ギリシア哲学が助けとなりうる。 正義を「自分の仕事をすること」、あるいは「余計なことに首を突っ込まないこと」とするプラトン的定義は、おそらくいまだかつて凌駕されたことがない。 それは人をまっすぐに内面生活の真理へと引き戻す。 正義は、人間の各部分がそれぞれ固有の機能を果たすとき、とりわけ上位の自己が、下位の自然の諸部分を統合し統制するという固有の機能を果たすときに成立する。 このプラトン的構想のこだまは、セネカによる正義の定義にも見いだされる――Animus quodam modo se habens. 外的世界における正義は、突きつめれば、精神が自己自身に働きかけることによってある個人のうちに生じた調和と均整の、反映にすぎないはずである。 アリストテレスの正義観は、プラトンのそれと多くを共有している。 彼は正義を定義するにあたり、社会からではなく、それ自体としては飽くことを知らぬ欲望を制限し、それに節度の法を課す個人から出発する。 そうした個人が十分な数に達して社会の調子を決める国家は、正しい国家である。 応報的であれ分配的であれ、正義は報いと罰において比例的でなければならず、それが比例的たりうるのは、より高次の「働き」を考慮に入れることによってのみである。 この高次の「働き」を成すもの、すなわち拡張的欲望を節度の法へと訓練することは、効果的であるためには、早くから始まり習慣となる必要がある。 したがって、倫理的タイプの国家の不可欠の基盤は、倫理的タイプの教育である。 アリストテレスは、正義のみならず幸福をも、彼の言う「徳に即して活動すること」に依存させる。 そして彼は最終的に、「行い」という概念を人文主義的水準から宗教的水準へ、媒介から黙想へ、すなわち「観想(vision)の生活」へと移し、神そのものを純粋行為として定義する。 観想の生活において個人が示す活動は、隣人との関係において示す活動からあまりに切り離されており、そのため中世の禁欲的行き過ぎを助長したのだ、と考える者もいる。 実際、利他主義者は、プラトン的・アリストテレス的な正義の定義はいずれも、世界の仕事より自分の仕事を優先するよう人を促すがゆえに、利己的で反社会的だ、と主張するだろう。 人は自己を捨て、共感と奉仕に身を委ねるべきだ、と。 しかし我々は利他主義者に、世界が我々の奉仕以上に必要としているものがあることを思い出させねばならない――それは我々の模範である。 「模範とは」とバークの言うとおり、「人類の学校である。人類はほかからは学ばない」。 さて、人が模範的になるのは、宗教的な働きか、あるいは人文主義的な働きの結果としてのみである。 宗教的に働く人は、言ってしまえば、世界を放棄するその行為そのものによって世界を助ける。 彼は同胞に、何より重要な模範――非世俗性の模範――を示す。 宗教的水準で模範的となる「行い」の形をブッダが深く扱ったのだとすれば、人文主義的な働きから社会と文明にもたらされる益を、孔子はおそらくアリストテレス以上に十分に示した。 孔子は教えを一文に要約した――自己への忠誠と、隣人への慈愛。 利他主義者は、隣人への慈愛に第一位を与えることが許されるなら、この定式を受け入れるかもしれない。 しかしそれは徹頭徹尾、孔子的ではない。 個人はまず、自己や隣人よりも高い何ものかを仰ぎ見なければならない、そうしてはじめて、今度は自分が仰ぎ見られるに値する者となれるのだから。 理想の統治者である舜について、孔子は言う――「舜は何もしなかった、しかもよく治めた。 では実際、彼は何をしたのか。 宗教的に自己を省みつつ、厳かに玉座に座った、それだけである。」 孔子がこの箇所で言おうとしているのは、内なる行為が外なる行為にまさるということにほかならない(他の箇所から知れるとおり、彼の君主は外なる行為もまたなしえたのであるが)。 要するに、舜はプラトン的な意味で自分のことに専念しており、その模範の説得力ゆえに他者もまた同様にするよう導かれたのに対し、今日の「社会正義」への趨勢のもとでは、まもなく誰もが誰彼のことに口を出す時代が急速に近づいている。 我々は、かすかな声として感じられ、真の正義の基盤である良心の代わりに、むしろメガホンを通じて作動する社会的良心を据えてしまった。 お節介屋が、おそらく世界史上はじめて、自分自身の自己評価どおりの人物として扱われるようになった。 我々は実際、ある人の言い方を借りれば、「お節介の時代(Meddle Ages)」に生きているのである――しかも、干渉そのものが正義の定義の混乱から生じた帰結にすぎないのだから、皮肉屋は、この時代をいっそう正確には「混迷の時代(Muddle Ages)」と呼ぶべきだ、と言うかもしれない。 もっとも、干渉と混迷は、時に想像したくなるほど広く蔓延しているわけではないのかもしれない。 十分にプラトン的あるいは孔子的な意味ではないにせよ、自分のことに専念する重要性を理解している人は、おそらくまだ少数ながら残っている。 「私は兄弟の番人なのか」という問いに、アメリカ国民の全体が「熱狂的な肯定」で答えた、という最近の断言には、おそらく誇張が含まれている。 ついでに注意しておくべきは、自分の兄弟に対して負うものを、人々一般に無差別に拡張することが含意する、義務の原理の耐え難い希薄化である。 いずれにせよ、人類のために何かをしたいという拡張的な熱意から出発すべきか、それとも自己への忠誠から出発すべきかという問いには、小さくない論点がかかっている。 結局のところ、まず人が自分を正しさのうちに据えさえすれば、その正しさはまず家族へ、そして同心円状に広がって最終的には共同体全体へ及ぶ、という孔子的観念にも、一理あるのかもしれない。 仕事の定義、そして仕事を基準にした正義の定義は、自由の定義と切っても切り離せない結びつきにあることが分かるだろう。 真の自由とは、働く自由だけである。 あらゆる証拠が示すのは、怠け者にとって「事物の本性」のうちに安全はなく、怠惰のあらゆる形のうちでもっとも危険なのは精神的怠惰だということである。 より微妙な働き方を考慮に入れないことが、功利主義者が自由を定義しようとする試み(たとえばJ・S・ミルの試み)を台無しにしているのである。 ミルによれば、ある人が仲間の人々に害を加えないよう注意さえしていれば、自分の個性を伸ばす自由を持つべきだ、ということになる。 そもそも、人間性における利他的要素と自己に関わる要素とを、そこまで鋭く分けられるなどとは認められないし、仮にそれを認めるとしても、社会の観点から見ても自己に関わる徳こそ最重要だと主張しなければならない。というのも、これらの徳を実践してはじめて人は模範となり、そして私が示そうとしてきたように、真に他者の助けとなるからである。 社会が自らの利益のために、手で働く人より頭で働く人を奨励するのだとすれば、まして真に倫理的な働きに従事する人々には、いっそうの評価を与えるべきではないか。 実際、あらゆる文明社会が必要とする階層の中での地位は、その人の仕事の質によって決まるべきなのである。 要するに、積極的な観点から言えば、貴族制を正当化しうるものは仕事しかない。 「仕事によって」とブッダは言う、「人は高貴となり、仕事によって人は賤民となる」。 この原理は健全ではあるが、正直に言えば、全面的に適用するのは決して容易ではない。 正義が、各人が自らの仕事の量と質に応じて受け取ることを要求するとしても、この競争には出発点から明白な不平等がある。 ある人が生まれつき備えている能力は、別の人がどれほど努力しても獲得できないことがある。 プラトンの神話によれば、神はある者の本性には鉛を、別の者の本性には銀や金を混ぜ込んだのである。 人間の初期差を過度に強調すれば、プラトン自身がそうなりがちなように、何らかのカースト制度に陥るか、さもなくば自然主義的であれ予定説的であれ、宿命論へと傾くだろう。 反対に、こうした差異を否定して何らかの平等主義理論に与すれば、もっとも明白な事実に反することになる。 SvitOrNvp&ta, V. 135 . 真の正義が求めているように思われるのは、人は意図や努力によってではなく実際の出来ばえによって裁かれるべきだ、ということである。要するに、バークの言う「自然の貴族」は、彼の優越を、科学者にならって遺伝に帰すにせよ、キリスト者にならって恩寵に帰すにせよ、仏教徒にならって前世からの働きに帰すにせよ、しかるべき報いを受けるべきなのである。 仕事観と、それが受けるに値する報酬についての考えは、必然的に財産に対する態度を決定する。 文明の観点からすれば、あらゆる共同体において一定の人々が手で働く必要から解放され、より高次の働きに従事して指導者となる資格を得られるようにすることは、きわめて重要である。 文明が真に文明であるためには、アリストテレスの完全な意味での「余暇ある人々」を持たねばならない。 どの共同体であれ、自分自身の外面的で目に見える労苦の果実ではない財産を享受することを許されている者は、だからこそ怠け者や寄生者でいる余裕などない。 貴族的原理をどう構想しようと、支配階級ないし指導階級は、長い目で見て財産と特権を守りたいなら、ある程度は模範的でなければならない。 旧体制(アンシャン・レジーム)のフランス貴族の成員が、多くの立派な例外があったにもかかわらず、この試練に合格できなかったことは、あまりにも明らかである。 最近の著述家、たとえばレピントン大佐やアスキス夫人の暴露に基づいて、イギリス貴族もまた退廃しつつあるのだ、と論じる人々もいる。 人々は、長い目で見れば、自分自身が日常の自分以上の何かを仰いでいない者を、仰ぎ見ることには同意しないだろう。 享楽的で自堕落になった指導階級は、もはや終わりである。 とりわけ、物質的財貨に第一の地位を与えてはならない。 たしかに、財産が目的達成の手段として文明の必要な基盤であるなら、という原則は立てられる。 しかし財産をそれ自体の目的とするのは、物質主義である。 人間の精神が本性的に飽くことを知らない以上、世俗的な所有への欲望に限界を設けている人の模範ほど必要なものはない。 アリストテレスが言うように、経済的不平等に対する唯一の治療は「より高貴な種類の本性を訓練して、これ以上を欲しないようにする」ことである。この治療は財産を機械的に分配する仕組みにあるのではない。なぜなら「平等にすべきなのは所有物ではなく、人間の欲望」だからである。 ^ アリストテレス的な意味で欲望を平準化するには、個々人の側に、真に倫理的ないし人文主義的な働きが求められる。 そうした働きを要しない何らかの基盤の上に平等を唱えれば、皮肉な結果を招くことになる。 たとえばこの国は、独立宣言において自然的平等の教義に身をゆだねた。 そこで奨励された個人主義の型は、巨大な不平等へとつながり、伝統的基準の衰退とともに、粗野な金権政治の台頭を招いた。 ある人が十億ドルを蓄財したとしても、その後に五億ドルを慈善事業に投じたとしてさえ、アリストテレス的な意味で模範的だとはほとんど言えない。 こうした、上にいる者が欲望を抑えられないという失敗への治療は、扇動家が信じ込ませようとするように下にいる者の欲望を煽ることにはないし、また真の正義の代わりに「社会正義」の幻燈のような見世物を据えることにもない。 1 『政治学』1267b;同前 1266b。 そのような置き換えの結果、人はやがて個々の違反者の処罰から、財産制度そのものへの攻撃へと転じ、資本への戦争は、過去いつもそうであったように、ほどなく倹約と勤勉への戦争へと堕し、怠惰と無能に味方し、最後には理想主義を称しながら実は一般的な誠実さを掘り崩す没収計画へと至るだろう。 とりわけ社会正義は、競争を部分的にせよ全面的にせよ抑圧する点で、健全さを欠きがちである。 競争なしには、真の正義の目的、すなわち各人が自らの働きに応じて受け取るという目的は、達成されえない。 競争の原理は、ヘシオドスが大昔に指摘したとおり、世界の根にまで組み込まれている。事物の本性のうちには、真の勝利と真の敗北を求める何かがある。 競争は、人間を生来の怠惰から目覚めさせるために必要であり、競争がなければ人生は張りと味わいを失う。 ただしヘシオドスが続けて言うように、競争には二種類ある。一つは血なまぐさい戦争へ導くもの、もう一つは事業心と高い達成の母となるものである。 彼は、健全な競争心を保ちつつ、同時に有害な争闘へと堕する型を避けるにはどうすべきかを、十分に明確にはしていないのかもしれない。 しかし、この問いへの答えは、私がたったいま引用したようなアリストテレスの文の中に見いだされるのではあるまいか。 競争の害悪への治療は、強者と成功者の節度と寛大さのうちにあり、弱者の境遇に対する病的な感傷化のうちにはない。 今日の不穏と反抗の気分があまりに蔓延しているのは、指導者たちがこのように自制するどころか、極端な心理的放縦の罪を犯していることを示唆するほどである。 『仕事と日々』冒頭を見よ。 社会正義の唱道者たちの側に、資本の性質についてある種の混乱があることに注意すべきである。 ジョンソン博士はスレール醸造所の売却の場でこう言ったと伝えられる。「ここで売るのはボイラーや桶の寄せ集めではない。強欲の夢をも超えて金持ちになりうる潜在力なのだ。」 もちろん、その潜在力を現実のものにするかどうかは経営の力量にかかっており、この力量は醸造業者の資本の一部であるだけでなく、資本の本質的部分でもあった。 現在では、わが国の鉄道に投下された資本は、そのいわばスクラップ価値で測れるのだ、という前提が置かれている。 この種の誤謬の結果、鉄道の所有者と経営者は近年、産業としてのこの分野で進取の気力を失わせるような扱いを受けてきた。 実際に鉄道が苦しんでいるのが「水増し株式」ではなく「水増し労働」であるときでさえ、世間をその反対に納得させるのはたやすいように見える。 奉仕と社会正義の使徒たちが思いどおりに事を運べば、いま中産階級の貯蓄の相当部分が、直接にせよ保険会社や貯蓄銀行を通じて間接にせよ、鉄道に投資されているのだが、それが一部ないし全部、没収を被るかもしれない。 実のところ、どの形の社会正義も没収へと傾き、没収は大規模に行われると道徳基準を掘り崩し、そのかぎりで真の正義に代えて、狡知の法と力の法とを据えることになる。 社会正義のこうした危険に備えるには、鋭い分析と想像力との協働が必要であり、それだけが真の洞察を生みうる。ところが多くの人は分析に弱く、想像も倫理的というより牧歌的である。 そのため根本原因に迫れず、症状の手当てに走り、バークの言う「手品のような近道や、小さな誤謬的便法」に訴えがちになる。 見かけの善は二次的帰結において悪となり、見かけの悪はある種の善の必要条件であることが判明する。 こうして最終的な効果にまで辿っていくと、事物は一度ならず幾度も姿を変えることが少なくない。 たとえば普通の労働者は、社会正義の名のもとに投票するよう促されている「資本への賦課」が、結局は自分自身に跳ね返ってくることを見抜けないかもしれない。 普通選挙を、真の正義と真の文明の双方が求めるだけの財産制度の安全と両立させられるのかどうかは、いまだ明らかではない。 代表なくして課税なしは、アメリカ独立革命の人々の主要な不満であった。だが今日まさに、共同体の重要な一部がそれに甘んじさせられている。 主権者たる人民の名において課税する者は、王権を唱えた者たちよりも、公平に課税すると期待できるのだろうか。 理想主義の仮面をかぶる不正の諸形態のうち、おそらく文明生活の基礎を揺さぶるうえで、通貨基準をいじくり回すものほど悪魔的に有効なものはない。 財産が何らかの意味で労働を表し、貨幣が財産の慣習的な象徴であるなら、この象徴が乱高下すれば正義の目的は損なわれがちであり、倹約と先見は無意味となり、誰も自らの働きに応じて受け取れるとは確信できなくなる。 通貨膨張は実際には忌まわしい没収の一形態にほかならず、それがドイツのように国益増進のためとされようと、ロシアのように国際主義推進のためとされようと同じである。 指摘されてきたように、急進派はしばしば貨幣と財産を混同し、貨幣の分配が実際の富の分配と同じだと思い違いをする。 貨幣は単なる慣習的な徴標にすぎないが、それでもその徴標がどのような性質のものかは、どうでもよい問題ではない。 金本位制の理由は単純である。金は、その生産に要する労働量が、おおむねそれと交換されうる諸商品を生産する労働量に見合う。 何らかの理由で金がより豊富に、より少ない労力で産出されるようになっても、あるいは逆が起きても、通貨基準は変動する。これは悪ではあるが、金に代えて、労働という尺度で試すなら内在的価値の乏しい紙幣などの交換媒体を用いることで生じる悪に比べれば(人間性がこのとおりである以上)、取るに足らぬ悪にすぎない。 実際のところ近代人は、相反する二つの傾向のあいだで引き裂かれている。 一方では、国内的にも国際的にも、物質的関係のいっそう複雑な網の目に巻き込まれており、その網は、きわめて繊細な信用と交換の機構の上に成り立っている。 他方では、素朴な正直さの代わりに掲げられるさまざまな理想主義的企て、あるいは経済的であれ政治的であれ露骨に帝国主義的な企てが、信用と交換の必要な基礎である信頼を掘り崩し、産業革命が築き上げた精巧な構造全体を崩壊の危険にさらしている。 この革命を推進した政治経済学者たちは、カーライルによれば、人と人とを結ぶ唯一の紐帯を現金払いにすることに賛成だった。 しかし現金払いは、精神的に遠心的な人間同士のあいだで、紐帯として働きえない。 東欧の各地では、人々が現金払いをあまりに疑うようになり、経済的接触において物々交換へ戻らざるをえなくなっている。 私が列挙してきた諸悪は、功利主義運動において支配的であった、偏った労働観に少なからず由来している。 財産それ自体の利益のためにも、共同体の少なくとも一部の成員は、まったく別の意味で働く必要がある。要するに、自らの獲得欲を制限し、身をもって良い模範を示すことで社会に奉仕しなければならない。 だからといって、そのような働きを人に確保する最善の道が、社会の利益を彼に説きつけることだとはかぎらない。 功利主義者であるレズリー・スティーヴンは、「各人は自分自身の幸福にしか関心を持てないという学説は、恐ろしくもっともらしく、個人主義と見事に適合する」と言っている。 まさにそのとおりである。だから個人に到達する最も賢い道は、彼の行為が他者の幸福にどう影響するかではなく、それが彼自身の幸福にどう影響するかを示すことかもしれない。 ただしその場合、幸福を、功利主義者やエピクロス派のように快楽の観点で定義するのではなく、アリストテレスや仏陀のように労働の観点で定義するよう注意しなければならない。 この方法は、獲得欲を抑え込むことに限らず、性の本能の統制にも適用できる。 性的放縦は社会に恐るべき害をもたらし、いまなお害をもたらし続けている。 その結果生じる疾病は、アルコール中毒にもまして、白人種の将来への脅威である。 別の角度から言えば、遠心的で自己放縦的な個人主義のある型と、出生率の過度な低下とのあいだには、疑いようのない関係がある。 統計を信じるなら、フランス人も、また土着の血統のアメリカ人も、地上からしぼみ消えかねない危険にある。 人口が増加しているところでは、それは質の犠牲の上に成り立っているのだ、と言われている。 過去が指導者として仰いできた血統は絶えつつあり、劣った、あるいは退廃した種族が増殖している。 この種の悪に対する人道主義的処方は、とりわけ疑わしく思われる。 優生学の信奉者が提示してきた性関係の規制案は、滑稽であると同時に無力な専制へと行き着きそうである。 他方、祖国のため、人類のため、あるいは「有色人種の押し寄せる潮流」に脅かされている白人種のためといった一般的理由から、個人が自制へと促されうるという証拠は乏しい。 性の問題全体を内面生活の観点で扱う点で、宗教のほうが結局は正しいのかもしれない。 あるフランスのモラリストによれば、人間はその自然の自己において、わずかな虚栄心とわずかな淫楽とから成り立っている。 キリスト教徒は、そこに貞潔と謙遜を置き換えるだろう。 人文主義者は、リビドー・センティエンディの最も強暴な形態を完全に否定するのではなく節度を与えようとするが、それでも生の衝動と生の統制との闘争から出発する点では、キリスト教徒と一致する。 彼は、その統制を、主として社会のためではなく、本人自身のために行使させようとする。 快楽と幸福との対立が、これほど目に見えるところは、性に関する事柄のほかにない。 近代の解放について考えれば考えるほど、それが私の言う自由における求心的要素を犠牲にして得られたことが明らかになる。そしてこの求心的要素、すなわち倫理的意志なしには、霊の真の働きは不可能である。 いったい人々は、どうしてこの誤りの重大さについて自分を欺きえたのか、と人は問うだろう。 彼らが自分を欺いた一つの仕方は、人間法による労働の代わりに、自然法による労働を差し出したことだ、と答えられるかもしれない。 その好例の一つがファウストであり、彼は道徳上の過失を、海から湿地を干拓することで償うものとされている。 ゲーテの追随者を自任するカーライルは、労働観においてさらに欠陥が大きい。 彼はソクラテスの「汝自身を知れ」に代えて、「汝の仕事を知り、それを行え」を福音として採るだろう。 したがって、カーライルが続けて言うように、人間は抽象的・形而上学的な意味では知りえないのだから自己認識への努力は軽んじるべきだ、とするのは、現状のもとでは、内面生活を貶めて、単なる外面的な働きに加担することにほかならない。 労働をこのように一面的に構想すると、それは単なる能率へと堕してしまう。 事実、カーライルは「産業界の指揮官」(どうやら彼が作った語である)の能率を称揚するだけでなく、Frederick the Great、さらにはフランシア博士のような人物の軍事的能率まで称揚している。 『Past and Present』第xi章(冒頭)。 こうして彼は、自分にも他人にも必死に逆を証明しようとしながらも、結局その哲学においては、真に倫理的であるより帝国主義的であるほうへ傾いてしまう。 彼の言う「英雄」は、少なくともニーチェ的な超人のいとこ同然であり、両者とも十八世紀の「独創的天才」から真正の血統を引いている。 考えるべき点として、「指揮官」だけでなく、近代の産業軍における一兵卒の立場がある。 確かに、この兵卒も私たちと同じく、仕事の中に幸福を見いだすか、さもなければ幸福はない。 しかし、産業革命が生み出したこの種の能率の中に、彼が幸福を見いだすことまで期待してよいのか、という疑問は提起できる。 この能率は、努力の果てしない細分化によって達成され、その結果、個々の労働者は巨大な機械の単なる歯車になりがちであった。 彼は自分のごく微小な部分でしか働いていない。 実際、ときには彼はほとんど働いているとすら言いがたい; 働くのは機械であり、それを見張る人間よりも機械のほうが、かえって自動性の少ない生活を送っているかのように見える。 ヘンリー・フォードの工場のある職工は、名前を尋ねられると自分は「ボルト第 29番」だと答えたという。こうして多数の人間が機械化されるのは、産業界の指揮官が「生き生きとして」「ダイナミック」でありうるため、言い換えれば(これらの語が今そう使われているのと同じ意味で)心理的無抑制の状態に生きうるためである。 というのも、J. D. Rockefellerを上回るといわれる所得を積み上げることに価値があると思う男が、きわめて精力的な人文主義的、あるいは宗教的な働きに従事しているとは、まず言いにくいからである。 もし普通の産業軍の一兵卒が「指揮官」の例にならい、自分自身としてであれ、組合とその指導者を通してであれ、自分もまた「生き生きとして」「ダイナミック」になろうとし始めれば、結果は混乱である; 彼は、機構全体がうまく機能するために必要な精妙な部品調整を乱してしまうからだ。 私はもちろん、機械の増殖が純然たる悪だと断言しているのではない。 この増殖によって、以前なら十二人、いや百人を要した仕事を一人でできるようになり、そのぶん多くの人々の肩から苦役の荷が下ろされ、余暇の機会が開かれた。 「機械工や労働者の生活を送っている者は、徳を実践できない」とアリストテレスは言う。 しかし労働者は今、かつて存在しなかったほど、何ものかへと高まる機会を持っている。 だが不幸にも、周知のとおり、彼は苦役から解放された分をアリストテレス的意味での余暇を味わうために使わず、娯楽を求めているのであり、そこでも彼は仕事中とほとんど同じ程度に機械に従属している(自動車、蓄音機、映画など)。 おそらく欠陥は、労働者自身にあるというより、彼に示されている「上の者」の型にあるのだろう。 私が論じてきたこのきわめて模範に乏しい個人主義の型は、一般に功利主義的な人生観から来るだけでなく、とりわけアダム・スミス学派の政治経済学に由来することが示せる。 国家は脇へ退き、個人に自由な活動の余地(laisser faire)を与えよ、とアダム・スミスは言う。 個人はこの自由を乱用しない; 啓蒙された利己心に導かれるからである。 さて、啓蒙された利己心という教義そのものは、決して浅薄ではない。 それは Aristotle and Buddha のような、真に深い思想家によっても唱えられてきた。 しかし彼らが念頭に置く自己とは、富の追求を第一目的とする自己ではなく、この獲得的自己を統制する倫理的自己である。 この統制を欠いたまま獲得的自己を放置すれば、正しい種類の競争は誤った種類へ、すなわち実際にマンチェスター学派の経済学が助長した、工場労働者が単なる「cannon-fodder」 として産業戦争に投げ込まれるような、冷酷な競争へと堕してしまう。 しかもこの種の競争には、同情や利他主義といった十分な釣り合いのおもりも働かないだろう。 倫理的意志の代用品として同情がどれほど有効かは、ともあれ、この運動全体における決定的争点である。 現代の「奉仕」という福音の核心は、結局この一点にかかっているのであり、 その福音を、多くの人は今日、かつて三位一体を信じたのと同じくらい無批判に信じているように見える。 しかしこの福音の基礎は、厳密に心理学的な根拠から見て、きわめて心もとないことが示されうる。 第一に、今日理解されている意味での「奉仕」という観念は、キリスト教的ではない。 キリスト者が仕えるのは人ではなく神であり、この奉仕は、祈祷書が教えるとおり「完全な自由」である。 これに対して、人道主義的な意味での奉仕は、ストア主義と重要な接点を持っている。 ストア派は人道主義者と同様、人類全体の福祉を基準にして自らの行為を律しようとした。 しかし人道主義者とストア派の間には、重要な相違があることを指摘しておく必要がある。 ストア派は進歩の教義をまったく持たず、持つとしてもごく原初的な形でしか持たなかった; 彼は、大衆がほとんど自動的に「はるかな神的出来事」へ向かって前進していくとは考えなかった。 この種の自動的進歩は、厳しい心理学的検討に付せば、変化それ自体への歓喜か、あるいは権力と快適さのための変化への歓喜へと、結局は還元されることが分かるだろう。 功利主義者が助長してきた道徳的進歩と物質的進歩の混同には、私がすでにルソーや感傷主義者について述べたのと同種の、一般語の操作が含まれていることが示せる。 ディズレーリは、英語を話す諸民族は快適さと文明とを区別できなかった、と言っている。 comfort という語そのものが、ある価値体系から別の価値体系へ一般語を不当に移し替えることの、見事な例である。 「悲しむ者は幸いである、彼らは慰められるであろう」; 現代のアメリカ人は、前もって悲しむことなしに慰めだけを得ようとする。 道徳的進歩と物質的進歩の混同の結果、近代人は、倫理的目的を達成する手段として、組織と能率、ひいては一般に機械装置に対して、度を越した信頼を抱くに至った。 文明が危機にあると告げられると、彼の第一の本能は、文明救済のための委員会を任命することなのである。 国際連盟それ自体も、ただの超委員会にすぎない。 しかし功利主義的意味での進歩は、共感よりもさらに、観念主義的信条にとって本質的でない要素である。 共感という点では、ストア派と人道主義者の違いを、ここでもう一度指摘しておかねばならない。 一方でストア派は人道主義者ほど機械装置を信頼しなかったが、他方で彼はそれほど情緒的に外へ広がることもなかった。 私がすでに触れたように、シャフツベリとその影響を扱う際にも、この種の興味深い問題が現れてくる。 シャフツベリの哲学の一側面がストア派に由来することはあまりに明白なので、彼をエピクテトスとマルクス・アウレリウスの純粋な弟子として描こうとする者さえいる。 しかし事実として、ストア派は感傷家ではなかったし、シャフツベリがイングランドにおける感傷主義の主要な源泉であり、むしろドイツではなおさらそうであったことは示しうる。 ストア派の「正しい理性」は、実際、シャフツベリの先駆者たるイングランド人、たとえばカンバーランドにおいてすでに情緒的な色合いを帯びはじめている。 幸福と快楽を同一視しようとする点で、功利主義者はストア派よりもエピクロス派を思い起こさせる。 だがエピクロス派の「アタラクシア(心の平静)」も、ストア派の「無感動(アパテイア)」も、感情の放出を促すものではなかった。ストア派もエピクロス派も、「感情を柔らかな贅沢な流れにまかせて」その結果を「徳」と呼ぶような人種ではない。 ルソーが、衝動的な憐れみを利己的衝動への十分な相殺物であり、他のあらゆる徳の源泉でもあるとして称揚したことについては、すでに述べた。 それとほぼ同じくらい重要なのが、ヒュームが、厳密に心理学的根拠にもとづくと称して、自然人間のうちに、理性に先立ち自己愛から独立した共感の要素があると主張したことである。 そして共感は、今度はヒュームの正義定義の土台となる。 ヒュームにとって正しい人とは、プラトン的意味で自分のことだけに専念する人ではなく、利他主義者なのである。 ヒュームによれば、正義は「人為的」な徳であり、その直接の源は啓蒙された自己利害である。しかしその究極の源は、他のあらゆる徳と同じく、「人類への広汎な共感」にある。 もちろん決定的な問いは、人が自発的で自然な自己として他人の快楽に共感するかどうかではなく、少なくとも利己的衝動への十分な釣り合いとなる程度に、他人の苦痛に共感するかどうかである。 この点に関する18世紀道徳家の自信は、いまのわれわれにはすでに驚くほどナイーブに見えはじめている。 ルソーは、倫理の全構築を人間の生得的な憐れみ深さの上に築こうとするだけでなく、この性質は社会的階層を下れば下るほど、つまり「自然」に近づくほど、ほとんど正比例して増大すると主張するのだった。 ではなぜ、庶民がそれほど憐れみ深いのなら、車裂きの刑にかけられる人々を見物するために喜んで群がったのかと問われると、 彼は、憐れみはきわめて甘美な感情だから、彼らはそれを味わう機会を一度たりとも逃したくなかったのだ、と答えた。 おそらく同じ理由から、シャトーブリアンが語るところでは、彼の家の門番はロベスピエールとルイ十五世広場の見世物を惜しんだ。そこでは「鶏の肉のように白い首」をした女たちが断頭台に上っていったのである。 同様の理由から、おそらくスペインの民衆は闘牛場に通い、古代ローマの民衆は剣闘士の闘技場へと群がった。 真相は、この種の事柄における庶民の心理は少しも倫理的ではなく、エピクロス派的だということである。 いささか以前にエピクロス派のルクレティウスが指摘したとおり、安全な岸辺から他人の恐るべき難破の危険を眺めるのは快い。 「笑えば世間もともに笑い、泣けば泣くのは自分ひとり。」 ほぼ同じように、世界の悲惨も、見出しでうまく料理されさえすれば、普通の市民の朝食の卓に心地よい刺激を添えるだけである。 センセーショナルな新聞の助けを借りて、今日の人々は、まさに絶え間ない難破の連続を岸から見物するよう、つねに並ばされているのだ。 要するに、ルソーの意味で「自然」な民衆の際立った特徴とは、無責任にスリルを追い求めることにある。 倫理を情緒に直接基礎づけようとするこの試みが成功した最大の理由の一つは、それがキリスト教的な慈愛だけでなく、恩寵にも代わるものを提供するように見えたからである。ただしそれは、旧来の恩寵のように謙遜と罪の自覚を伴わない恩寵であり、というのも違犯する者は、自分の内に「古いアダム」が残っているからではなく、社会とその制度のせいでそうするのだ、ということになるからである。 自然の恩寵から社会的洗練へと堕ちていない人は、自発的に徳を備えている。 「彼の内なる天の豊かな本能は育った」とローウェルはこの種の美しい魂について言う、「森の奥まった場所が、苦もなく菫を芽吹かせ、その花を青く染めるのと同じほどに」。 ここに新しい恩寵と古い恩寵の違いは明らかである。古い恩寵は、受け手が「働いているのは自分ではなく神だ」と主張したとしても、なお一種の働き(ワーク)を含んでいた。 いずれにせよ、その働きが現実にあることは疑いえず、だからこそしばしば自然人間に、厳しい、時に禁欲的な統制すら課したのである。 これに対して自然の恩寵による善良さは、受け手に「賢明な受動性」以上の何ものも要求しない。 キリスト教の愛と恩寵と、ルソー主義者によるこれら教義のパロディとのあいだには、もう一つ注目すべき鮮烈な対照がある。 キリスト教の愛と恩寵は、鋭い排除と峻別へと導くのに対し、ルソー主義者は汎神論的な夢想のうちにあらゆる区別をぼかしてしまう傾向がある。 たとえばダンテの「幻視」を比べてみよ。天の頂から地獄の底まで、道徳的価値の尺度がくっきりと刻まれているのに対し、その「幻視」 ではウォルト・ホイットマンにおいて、男女はもちろん、善人・悪人・どちらでもない者だけでなく、「ニワトコ、ビロードモウズイカ、ヤマゴボウ」までもが、汎神論者のいう愛のおかげで同じ水準に置かれている。 ダンテは、地獄の壁を築いた「至高の愛」について語る。 われわれは中世的な苛烈さに身震いする。 だが反対側の、より危険な極端は、ボシュエの言う「殺人的な憐れみ」を人間性に浴びせかけ、愛を促進すると称しながら正義を転覆する用意を持つことなのである。 無差別な愛が「賢明な受動性」と結びつき、 さらに「自然」への回帰が、信奉者たちの言うとおり人々を共通の中心へ引き寄せるのだとすれば、たしかに正当化されうる。だがこの交わりが達成されるのは現実世界ではなく、夢想の国であることが示される。 この観点から、ルソーや他の原始主義者が、伝統的基準の崩壊とともに増大しがちな奢侈と自己耽溺への治療として提案した「質素な生活」を考えてみよう。 真の生活の質素さは、欲望の制限によって達せられるべきであるように思われる。これに対し奢侈な生活とは、モンテスキューの言うとおり「欲望が巨大になった」生活である。 さて原始主義者のいう「自然」は、ロマン主義的想像力のノスタルジアにすぎないことが示される。だからそこへ戻ろうとする試みは、欲望を制限するどころか拡大し、しかもそれを無限で不定形なものにしてしまう。 ルソーは「幼少のころから、むなしく私を焼き尽くしてきた、貪り食うが不毛な火」について語っている。 シャトーブリアンは、自作のルネをヨーロッパ文明からアメリカの荒野へと実際に逃れさせ、インディアンの花嫁を迎えさせる。 ルネは彼女にこう書くとき、シャトーブリアン自身の代弁者となっている。「この心からは炎が噴き出す。 ランは、彼女にこう書くとき、シャトーブリアン自身の代弁者となっている。「この心からは炎がほとばしり出る。」 。 それは創造物をすべて貪り尽くしても、なお満たされないかもしれない。」 シャトーブリアンはキリスト教の擁護者を装った。 しかし確かなのは、キリスト教の愛が平和と交わりに向かわせるのに対し、いま述べたようなシャトーブリアン的ノスタルジアの「愛」は、不安と孤独へと向かわせるということである。 理想と現実の皮肉な対照は、シャトーブリアン以上に、むしろシェリーにおいて、いっそう明瞭に現れるかもしれない。というのもシェリーは、シャトーブリアンのように伝統主義者を装うのではなく、新しい倫理を断固として支持したからである。 「道徳の大いなる秘密は」と彼は言う、「愛である。」 しかし他方で、彼の詩の特徴的な調子、いやおそらく最も特徴的な調子は、痛切な精神的孤立のそれである。 新しい自由の党派の多くは、内的統制という意味での労作にもとづくのではなく、拡張する情緒としての「愛」にもとづく自由を唱えたが、フランス革命によってひどく幻滅させられた。 シャトーブリアン自身、その幻滅したルソー主義者の最良の典型の一人である。 彼は『革命論』の中でなお、ロマン的ノスタルジアを優れた精神の真の徽章と見なしつつも、それが掻き立てる「無限」への憧れは、とりわけ道徳的退廃の時代に広く見られることを認めている。 いずれにせよ、このノスタルジアの結果として、人は自分の持つものに決して満足しない。 彼は飽食と倦怠だけで、政治形態を次々に打ち砕いてしまう。 人類の運動は、完全化の使徒たちが唱えるように一直線に着実に前進するのではなく、檻の中のリスのように、円を描いて回るのだ。 自由の愛好家の観点からすれば、社会には望みがない。 「政治的真理を求めるのなら、見つけるのは容易だ。 ここでは専制的な大臣が私の口を封じ、理由もわからぬまま二十年も地下牢の底に投げ込む。バスティーユを脱したかと思えば、憤って民主政に飛び込むが、そこではギロチンの足もとで人食いが私を待っている。」 いま風に言えば、ツァーリを打倒したところで、ボルシェヴィキに喉元を押さえられるというわけだ。 では、自由などというものは存在しないのか。 「いや、ある。甘美で天上的な自由、すなわち自然の自由が。」 人は「宗教的な森」へ分け入ればよい。 きわめてよく似た仕方で、コールリッジも、フランス革命が理論上は普遍的博愛の十字軍でありながら、その本質は帝国主義的であると見抜くや、もはや人間の間に自由を見いだす望みを捨てた。 彼の言うところを要約すれば、真の自由を求めるなら、外へ出て荒波が何を語っているかを聞け、ということになる。 自由は、人間のいかなる形態の中にも見いだされない。 しかし「自らの存在を地・海・空へと撃ち貫き」、「最も激しい愛で万物を所有する」なら、自由はその人に啓示されるであろう。* * 参照:France: an Ode(1798年)第V部。この部分の冒頭はまったくバーク調である。「感覚的なもの」と「暗黒」はむなしく反抗する。 「自らの強制による奴隷!」等。 こうしてバーク的な調子を鳴らしたのち、コールリッジはそのまま、純然たる汎神論的な当惑へと落ち込んでいく。 しかし、真の自由を求めるべき場所は、社会でも自然でもなく、自己そのもの、すなわち倫理的自己なのかもしれない。そして倫理的自己は、拡張する情緒としてではなく、内的統制として経験される。 したがって自由は、第一義的には「愛」ではなく、 労作と結びついている。 「世界を回しているのは労作であって、」とブッダは言う、西洋の感傷家が言い立てるような愛ではない、「それが世界を回しているのだ。」 「倫理的に労作する人は、いっそう自己と一体となると同時に、全人類とではなく、同様の倫理的鍛錬に服している人々と交わりへと向かい、そうして儒教的表現で言うところの『普遍の中心』へと近づいていく。 だから愛を求める人の観点からしてさえ、道徳の大いなる秘密は労作なのである。 愛は律法の成就であって、感傷家が信じ込ませようとするような、その代用品ではない。 キリスト教の愛徳の教義の根底にある心理的真理は、人はふだんの自己の水準のまま、拡張的に寄り集まることはできない、という点にある。 それを試みることは、ルソーやシェリーの場合に見たように、極端な精神的孤立をもたらす。 ルソーは、「信じ難いほどの怠惰」の上に「屈しない自由の精神」を築いた、と言っている。 言うまでもないが、真の自由は怠惰の上には築けない。それは強引な闘争によって勝ち取られるべきものであり、その闘争は外界ではなく、第一に自己の内で行われる。 * Sutta-Nipāta, v. 654. 以前どこかで述べたように、真のリベラルと偽のリベラルを分かつ究極の区別は、おそらく精神の競技者と宇宙的怠け者との区別である。 真の自由が生き残るためには、倫理的怠業が、倫理的努力にのみ与えられるべき功績を横取りしないことが重要である。 この横取りは、より高次の意志の活動の代わりに、拡張する情緒を据えようとする者たちの綱領を受け入れるときに起こる。 私が示そうとしてきたように、現実世界においてこの種の拡張がもたらす結果は、兄弟愛的なものではなく、帝国主義的なものなのである。 真のリベラルと偽のリベラル、倫理的に勉励する者と倫理的に怠惰な者との混同は、自然権の教義によっても助長されてきた。 ある明確な義務を果たすことに先立つものとして、抽象的権利として主張される自由は、内面生活に関するかぎり、つねに怠惰な自由である。 この観点からすれば、他のあらゆる「自然」 権も、ある意味では、カール・マルクスの孫が著した書物の題名『怠惰の権利』に要約されている。 私たちは現代において、全住民が自己決定するという抽象的権利が、その道徳的発達の程度に先立つものとして主張されるのを耳にしてきた。 この種の想定上の権利を世界平和の綱領の一部として掲げることは、人道主義的自己欺瞞のどん底へ沈むことにほかならない。 たしかに自然権のドグマは、なお大衆の想像力を支配してはいるが、政治理論家たち自身によってすでに放棄されている。 ところが不幸なことに、そのドグマを退けながら、根底の誤謬は保持した理論家がいる。 たとえばハロルド・J・ラスキ氏は、人間の権利を抽象的・形而上学的な意味ではもはや信じないにせよ、人が欲するものは大まかには必要とするものに対応するという真理を便宜的に表す言い方としては、なおそれを受け入れていると言う。^ しかし人間性について有効な知識を得るための最初の、きわめて初歩的な一歩とは、人間の欲求と必要とが一致しないという事実を発見することなのであり、ラスキ氏のような型の「リベラル」は、その一歩を踏み出し損ねている。 主の祈りを信じるなら、人間に必要なのはパンと知恵である。 少なくともこの祈りが唱えられたころのローマ人が欲したのは、パンと見世物であった。 人間の欲求と必要の隔たりは、ローマ時代以来、ほとんど縮まっていない、あるいはまったく縮まっていない。 キリスト教神学をどう考えるにせよ、人間は分裂した意志に苦しむというキリスト教の洞察は依然として真である。すなわち人は霊の法に従う必要がありながら、肢体の法(肉の法)に従いたがるので、人間は徹頭徹尾パラドクス的な存在であり、たいていは自分自身の幸福と戦っている。 いま私たちがなすべき努力は、私が述べたように、霊の法を積極的に扱い、そうして積極主義を標榜しながら実はそうではない人々に、彼らの土俵で対抗できるようにすることである。 この観点から、職業哲学者たちを一瞥してみよう。 たとえばヒュームは純粋な実証主義者を装い、あらゆる先験主義を捨て去って、ベルクソンの言う「意識の直接与件」の上に立とうとした。 厳密に言えば、純然たる合理主義はヒュームとともに死んだ。 ところが不運にも、カントがその死体に電気を流して動かしてしまった。 「『ロックからベンサムまでの政治思想』p.270。」 彼のいう「純粋理性」は、デカルトや17世紀の他の大体系家たちの理性がそうだと考えられていたように現実を与えるのではなく、空虚な範疇を与えるにすぎない。 この純粋理性に対置して、カントは実践理性を立て、実践理性は「物自体」と対応すると示しえないいくつかの断定へと導かれる。 こうして実践と現実が引き裂かれることで、真理によって有用性を試すのではなく、有用性によって真理を試そうとするプラグマティズムへの道が開かれ、同様に、これと緊密に結びついた「有用な虚構」説や、近ごろの種々の哲学的な奇説へも道が開かれる。 では、カントの実体を欠いた超越から、純粋に経験的だと自称するヒュームへ戻ろう。 この自称は二つの理由で認められない。第一に、すでに述べたとおり、彼は実験的には確立できないこと、すなわち自然人のうちに自発的な共感の要素があり、それが利己的衝動に単独で対処できるほど強い、ということを主張している。 第二に、彼はそれでもなお「意識の直接与件」の一つであるはずのもの、すなわち自然人とその拡張的な欲望を統御する力として感じられる倫理的意志を主張し損ねている。 この倫理的意志を否定すれば内面生活は消え、これを肯定すれば他の多くの主張は不要になり、少なくとも重要度を下げられる。 言い切れること以外にも、疑いなく真なものは多くあり、いずれにせよ「余分な信念」は避けがたい。 しかし現状において望ましいのは、形而上学や神学の込み入った議論を最小限にして、人文主義的ないし宗教的な真理に到達することである。 しかも、内面生活の統一性を保つために、流転の上に実体や本質や「理念」の世界を立てねばならないのかどうかさえ、はっきりしない。 西洋の最も高貴な霊性の多くは、このプラトン的観念論と結びついてきた。 これに対して、初期仏教徒たちは、インドにおけるいくらか似た教説を、宗教的成果の実現を助けるものではなく妨げるものとして見た。 さらにカントは、厳密に経験的な観点からすれば「神・自由・不死」を断定しすぎているが、同時に別の観点からすれば断定が足りない。というのも、彼の「定言命法」の自由は主として「行う自由」であって、倫理的意志の自由のように「行わない自由」ではないからである。 第一歩として確かなのは、霊の法と肢体の法との対立という心理的事実にしっかりと立つことだ。表面的にはより役に立ち心地よく見えるもののためにこれをないがしろにすれば、危うい。 しかし、そうした対立を自分のうちにまったく意識しない人もいるではないか、と反論されるかもしれない。 だが色盲の人がいるのと同じで、霊的視力は身体の視力以上に多くの弱さにさらされている。 私が描き出してきた二元論におけるより高次の意志は、私が示そうと努めたとおり、歴史的には恩寵の教説と深く結びついており、この教説が衰えるにつれて見えにくくなる傾向があった。 デカルト以降の主要な近代哲学者を順にたどり、意志の扱いにおいて彼らが最も不十分であることを示すこともできるだろう。真の二元論を回復したい者は、まず倫理的意志を第一位に高めるところから始めねばならない。 ※付録A参照。 「理性」にいかなる意味であれ優位を与えようとする試みは、謙虚さの喪失を招き、何らかの形でストア派の誤りを復活させることになる。 この点では、ストア派に対してキリスト教に与するだけでなく、一般にヨーロッパ的知性に対してアジア的なものに与する必要がある。 意志を第一に置くからといって、それを絶対者と同一視したり、ショーペンハウアーのように「物自体」と同一視したりしてはならない。そうすれば、確かな心理的観察から形而上学へと転落してしまうからである。また、知性が意志に比して二次的だと主張するからといって、ワーズワスや他のロマン派の蒙昧主義者のように、ゆえに知性は「偽り」だと結論する必要もない。 より高次の意志に第一位を与えるとは、別の言い方をすれば、人生は信仰の行為だと宣言することにほかならない。 古いキリスト教の教え、すなわち「われわれは知るために信じるのではなく、信じるために知るのでもなく、知るために信じるのではなく、信じることによって知る」という趣旨に、確かな根拠のもとで深い意味を見いだすこともできる。 知性がより高次の意志の僕であることをやめ、独立した力として立ち上がるとき、ほとんど必然的に起こるのは形而上学的な幻想への転落である。すなわち、海をコップに閉じ込めたと思い込む幻想である。 近年この幻想の最もありふれた形は、純粋な機械論者ないし決定論者のそれである。 決定論者に詩人の言葉を借りて「意志はわれらのもの、なぜかは知らぬが;意志はわれらのもの、それを汝のものとするために」と告げると、彼は要するに、意志はわれらのものではなく、その仕組みは知っている、と答える。 しかしこの点での彼の知は、知の僭称にすぎない。 彼は有限な能力で、究極的には無限である要因を把握しようとしているのだ。言い換えれば、人間性におけるより高次の要素を、より低次のものに従属させようとしている。 決定論者への適切な応答は、何らかの教義に訴えることではなく、経験に訴えることである。 ここで決定的な言葉を述べたのは、近代で最も分別ある人物と見なすに足るドクター・ジョンソンである。「あらゆる理論は意志の自由に反対し、あらゆる経験はそれを支持する」と彼は言う。 この経験事実にしっかり立てば、少なくとも一つの本質的な点で、常識への回帰の道が開かれる。 自然主義の道徳家たちが私たちを絡め取ろうとしてきた、知的・感情的な詭弁の巨大な網から、私たちはたちまち抜け出せる。 人生の謎への答えがあるとしても、それは何らかの形而上学説を立てる人のためではなく、いずれにせよ「行為する」人のためにある。 さて、倫理的意志に従って行為するとは、自然人にとっては、引き戻し、制限し、選び取ることにほかならない。 この最高に人間的な選択の行為を、合理主義的自然主義者は物理的自然に委ねようとする。 感情的自然主義者は、デカルト的にもダーウィン的にも機械化されるのを拒み、自らの生の一回性、自発的で気質的な「私」、 そしてそれが自己を発語させる権利を強調する。 こうして統制から解き放たれた自然意志は、ニーチェによって権力への意志として捉えられ、これは事実とある程度の関係があるように見える。 しかし、ルソーやホイットマンが抱いた、「この種の自由」が友愛と両立するという観念は、経験的とは到底言えない。 フランスの作家レオン・ドーデは、19世紀に「愚かな」という形容を当てはめて、ある種の悪名を得た。 もしこの世紀がその形容に値するとすれば、それはまさに、私がいま論じてきた側面のゆえである。 決定論者は人間を機械化し、真の道徳的選択を否認する方向へ傾く。 ルソーからベルクソンに至るロマン主義的自発性の党派は、この自然主義的宿命論から逃れるために、道徳的努力の代わりとして、何らかの宇宙的衝動やエラン・ヴィタルを立てようとしてきた。 ところが、過去一世紀のあいだ、この倫理的受動性の二大形態のいずれかに甘んじた多くの人々が、同時に「進歩」への固い信仰を抱いていた。 彼らはたしかに漂流していたが、その漂流の先には、たいてい平和と兄弟愛の楽園として思い描かれる「はるかな神の出来事」があると考えていた。だが漂流が問題であるなら、漂流しうる方向は一つしかなく、それは野蛮へ向かう方向である。 文明とは、意識して意志されねばならないものであり、無意識の深みから自発的に湧き上がるものではない。 しかもそれは、何よりまず個人が自分の心のうちで意志しなければならないものである。 このように文明を意志した人間は、決して多くはなかった。したがって文明は常に、そして事柄の性質上、常に危ういものとしてしか存続しえない。 リヴァロルの言葉を借りれば、野蛮は、最も磨き上げられた鋼に錆が寄り添うのと同じほど、最も洗練された文明のすぐそばにある。 文明が最終的に依存する内面的行為の諸形態が否認されたり隠蔽されたりした結果、私たちの生きるこの自然主義の時代は、18世紀の「美しき魂」から同時代のフロイト派や行動主義者に至るまで、いかがわしい道徳家にとりわけ事欠かなかった。 行動主義者が物質と物質的原因しか見ないとして非難されるべきだとすれば、バークリ的観念論者に、またそれをはるかに粗雑な形で示す種々の「ニュー・ソート」の唱道者に見られる、彼らの考える精神を立てて物質を否認する傾向もまた、重大な異議を免れない。 こうして物質を否認すると、彼らは「洞窟の内戦」という現実感を失いがちで、その結果、反対側から唯物論へと転落してしまう。 フロイト派による倫理の堕落は、別の主要な自然主義的誤謬を興味深い形で示している。 欲望の外的で機械的な抑圧が害をもたらしうるという理由から、欲望の抑圧そのものが本質的に悪いのだ、とそれとなく言い含められるのである。 必要なのは外的統制ではなく内的統制だと言うと、しかるべき名声を持つ哲学者でさえ、内的統制すなわち倫理的意志とは人格にブレーキをかけるものにすぎず、結局のところ乗り物はブレーキでは前に進めない、と答えるだろう。 しかしこの比喩はまったく誤導的であり、倫理的意志はブレーキのように外的で機械的なものではない。 外へ向かう欲望にこの意志を課す人間は、自分のうちの周縁的なものから中心的なものへ、いやまさに中心そのものへと移っていくのである。 ヒューマニストは、自然的人間の「情欲」を節度の法に従わせて鍛えるところまでしか進まない。 しかし、さらに進んで自然の自己とその衝動に対して完全に「死ぬ」なら、 偉大な宗教教師たちの言葉を信じるなら、その後に来るのは単なる空虚ではなく、理解を超えた平安である。 宗教的な統制もヒューマニズム的な統制も日常の自己に課さない人間は、ふつう自分がただの唯物論者だとは公言しない。 もしそう公言してくれるなら、倫理上の問題は比較的単純であろう。 しかし自己中心的な個人主義者は、自分の放縦にもっともらしい名をつけたがる。 プラトンが言うように、彼は不遜を「良い育ち」と呼び、無政府状態を「自由」と呼び、浪費を「壮麗」と呼び、しまいには自分の衝動を神格化するところまで行きかねない。 ウェルギリウスが問う「各人の神とは、ただその人自身の荒々しい欲望にすぎないのか」という問いに、肯定で答えねばならぬ時がある。 また、正直な神とは人間の最も高貴な作品だ、と言う嘲り屋の言い分にも、一面では同意せざるをえない。 戦争中、カイザーと多くのドイツ人が崇拝していた神が、彼ら自身の権力意志を宗教領域へ投影したものにすぎなかったことは、私たちにも容易に分かる。 しかし私たちは、民主主義の擁護者の側にこれと同等の帝国主義的誤りがあることは、なかなか認めたがらない。 けれども、その同等物を指摘するのは難しくない。たとえば、人道主義的幻想家であるヴィクトル・ユーゴーにおいてである。 モンクトン・ミルンズは、パリでユーゴーを訪ねたときのことをこう語っている。「大きな部屋に通されると、女も男も壁際の椅子に並んで座り、ユーゴーは片端で玉座に据わっていた。 誰も口をきかなかった。 やがてユーゴーが荘重に声を上げて言った。『Quant ^ moi, je crois en Dieu.(私としては、神を信じる)』 沈黙が続いた。 すると一人の女が、深い黙想のうちにあるかのように応じた。『Chose sublime! un Dieu qui croit en Dieu.(崇高なこと!神を信じる神だわ)』」 だが、ユーゴーの信じる神がどれほど彼の日常の自己を映し出しているかに気づくと、この崇高さはいくらか目減りする。彼はこうして、一種の宇宙的スケールでこの自己を礼拝できるようになるからである。 ※この逸話はヘンリー・アダムズ『教育』143頁から採った。 人はまた、根底では支配的欲望における日常の自己を実体化したものにすぎないものを、しばしば「進歩」だの「正義」だのと呼ぶ。 こうしてサミュエル・ゴンパース氏は、1919年のニューヨーク州議会が「進歩的、あるいは前向きな法案」を一つも可決しなかったと不平を言った。 これが何を意味するかは、誰にでも分かる。 全創造がそこへ向かって動いていくという「はるかな神の出来事」とは、ゴンパース氏にとっては、労働者階級の支配にほかならない。しかも、 その労働者階級自体が、ゴンパース氏または彼と同類の者に支配される、という含みである。 政治家たちの卑怯さのせいで、この多かれ少なかれ神々しい出来事は、ときに、こちらが望む以上に近いものに見えてしまった。 個人的利害や階級的利害に「正義」という語を授けようとする企ては、例を挙げるまでもないほど見慣れている。 私たちがここで扱っているのは、最も古く、しかもなお最も成功している偽装の形態である。 戦争中、フランス人は、ドイツ人が根底では自分たちの無法と略奪欲にすぎないものに立派な名を与える、という趣旨のタキトゥスの一節を引くことを怠らなかった。 しかしこの性向は、何もドイツ人に特有ではない。 同じタキトゥスは、蛮族ブリトン人がローマの征服者について「彼らは荒廃を作り出し、それを平和と呼ぶ」と不平を言ったと語っている。 この人間的傾向は普遍的だが、個人主義的解放の時代にはとりわけ顕著になる。 とりわけそういう時代には、言葉は賢者にとっての数え札であり愚者にとっての硬貨だ、そして耳ざわりの良い語句を聞いたからといって、それが必ずしも耳ざわりの良い事物と一致すると想像してはならない、というホッブズの言葉を自らに思い起こす必要がある。 ここで私たちは、そのような時代における知性の真の役割へと道筋をつけられる。 ルソーのように個人主義者であろうとしながら、同時に知性を貶めるのは、狂気への道に踏み入ることである。 実際、過去との断絶が完全であればあるほど、識別の鋭さもそれに比例して必要となる。 そうでなければ、人は、実体のない夢想にすぎないものを「理想」として掲げ、美しい言葉で飾り立てる危険を冒すことになる。つまり、想像力が虚空へ向かってただ膨張しただけのものを。 想像力はたしかに最高位に置かれねばならないが、それは事実によって鍛えられた想像力でなければならない。 想像力がなければ、事実は統一されず、無力で孤立したままにとどまる。 しかし知性もまた必要である。ここでいう知性とは、分析し識別し、原因と結果をたどる人間の力のことであり、この力だけが、想像力が事実のあいだに打ち立てた統一が現実のものか、それとも「キメラの領域」にしか存在しないのかを判定しうる。 真の科学者は、一方では形而上学の理論家ではなく、他方では単なる事実漁りでもない。 彼の卓越は、長年注意を注いできたある事実領域に関して、真のヴィジョンを得る才能によって測られる。 直観の閃きとして最初に訪れたものが何であれ、彼は手段の限りを尽くしてそれを吟味し、実験的に検証することを怠らない。そしてこの段階では、彼は総合的ではなく分析的である。 彼の成功は、知覚する部分、構想する部分、識別する部分という自己の諸部分のあいだに、正しい関係を打ち立てたことに由来する。 さて真のヒューマニストも、やや似た仕方で自分の事実に向き合う。ただし、彼が注意を注ぐ事実はまったく別種のものである。 彼の想像力は法によって鍛えられているが、この法は「物の法則」ではない。 彼も原因と結果をたどるが、その因果連鎖は自然界の物理的現象に見られるものではない。 ロウエルの言葉を借りれば、私たちのうちには「ベンサム化」されることを拒む何かがあるので、 ロマン主義的観念論者は因果哲学と、それを確立する鋭い分析に疑いの目を向けるのだが、因果哲学以外のものは十中八九、純然たる非現実へと落ち込む。というのも、現実とは実際上、法の現実であり、法とはまた、確かな観察の事実として、ある現象群のあいだに時間的あるいは空間的に恒常的な結びつきがあるということ、しかもその結びつきが個人の欲望や意見とは無関係に成り立っている、ということを意味するからである。 もし、人がそれに背けば、指を火に突っ込んだ者が必ず相応の結果を被るのと同じように、一定の帰結に身をさらすような客観的な人間の法がないのなら、その人間の法を探し求める価値はない。 しかしヒューム型の懐疑論者なら、因果という観念そのものが客観ではなく主観であり、人間の「作りごとをでっち上げる性癖」から生じるのだ、と断言するだろう。 だが懐疑を極限まで押し進め、人生をただ「同じ形が繰り返し戻ってくる夢」としか見ないとしても、その戻ってくる形相が互いに一定の恒常的関係を保っていることはやはり真実である。したがってそれは、結局ただ一つ重要な問題, すなわち幸福か不幸かという問題の観点から研究の対象になりうる。 抽象的で形而上学的な意味での因果については、批判的ヒューマニストは自分の無知を率直に認める用意がある。ちょうど真の科学者が、自分が追跡に忙しい現象的関係の背後にある究極の本質を把握できないことを認めるのと同じである。 以上の分析が正しいなら、近ごろ西洋が主たる努力を注いできたあの種の物質的進歩は、道徳的進歩を促すどころか、むしろそれを妨げる方向に働きがちだ、ということになる。 この種の進歩は、道徳法則の事実とはまったく異なる種類の事実へと想像力を集中させたことから生まれた。 鋭い分析的な識別力は、 現実の知覚に奉仕することで(人間が接近しうる限りでの)現実性を与えるのだが、それがますます科学者、あるいは科学的発見を巨大な物質的能率の機械へと組織してきた功利主義者の、ほとんど専有物になってしまった。 その一方で、固有に人間的な領域では、想像力は多かれ少なかれ野放しにされてきた。 それは、冒頭で述べたように、一つの統一を打ち立てたが、その統一は現実性の観点から十分に試されてはいない。 ヒューマニタリアンが人々のあいだに実現しようと望む統一は、ほとんど全面的に「奉仕」という観念にかかっている、と私は示そうとしてきた。 この奉仕の観念を分析してみると、人々は合理主義的で機械的な手段によって、あるいは感情的な手段によって、結び合わされることになる。 いずれの場合も、ヒューマニタリアンは、人は自分たちの通常の自己の水準で、のびやかに出会い合えるのだと前提している。 しかし、もしこの結合の観念が幻想だと判明し、人が真に一つになれるのは自分たちの通常の自己の上に据えられた何ものかへの謙虚な服従においてのみだ、ということになるなら、ここ数世代にわたって建てられつつある「人類の大伽藍」は近代版のバベルの塔にほかならない。だから、そこが言葉の混乱に打たれているとしても不思議ではない。 伝統的な標準が次第に弱まるにつれて、ヒューマニタリアンがそれに代わる適切なものをいかに提供できていないかが、いよいよ明らかになってきた。 西洋全体が行き詰まりに陥っているように見える。 単なる合理主義者と単なる感情主義者は、ほとんど同程度に破綻している。 おそらく私たちの唯一の望みは、内面生活の真理へと立ち返ることなのかもしれない。 私たち自身がその立ち返りの必要を見て取れないのだとすれば、それはおそらく、リウィウスによれば、苦しんでいる悪を耐えることも、その悪の治療法を耐えることもできなかったという、あの退廃したローマ人の段階に私たちが達してしまったからである。 内面生活の真理が伝統的な形で失われたことは、私が示そうとしてきたように、自由という観念に深い変質をもたらした。 自由は、より高次の意志への服従や調整, すなわち集中の過程としてではなく、ますます拡張的なものとして考えられるようになった。 ここまでの私の議論の全体は、近代主義者が取り落としてしまい、その結果として徹底した完全な近代人になってしまった自由のうちの求心的要素を、批判的な形で回復することを私たちが目指すべきだ、という点にある。 いずれにせよ、自由の定義に欠陥があることは重大である。というのも、その欠陥は平和と正義の定義にも反映されるからであり、平和と正義について欠陥ある観念しか持たない社会の見通しが明るいとは、とても言えない。 私が示そうとしてきたように、自由をめぐる混乱のかなりの部分は、神の恩寵の代わりを自然の恩寵に求めてきた汎神論的な夢想家たちによって助長されてきた。その結果、自由を倫理的な働きとして捉える人間と、ルソーのように、信じがたいほどの怠惰の上に不屈の自由精神を打ち立てようとする人間との区別が、曖昧にされてしまったのである。 純粋な伝統主義者, たとえばカトリックは、この種の特定の混乱を避けるだけでなく、一般に、個人主義者に課される自由の定義づけという仕事から解放されている。 教会が彼にその定義を与えるからである。すなわち「自由とは神の意志への服従である」と告げられるだろうし、教会は一般原理を与えるだけでなく、その適用に際して生じる無数の「個別事例」に関しても導きを与える。 教皇は(1870年以来)少なくとも宗教と道徳に関しては無謬であるのだから、神の意志への服従は、もちろん理論上は別としても、実際上は教皇への服従と一致する傾向をもつ。 健全な個人主義者もまた標準を持たねばならないが、それをこのやり方で得られないことは明らかである。つまり外的権威にもたれかかって得るのではなく、私が述べてきたような知性と想像力の協働によって得るのである。 こうして確保した標準を、彼は倫理的意志の奉仕へと押し出していく。 想像力・知性・意志が, たとえばパスカルに見られるように, 互いに離反してしまうのではなく協働するこの種のプログラムは、認めねばならないが、描き出すのは易しくとも実行するのは難しい。 とはいえ、私たちの近代的実験が安全に遂行されうるのは、ほかの条件の下ではありそうにない。 この実験が破綻の兆しを見せるとすれば、その説明は、これまでのところ伝統的統制に十分見合う等価物を達成できていないという点にあるにちがいない。 真の標準を打ち立て、それを基準に選別する代わりに、近代を自称する人間は選別を「自然」に委ね、倫理的意志の働きの代わりに、拡散した無選別の同情を据えようとしてきた。 同情に担えぬ重荷を負わせると同時に、真に人間的な序列と価値の尺度を平等の原理に犠牲にしてしまうこの傾向は、民主主義運動のなかでとりわけ顕著であり、おそらく私たちのアメリカ民主政ほどそれが目立つ場所はない。 したがって次に、標準との関係における民主主義を論じる必要がある。 この論考の過程で私は、ソクラテス的対話法の助けを借りて、真のリベラルと偽のリベラルとの私の区別を、さらにいっそう明らかにしようと思う。 第VII章 民主主義と標準 どのような数量的試験で測っても、アメリカの達成は目を見張るものがある。 私たちは世界の自動車の九〇パーセントを保有し、石油の七五パーセントを支配している。鋼鉄は世界の六〇パーセント、銅は七〇パーセント、電話とタイプライターは八〇パーセントを生産している。 こうした, そして同種の統計的証拠が示す私たちの物質的優越は、ネメシスを恐れるギリシア人なら不安を覚えたであろうに、多くのアメリカ人にはほとんど抒情的ともいえる自己満足を抱かせているように見える。 彼らは現在の達成を数量で見積もるだけではない。未来への予測においては、可能ならそれ以上に数量的である。 いま自動車が一五〇〇万台あるのだから、フォード氏とともに、 ヘンリー・フォードの言うように、これを三〇〇〇万台へと増やす以上の高い野心はありえないのだ、と彼らは感じている。 現在, 年間五〇〇〇万トンの鋼鉄生産も、シュワブ氏によれば、二〇年後に見込まれる生産量に比べれば取るに足らぬものにすぎない。 要するに、すでに前例のないほど物に浸りきった時代が、さらに物質的な関心にとらわれ、さらに機械に隷属した時代への道を準備するにすぎないのである。 これが進歩だ、と私たちは言われる。 人生を釣り合いよく見る人には、むしろそれは爛熟した商業的傲慢に満ちているように見えるかもしれない。 アメリカに蔓延するこの数量的な人生観の理由は、決して純粋に政治的なものにとどまらない。 この見方が大きく生まれたのは、科学的発見と、新大陸の開拓とが結びついたことによるところが大きい。 科学の助けがあれば、楽観家のトーマス・ジェファソンでさえ千年かかるかもしれないと思ったことを、百年で成し遂げることが可能だった。 中国人について私たちには分かりにくい点の多くも、「身動きの余地のなさ」という言葉に要約できるのだ、と言われてきた。 これに対してこの国の私たちは、尽きることのない身動きの余地を持っていたという事実から、独特の心的なねじれを受け取ってきた。 私たち自身にとっても他者にとっても大きな危険は、フロンティアがもはや存在しなくなった後も、私たちがフロンティア心理を持ち続けてしまうことにある。 フロンティア心理とは拡張的であり、そして拡張性は、少なくとも政治的な現れにおいては、私が示そうとしてきたとおり、つねに帝国主義的だからである。 アメリカの達成は量的には目を見張るが、質的にはそれほど満足できるものではない。 ある外国の批評家はこう問う、最も人気のある雄弁家がW・J・ブライアンで、贔屓の俳優がチャーリー・チャップリンで、最も広く読まれる小説家がハロルド・ベル・ライトで、最も名の知れた伝道師がビリー・サンデーで、代表的ジャーナリストがウィリアム・ランドルフ・ハーストである国を、人はどう考えるべきなのか。 多少の誇張を大目に見たうえでも、そのような国について結局こう考えざるをえない、すなわち標準が欠けているのだ、と。 さらに言えば、アメリカは標準の欠如に苦しむだけでなく、少なからぬ場合に標準の混乱、あるいは転倒にも苦しんでいる。 標準の転倒の例としては、一日二千個の煉瓦を積める煉瓦工が、組合規則によって五百個しか積めない状態に追い込まれることを挙げればよい。 また標準の混乱とは、ヘンリー・フォードの組織者としての能力や機械の名人ぶりに感嘆するあまり、貨幣についての彼の見解を真面目に聴き入れてしまう場合、あるいは単にエジソンがある種の発明的天才を示したというだけで、教育についての権威として彼を迎え入れてしまう場合に見られる。 法律上の助けが必要になったフランスの肉屋が、何人もの弁護士を見比べた末に、いちばん太った男を選んだという話を思い出させる。 標準の問題は民主主義の問題と同一ではないが、多くの点でそれに触れており、したがって一国だけの問題ではない。 実際ヨーロッパ人は、もはや標準に導かれなくなった人々の粗野さや、無秩序な印象主義が、アメリカに特有のものだと思い込みたがる。 「『サタデー・レビュー』は言う、「アメリカとは、均衡を欠いた精神、地方根性の政策、そしてヒステリックなユートピアの国である」と。 しかし標準への敬意は、アメリカ以外の多くの国々でも、ある種の民主主義によって弱められてきた。 その結果としての卑俗さと些末さは、これらの国々すべてに多少なりとも見て取れる。たとえば、ブライス卿を信じるなら、ニュージーランドでもそうである。 もしアメリカが際立って品格に欠けるのだとすれば、それは過去からの解放があまりにも徹底しているからである。 平凡さがもたらす遅滞についてのゲーテの警句はよく知られている(Was uns alle bandigi, das Gemeine)。 だが平凡さが生まれる理由についての彼の説明は、あまり知られていない。「享楽は人を平凡にする」と彼は言う。 (Geniessen macht gemein.) すべての人は幸福を望むのだから、幸福を労働の観点で考えるのか、それとも享楽の観点で考えるのかは、明らかに小さくない問題である。 私が定義しようとしてきた完全に倫理的な意味で彼が働くなら、彼は何らかの標準に照らして、気質に任せた自己を引き戻し、鍛錬している。 つまり彼の気質的自己は、ほとんど文字どおりの意味で、回心の過程を経ているのである。 実に人生全体は、「気晴らし」と「回心」という二語に要約できるかもしれない。 私たちをその追求へと捧げる独立宣言がうたう幸福を、私たちの大半はいずれの道に沿って求めているのだろうか。 この文句の作者トーマス・ジェファソンは自分についてこう述べている。「私はエピクロス主義者だ。」 少なくともこの点に関しては、若者のうち増えつつある数が、立派なジェファソン流の人間になっていることは否定できない。 彼らの人生哲学を最もはっきり映す言葉は、おそらく「グッド・タイム」だろう。 彼らの多くは、この言葉が天空そのものの面に、燃え立つ大文字で書かれているのを見ているのだ、とさえ思われる。 『パンチ』が言ったように、アメリカ合衆国は国ではなく、ピクニックである。 標準に照らした回心という要素が人生から取り除かれると、残るのは無責任なスリル追求だけである。ここで近代運動の功利主義的・産業的側面が姿を現す。 商業主義が、あらゆるもの(無責任なスリル追求さえも)に、その脂ぎった大きな手をのしかけているので、民主主義が理論上何であれ、実際上は「標準化され商業化されたメロドラマ」と定義したくなることがある。 『Works』(フォード版)第10巻、143頁。 この定義は、映画産業以外の国民生活の多くの側面にも当てはまることが分かるだろう。 永続的な人間経験の型に照らすことなく、その瞬間の印象に身を浸し飽和させる傾向は、新聞や雑誌において、いっそう顕著である。 ある古代ギリシアの都市の住民について、彼らは愚者ではないのに、愚者がするであろうことをそのまましていた、と言われた。 私たちの売店をひと目見るだけで、私たちは愚者ではないかもしれないが、愚者が読むであろうものを読んでいるのだ、と思わずにいられない。 とりわけ日刊紙は、最も幼稚な扇情主義に明け暮れている。 マシュー・アーノルドは1883年にボストンからこう書いた。「アメリカ人はすぐれた国民だが、彼らの新聞は私にはひどい徴候に見える。」 そのころは今ほどひどい徴候ではなかった。というのも、あれは大見出し(スケアヘッド)や漫画付録の時代以前だったからである。 だらりと崩れた怠惰な状態で日曜新聞を読むアメリカ人ほど、質に対する量の勝利を象徴する完全な像を、世界はまだ見たことがないかもしれない。 私たちの些末さに奉仕するために、森まるごとが日々パルプへと挽き砕かれている。 実のところ、ある気分のときには、数世代にわたって西欧を席巻してきたこの運動の総決算が、標準化された凡庸の巨大な塊にすぎないのではないか、そしてとりわけこの国では、民主主義の名のもとに、世界がまだ見たことのないほど取るに足らぬ種類の人間を生み出してしまう危険があるのではないか、と問いたくなる。 もちろん、民主化の流れの結果として私たちが卓越性を失うとしても、埋め合わせとして、少なくともジェファソン的な意味では、多くの平均的な人々が「幸福」になるのだ、と主張することもできる。 しかし歴史に照らして判断するなら、標準の衰退と、それを体現する指導者の消滅ののちに訪れるのは、平等主義の楽園などではなく、より劣った類いの指導力である。 この国のある種の展開は、バイロンが民主主義を「ならず者の貴族政」と定義したことを、すでに私たちに思い起こさせている。 民主主義のために世界を安全にするのだと私たちが最も声高に叫んでいたまさにそのとき、ニューヨーク市民は正直者の市長を再選することを拒み、代わりにタマニーの手先を据え、そののちほどなく「犯罪の波」が起こり、すると彼らは増えた多数票でそのタマニーの手先を再び選び直したのである。 産業革命は、どこでも倫理的標準に対してますます無頓着に見える巨大な都市大衆を生み出す傾向があった。 アメリカの都市の場合、一定の道徳的結束を確保するという問題は、人種的系統も文化的背景も大きく異なる多数の異国出身者が存在することで、さらに複雑になっている。* そのうえ私たちの人口は半分ほどが都市住民であるだけでなく、多くの国々のような農民層や自作農民層が、あるとも言いがたい。 実際に田園に住むアメリカ人も、心理の上ではますます都市化している。 この状況全体があまりに異常で、純粋に生物学的な観点から見ても疑念を抱かせるほどである。 * たとえばニューヨーク市の住民の41パーセントは実際に外国生まれであり、父母の一方または双方が外国生まれの者まで加えると、人口のうち多かれ少なかれ外国系の要素は80パーセントに達する。 「破壊へ至る道を、無敵の楽観主義とともに陽気に疾走していくアメリカ国民を私が眺めていると」と、生物学者タイプの観察者であるウィリアム・マクドゥーガル教授は言う、「私は人類史上最大の悲劇を目撃しているかのように思える。」 たしかに、私たちの人口に入り込んでいるきわめて異質な諸要素は、オーケストラのさまざまな楽器のように、いっそう豊かな調和を生み出すのだと保証されている。だがそれは、オーケストラと同じく、適切に指揮されている場合に限る、と答えてよい。 そうでなければ、前例のない不協和音に終わりかねない。 この指導の問題は、第一に生物学の問題ではなく、道徳の問題である。 指導者の質は、健全な標準に忠実で、その模範の正しさそのものによって他者の正しい行いを鼓舞する人から、狡知の法則と暴力の法則以上のものを何ひとつ掲げず、私が定義しようとしてきた意味で帝国主義的な人に至るまで、さまざまでありうる。 民主主義が、自然権の理論に立脚するある種の一般意志を根拠として、質的・選別的原理を排しようとする試みにすぎないのだとすれば、それは深淵の眩暈の一形態にしかならないかもしれない。 ルソーがフランス革命に与えた影響を論じる中で示そうとしたように、その帰結は実際には平等ではなく、倒錯した一種の貴族政となる。 選択肢は、適切に導かれた民主政と、数の多数派への訴えのうちに標準と指導の等価物を見いだそうとする民主政、つまり一種の量的印象主義にふける民主政との間にあるのではなく、適切に導かれた民主政と、退廃した帝国主義との間にあるのかもしれない。 ゆえに民主主義そのもののためにこそ、「人の権利の教義」に代えて「適任者の教義」を据えようと努めるべきである。 伝統的標準と、人間の権利と称されるものに基づく平等主義的民主政との対立は、私たち自身の政治史でも重要な役割を果たしてきたが、実際には二つのタイプの指導の対立を意味していた。 古い意味での「質」は、1829年、アンドルー・ジャクソンの飢えた群衆がワシントンになだれ込んだとき、最初の決定的敗北を喫した。 この型の民主政に潜む帝国主義は、ジャクソン流の格言「勝者には戦利品を」に現れている。 民主政の理論において、ジャクソンはもちろんトーマス・ジェファソンと多くの共通点をもっていた。 実際、私たちの制度の起源に立ち返るなら、アメリカは当初から、自由観の相違、ひいては人間性の相違に由来する、二つの異なる統治観を代表していたことがわかる。 独立宣言に示された見解は、人間にはある抽象的権利があるという前提に立つ。したがってそれは、フランス革命の「理想主義」と重要な接点をもつ。 これに対し、合衆国憲法に霊感を与えた見解は、バークのそれと多くの共通点をもつ。 この二つの政治哲学のうち、前者がジェファソンと結びつけられるべきだとすれば、後者の最も卓越した代表はワシントンである。 ジェファソン流のリベラルは、自然人の善性を信じており、そのため個人においても国家においても、拒止する力(抑止力)が必要だという点を見落としがちである。 ワシントンを典型として私が想定しているリベラルは、自然人に対する態度がそれほど拡張的ではない。 人間には日常的自己に抑制的に働く高次の自己があるように、国家にもまた、制度に適切に体現された高次の、あるいは恒常的な自己があり、ある特定の瞬間における民意として表出する日常的自己に、限界を設けるべきだ、と彼らは考える。 私がここで立てている対比は、言うまでもなく、立憲民主政と直接民主政との対比である。 民意は優位であるべきだが、ただし衝動的で一過性にすぎないものを浄化した後にのみそうあるべきだ、とする人々と、この意志は即時に、しかも無制限に優位であるべきだ、とする人々とのあいだには、第一原理のレベルで対立がある。 したがってアメリカの民主主義の試みは、当初から曖昧さを帯びており、ワシントン流の自由とジェファソン流の自由とのあいだにある抑えがたい対立が、決着に至るまで戦われないかぎり、その曖昧さは残りつづけるだろう。 ワシントン型のリベラルは、自由のうちにある、いわば統一派的側面を常に強く気にかけてきた。 この中心的関心は、ウェブスターの言葉「自由と連邦(統一)は一つであり、切り離せない」に要約されている。 これに対してジェファソン流の自由は、抽象的権利の主張に立つあらゆる自由と同じく、倫理的結束に反する方向へ働く。 ジェファソン自身、人権だけでなく州権も唱えた。* *たとえば彼は、いわゆるケンタッキー決議(1799年11月)を起草した。 のちに州権の教義はカルフーンによって論理の厳密さをもって発展させられ、他方で人権の教義は奴隷制廃止論者たちによって同じく妥協なく貫かれた。 その結果、二つの過激派の陣営、すなわち強硬派と扇動的な連中とが対立し、統一の問題は倫理の線に沿って解決されるどころか、武力の裁断に委ねられざるをえなかった。 統一派の自由とジェファソン流の自由との対立がもつ全含意をつかんだ者は、アメリカ史を解く鍵を手にしたことになる。 もっとも、この二つの観念の対立は、個々の人物においてつねに明確に割り切れるわけではない。 私がジェファソンについて述べてきたことと矛盾する要素は、ジェファソン自身のうちにも多分にある。 しかし批評の主要な仕事は、周縁での重なりがあるにもかかわらず、中心において異なるものを区別することにある。 たとえば、ジェファソンと、ワシントン自身に次ぐ最も卓越した統一派であるジョン・マーシャルとを、同じ敬慕のうちに結びつけるのは、建国の父祖への敬虔さの証しというより、批評的識別の欠如の証拠である。 ジェファソンとマーシャルは、自分たちが両立しえないものを代表していることを十分に知っていたし、私たちもまたそれを知ることが重要である。 「マーシャルは」とジョン・クィンシー・アダムズは日記に書いている、「狡猾でドン・キホーテ的なジェファソンの民主政が絶えず解体へ向かわせる傾向をもっていた連邦を、固く結び固めた」。 *同様の対立は、もちろんジェファソンとアレクサンダー・ハミルトンのあいだにも存在した。F・S・オリヴァーによる『ハミルトン伝』は、この対立の性質を見抜く洞察の明晰さゆえに推奨される。 統一の問題に心を奪われていたがゆえに、リンカンはワシントンとマーシャルの真の後継者となった。 リンカン自身がこの点について最も明確に述べているにもかかわらず、彼を偉大な統一派ではなく偉大な解放者に仕立て上げるのは、すでにワシントン神話を作り上げたのと同様に、リンカン神話を作り出しているにすぎない。* 善き民主主義者はただリンカンのようでありさえすればよい、と私たちは時に言われる。 しかしリンカンのようであるためには、リンカンがどのような人物であったかを知らねばならない。 それは批評家の課題であるだけでなく、リンカン神話の存在を考えるなら、一般に想像されているよりいっそう困難な課題である。 リンカンには強い感傷の筋があったのだから、リンカンを感傷化するのはとりわけ容易である。 それにもかかわらず、リンカンの民主政とジェファソンのそれとのあいだ、あるいはリンカンのそれとウォルト・ホイットマンのそれとのあいだに周縁での重なりがあるとしても、中心的差異を主張すべきである。 たとえば、宗教的謙遜とロマン主義的自我主張とを隔てる溝を意識したいなら、第二次就任演説を『わたし自身の歌』と併せて読めばよい。 また周縁での重なりがあるとしても、リンカンの民主政をルーズベルトのそれと混同しないよう注意すべきである。 ルーズベルトの中心に私たちが感じるのは、帝国主義的な人格のダイナミックな奔流である。 これに対しリンカンの中心に私たちが感じるのは、司法的なコントロールの要素であり、そのコントロールと密接に結びついた、自由な制度を維持するうえでの裁判所の役割についての深い構想である。 真のリンカンを研究した者は、彼が司法判断のリコールを唱える姿を、容易には想像できない。 *この神話の形成にとりわけ影響力をもった書物は、「パーソン」ウィームズによる『ワシントン伝』(1800年)であった。 *リンカンは、ジェファソンを貶した発言をしたという非難に対して実際に弁明している。『著作集』(ニコレイ/ヘイ編)第6巻60頁を見よ。 ジェファソン流のリベラルは、概して、もう一つの伝統のリベラルよりも、兄弟愛をこれみよがしに示す。 しかし人間的な温かさや愛想のよさでは、たいてい統一派に劣る。 ワシントン、マーシャル、リンカンは、最良のときには、実務的な賢明さと、中心にある温厚さと利他心とを兼ね備えていた。 しかし他方でジェファソンは、おそらく私たちの最も完成した政治家ではあったが、差し迫った具体的危機への対処において、ことさら抜け目のなさを示したとは言いがたい。 さらに、彼の『アナス』を読み、その執筆事情を思い合わせるとき、彼の人格の中心にあったのは温厚さや無私ではなく、怨恨心だったと結論せずにはいられない。 私が統一派の指導者たちに与えた賛辞に値する政治家は、歴史の学徒なら誰でも知るとおり、きわめて稀である。 とりわけ何よりもこれらの人々のおかげで私たちが受け取った立憲的自由の型は、いかなる人民にもかつて与えられたことのある最大級の恩恵の一つである。 それにもかかわらず、私たちはそれを失いかねない危険にさらされている。 憲法修正第十八条は、私たちが自国憲法の根底にある諸原理のみならず、単なる立法措置に対置される「憲法」である以上いかなる憲法にも必ず存するはずの原理を把握する力を失いかけていることの、際立った証拠である。 現在私たちが立憲的自由から離れて漂流していることは、伝統的な標準が次第に崩れ去っていくこと、そして、とりわけ人間固有の問題を扱う際に感傷主義か功利主義のいずれかに傾いてきた自然主義的哲学が台頭したことを参照してはじめて理解できる。 とりわけ私たち自身の国民的気質における重要な変化は、結局のところ、プロテスタント・キリスト教、なかでもピューリタン的形態が、人道主義へと道を譲ってきたという事実に由来する。 この点を強調するのは意味がある。というのも、禁酒法やそれに類する「改革」を支持してきた人々が、ピューリタンだとして攻撃されてきたからである。 しかし本来のピューリタニズムは、内面生活の宗教であった。 私たちの統一派の指導者たちであるワシントン、マーシャル、リンカンは、狭い意味での正統派ではなかったにせよ、なお伝統的な意味で宗教的であった。 彼らの見るところ善と悪の闘いは、なお第一義的には社会の中ではなく、個人の中にあった。 より高い、あるいは神的な意志への彼らの自覚的な依存は、自由についての彼らの観念に反映せずにはいなかった。 これに対しジェファソンは、自らの自由を神ではなく「自然」と結びつけた。周知のとおり彼はアメリカ先住民の自由を称賛し、政府の役割を極限まで縮小しようとしたが、バークによれば外的統制を緩めるほど厳密にそれと比例して増大されねばならない内的統制を強めようとはしなかった。悪が実際に現れると、ジェファソン流の人物は内的統制の原理に訴えることができず、この種の統制に代わる唯一の選択肢が力であることを再び認めようともしないため、一見逆説的に見える自己原理の否定へと導かれて、立法に頼る。いずれにせよ、自己統制の代わりに社会的統制を据えようとする私たちの今日の試みは、ピューリタン的というよりジェファソン的であることは明らかである。私たちがピューリタンの真の子である限り、私たち自身の見方とドイツ人のそれとの対照を、スチュアート・P・シャーマン教授が打ち立てたとおりに受け入れてよい。 *American and Allied Ideals(War Information Series, No. 12)9頁。 「ドイツ人の理想は外的統制と『内的自由』である。政府が彼の行状を見張り、彼は自分の自由を見張る。 アメリカ人の理想は外的自由と内的統制である。個人が自分の行状を見張り、政府が彼の自由を見張る。 したがってドイツでは Verboten(禁止)は政府によって宣告され、警察によって執行される。 アメリカでは Verboten(禁止)は世論によって宣告され、個人の良心によって執行される。 この観点からすれば、ピューリタニズムという私たちの国民的な集中の原理が、民主主義という私たちの国民的な拡張の原理に対する不可欠の歯止めであることが明らかになるはずだ。 私がピューリタニズムという語を使うのは、ドイツ人およびドイツ系アメリカ人の批評家が与えた意味、すなわち『自然的衝動の拡張に対する内的歯止め』という意味においてである。」 シャーマン教授のこの対照は、過去には真実であり、今なおある程度は真実である。少なくとも戦時の宣伝には足りる程度には。 だが、私たちの現在の主たる流れはどうか。 それは明らかに、シャーマン教授がピューリタンに帰した見方から離れ、 彼がドイツ人に帰した見方へと向かっている。 「自然的衝動の拡張に対する内的歯止め」こそ、まさにジェファソン的哲学に欠けている要素なのである。 そのためジェファソン流の人間は、悪の問題を、生き生きと内面生活の次元で扱うのではなく、機械的に扱うようになった。 近ごろは、最も正統な意味でピューリタンの子孫たちの間でさえ、ピューリタン的良心に奇妙なことが起きている。 たとえばヘンリー・アダムズは、聖母への賛歌の中に発電機への賛歌を挿し入れる。この発想全体は中世キリスト教とはほとんど関係がなく、ピューリタニズムとはまったく無縁である。だがそれは、十九世紀が、正義から解放された同情を、尺度の法則を顧みずに追い求められる力への適切な矯正として見なす傾向と、きわめて密接に結びついている。 彼はイエズス会士のように、法から律法主義へと堕してしまった。 ドイツに Verboten(禁止)の標識が一つあるのに対し、この国ではすでに十二もある、と見積もられている。ただし私たちは禁止標識を立てたあと、それを守らないことで仕返しをするのだ。 こうして禁酒法は政府によって宣告され、個人の良心によって大幅に拒まれ、警察によって(きわめて不完全に)執行される。 私たちが次々と制定している法律の多さは、私たちがますます無法になっていることを示す多くの証拠の一つである。 もちろん、ピューリタンの見方と人道主義的な律法主義者の見方との間には、周辺的な重なり合いもある。 ピューリタンは当初から口出し好きに傾きがちだった。ジュネーヴにおけるカルヴァンの活動を研究した者なら誰でも、それを証言するだろう。 しかしそれでもなお、禁酒主義者の干渉を私たちが受け入れるよう誘導された決定的論拠が、ピューリタン的というより功利主義的だったのではないか、と問いうる。 「近代産業と自動車が入ってきた以上、酒は消えねばならなかったのだ」と、ヘンリー・フォードは言う。 真相はおそらく、私たちが効率というモレクの偶像のためなら、連邦憲法を含めて、どんな犠牲をも払う覚悟ができているということなのだろう。 *1909〜13年に国および州の立法府が制定した法令は62,014本と見積もられており、その中には指ぬきボウルやホテルのシーツの長さを規制するものさえあって、最悪期の古代都市国家が好んだ微細な規定を思わせる。フュステル・ド・クーランジュ『古代都市』266頁参照(国家は些末なことにまで専制を及ぼし、ロクレスでは男の純酒を禁じ、ローマやミレトスやマルセイユでは女に禁じ、服装を法で固定し、スパルタは女の髪形を定め、アテネは旅に三着超の衣服携帯を禁じ、ロードスは髭剃りを禁じ、ビュザンティオンは自宅の剃刀所持に罰金を科し、逆にスパルタは口髭を剃ることを求めた、等)。 近ごろピューリタンに反対する運動を担っている人々は、自分たちを「知識人」と見なしたがる。 だが、知性の第一の機能が正確な区別を行うことだとすれば、彼らがその称号に値しないのは明らかである。 というのも、この主題全体を扱うにあたって、彼らは二重の混同に陥っているからだ。 すなわち、ピューリタニズムを人間性における統制の原理の擁護と同一視する限りにおいて、彼らはその名の下に、東西におけるあらゆる真の代表者とともに、古来の叡智そのものを攻撃しているにすぎない。 他方で、いま私たちの精神的活力を蝕んでいる人道主義的律法主義者に「ピューリタン」の名を与えるのは、過大で不相応な賛辞を贈ることにほかならない。 ピューリタン攻撃の一例として、セオドア・ドライサー氏のそれを取り上げよう。彼はアメリカ合衆国について、次のようなグロテスクな断言にまで至っている。「十戒を機能させようとする、これほど特異で、これほど一見獰猛な決意をもつ国はない。」 私たちは年におよそ一万人という割合で互いを殺しており(死刑の有罪判決はごくわずかだが)、概して文明国と見なされているどの国よりも犯罪的傾向を示している。 1885年にはアメリカ合衆国で殺人が1,808件、処刑が108件だったのに対し、1910年には殺人が8,975件、処刑が104件であった。 *「1918年、シカゴではロンドンの強盗1件に対して22件の強盗があり、イングランドおよびウェールズ全体の強盗1件に対して14件の強盗があった。……セントルイスやデトロイトのような都市は、強盗および強盗目的の暴行の統計において、しばしば年次合計が、グレートブリテン全体で報告された同種犯罪の件数の三倍から五倍に達する。」 説明はこうだ。私たちは十戒ではなく、人道主義を機能させようとしているのであり、そしてそれは機能していないのである。 もし私たちの裁判所が犯罪を処罰するうえでこれほど無力なのだとすれば、主要な理由の一つは、世論の支持を欠いていることであり、それはまた、世論が大部分、他のあらゆる徳に代えて「弱者への同情」を据えた人々、あるいは犯罪者は環境の産物であって道徳的責任を負わないと考える人々から成り立っているからである。 ここでも他の領域と同様に、生活を機械化する者とそれを感傷化する者とのあいだには協働がある。 道徳的責任への信念は、何らかの内面的なはたらきが標準との関係で可能だという信念に基づかなければならない。 功利主義者は、私が示そうとしてきたように、外面的なはたらきに主たる力点を置いてきた。 その力点は、機械の増殖と歩調を合わせて、標準に代えて標準化を据えるという結果をもたらした。 私たちの商業至上主義の支配者たちが追い求める種類の効率は、多数の人間から人間固有の属性を奪い、巨大な機械の単なる歯車に変えてしまうことを要請する。 このままの速度で進めば、人里離れた田舎町の食料雑貨商でさえ、まもなくバター1ポンドの値段を決めるのに必要なだけの自主性すら残されなくなるだろう。 リヴァプールはクリーヴランドの約1と3分の1倍の大きさだが、それでも1919年には、リヴァプールで報告された強盗1件につき、クリーヴランドでは31件の強盗が報告された。」(レイモンド・B・フォズディック『アメリカの犯罪と警察』1920年、18頁)フォズディック氏は、私たちの不完全な司法運営を、私たちの律法主義(48頁)と感傷主義(44頁)に帰している。 しかし標準化は、今日「理想」と呼ばれているものに比べれば、標準に対する脅威としてはまだ軽い。 理想の名の下に標準を崩す人は、卑しい商業的動機に突き動かされているようには見えず、むしろその反対に、身分の低い者や抑圧された者への最も純粋な憐憫に鼓舞されているかのように見える。 私たちはこの人道主義的熱情を、精密な検討に付す勇気を持たねばならない。 出発点として最もよいのは、おなじみの格言、すなわちアメリカとは機会の別名にすぎない、という言い方だろう。 何をする機会なのか。 万人は平等に創られたという命題に献身する国の典型的産物として超大富豪が現れるまで、金と物質的成功を奪い合う競争に身を投じる機会なのか。 ナポレオンによれば、フランス革命もまた機会の別名にすぎなかった(才能への道は開かれている、la carrière ouverte aux talents)。 私たちの商業界の超人の一部は、明らかにその機会をきわめてナポレオン的な仕方で利用してきた。 いずれにせよ、機会は何らかの真の標準との関係においてのみ意味を持つ。 感傷主義者は、誤った種類の優越への抗議としてそのような標準を掲げる代わりに、経済的優位をめぐる競争に取り残された者たちに、選別のない同情を注ぎがちである。 見方がそれほど物質主義的でない場合でさえ、彼は正義の問題を回避しがちである。 彼は、ある人が弱者なのは、すでに機会を与えられながらそれを生かし損ねたからではないか、要するに、社会秩序の犠牲者だと思っているその人は、むしろ自らの不行跡、* あるいは少なくとも自らの怠惰と不注意の犠牲者ではないのか、と問わない。 こうして彼は、道徳法則よりも親切であろうとした者に下される罰を、自ら招き寄せるのである。 つまるところ、「矯正家」の見方がこれほど人気なのは、それが精神的自己満足を養うからであり、つまり人は自分を「上」に、他人を「下」に置いて眺められるようになるからである。 しかしジョナサン・エドワーズが、自己満足に浸る人々は神の鼻孔にとって「特別な煙」であると述べたことには、神学的でないにせよ心理学的な真理がある。 人は、下を見るのではなく、日常の自己をはるかに超えて掲げられた標準を仰ぎ見て、自分自身が霊的には弱者であると感じるほどでなければならない。 このように上を見上げる人は、やがて逆に見上げられるに値する者となり、その限りで指導者たる資格を備えていく。 付け加えれば、この種の指導力こそ、長い目で見れば、帝国主義的な超人の指導力に対する唯一の有効な対抗物となりうる。 1 「これはガレー船の奴隷の鎖だ」とサンチョは叫んだ、「連中はガレー船へ送られていくのさ。」……「いずれにせよ」とドン・キホーテは答えた、「この者たちは捕えられている以上、強制されて行くのであって、自分の意志で行くのではない。……ここでこそ我が職分の出番だ、暴虐を正し、苦しむ者を救い、助け、援護するのだ。」 「ご主人はよくお考えください」とサンチョは言った、「王そのものである正義は、ああいう者どもに暴力も不正も加えはしません、ただその罪の罰として懲らしめているだけです。」(『ドン・キホーテ』第一部、第xxn章) 社会とそのいわゆる利益へのどれほどの献身も、精神が標準に対して内面的に服従するこの姿勢に取って代わることはできない。 人道主義者は、ここで悪循環に陥っているように見える。 彼が内面生活から離れて同胞に奉仕しようとすれば、彼は余計なお節介焼きになる。 彼がもう一度、主として他者の利益のために模範的な人間になろうとし始めれば、彼は独善的な善人ぶり屋になる。 謙虚さに至らないかぎり、何をしても無駄である。 バークが見たように、謙虚さは、世俗的秩序において支配すべき正義の究極の根であるとともに、固有に宗教的な徳の根でもある。 私が強調してきたように、近代の問題は、バークが自らの標準と指導力を結びつけた伝統的秩序がこれほど深刻に揺らいでしまった今、標準への忠誠をもつ指導者を確保することにある。 伝統的信念と決別した人々は、指導者の必要そのものを認めた場合でさえ、この指導力の問題に対処するうえで、これまで驚くほど無力であることを示してきた。^ とりわけ自分は実証的だと誇ってきた人々は、指導力を自然科学の唱道者に求めてきた。 たとえばオーギュスト・コントは、科学者を真の近代的聖職者と見なしただけでなく、個人の道徳的努力を実際に貶めた。 ここで私が繰り返すまでもないが、別の箇所で述べたとおり、単なる科学的「進歩」の純粋な帰結は、 能率的な誇大妄想者を生み出すことである。 自然科学は、本来の位置にあるかぎり卓越しているが、それをその位置から持ち上げて崇めるときには、人間がこれまでひれ伏すことに同意してきた偶像のうちで、最も醜悪で最も有害なものとなる。 真の科学の本質が、独断的な先入見なしに現れるままのあらゆる事実に忠実に向き合うことだとすれば、物理科学は、テニスンの言葉を借りれば第一ではなく第二であるという点を忘れる人が、はたして真に科学的なのか、また、科学と功利主義のあいだにはきわめて鋭い区別を立てねばならないのではないか、と問うのは正当である。 たとえばアリストテレスは真の科学者であったが、功利主義者ではなかった。 これに対してフランシス・ベーコンは功利主義運動全体の預言者ではあるが、科学者としての卓越性については疑わしい。 彼が重要な科学的発見を成し遂げられなかったという事実とは別に、ベーコン主義的方法そのものの妥当性も疑わしい。 健全な科学的方法の一部としての演繹に正当な位置を与えなかったことは、しばしば指摘されてきた。 さらに重大な欠陥は、想像力の役割、すなわち同じことだが、科学的発見の形成における卓越した天才の役割を認めなかった点である。® 科学的知識人の貴族政、いやそもそも知性の貴族政が、私たちに必要なものだとは認められない。 それは事実上、libido sciendi(知りたい欲望)を奨励し、謙虚さに代えて高慢を据えることを意味するだろう。 さらに受け入れがたいのは芸術家の貴族政である。近ごろ理解されるようになった意味での芸術という語に従えば、それはlibido sentiendi(感じたい欲望)に基づいて選別を行おうとする審美家の貴族政を意味することになる。 また、ニーチェ的な試みとして、意志の力への欲望(libido dominandi)のむき出しの拡張に貴族的・選別的原理を基礎づけようとすれば、実際には恐るべき暴力へ、そしてついには文明の死へと導くであろう。 1 「有用なものばかりを常に求めるのは、自由で高貴な魂にふさわしくない」(『政治学』1338b) 「ベーコンのように、自然が尽きうるだけでなく、多数の本質的に凡庸な専門家の観察の集積によって尽くしうるとまで想定するのは、中心において誤っている。『ノヴム・オルガヌム』第I巻・箴言cxxn参照:「私の科学発見の道は、人々の知性を大いに平準化し、個々の卓越に残すところをわずかにする。」」 前世紀に、人間の心にある三つの主要な欲望に照らして価値の尺度を確立しようとしてなされた試みは、しばしば神秘的な色合いを帯びた。 人は、自分のどんな肥大した思い上がりであれ、その味方として神を味方につけているのだ、と考えたがる。 実際、たとえばM・セイリエールの諸巻に示されているような近代運動のさまざまな神秘主義を検討してみると、ボシュエの言葉が思い出される。「真の神秘主義はきわめて稀で本質的でもなく、偽の神秘主義はきわめて一般的で危険であるから、これに対しては断固として反対しすぎることはない。」 審美家や超人や科学的知識人が指導権を主張する際に、しばしば疑似神秘主義的な要素が見いだされるのだとすれば、その要素は、民主主義の名のもとに指導そのものを一切不要にしようとする人々のほうに、なおいっそう露わに現れる。 そこで、すでに見たようにウォルト・ホイットマンは、自分の「自発的な私」に何の歯止めもかけようとせず、他の誰もが同じ程度に自分の「個性」を放縦し、要するに語の完全にロマン主義的な意味で「天才」になることを望む。 こうした無政府的な自由が、平等と友愛へと導くのだという。 この種の民主主義者に、彼の綱領は常識にも経験の事実にも反すると告げると、彼は神秘的な「ヴィジョン」に逃げ込むのが常である。 人々がそれぞれ気質の接線方向へ勝手に飛び出していきながら結びつけるはずだ、と考えるには、たしかに相当の神秘主義が要る。 ホイットマンは、何らかの標準を謙虚に仰ぎ見てこそ、やがて人から仰ぎ見られるに値する者となる指導者の必要を認めない。 彼が思い描く唯一の指導とは、おそらく民衆の誇りにおもねり、「神々しい平均的人間」を讃え歌う理想の民主主義的吟遊詩人のそれである。彼は、愛という名のもとに、膨張する感情を生きた統制に代置することを極端な形で示している。 誇りと自己主張も、愛によって節制されるなら、結合の原理を危うくしないのだと、彼は主張する。*「『たわ言屋』でいつも群れてはいるが、それでも」と彼は言う、「合衆国はいつも確かで、攻め落とされることがない。」 「たわ言屋」で群れる共同体において倫理的結合が維持されるかどうかについて、過去の記録は心強いものではない。 いずれにせよ、たわ言屋への対抗物は、いかなる神々しい平均にもではなく、真の指導者、すなわち「喧噪の地における、なお強き沈黙の男」に見いだされる。 ここで私たちは、媒介や妥協の余地を持たない第一原理の対立、すなわち「救われる少数者(残余)」の教義と「神々しい平均」の教義との対立に行き当たる。 人間性を現実的に扱うなら、ここかしこに尊敬に値する人を見いだし、ときには畏敬に値する人を見いだすことさえあるだろう。 これに対して、平均の神性に信を置く者は、歴史の記録を信じるなら、幻滅を経て最後には絶望へ至る運命にある。 私たちはまさに今、この国で幻滅の段階に差しかかっている。 *「アメリカ人が求めるのは……どんな犠牲を払ってでも、人間が自分自身を誇る神々しい誇り(新宗教の急進的基礎)という旗を先頭に掲げ、守り抜く詩である。長いあいだ民衆は、ありふれた人間性が恭順に身を屈め、屈辱のうちに低頭し、上位者の存在を認める詩を聞かされてきた。だがアメリカはその種の詩に耳を貸さない。背筋を伸ばし、膨れ上がり、完全な自尊に満ちた詠唱であれ。そうしてこそ、アメリカは喜んで耳を傾けるだろう。」(『Democratic Vistas』) *「……アメリカの魂は、両半球が等しく、一つの愛、一つの拡張(あるいは誇り)を持つ。」 『Main Street』の著者によれば、平均は神々しいどころか凡庸であり、『Spoon River Anthology』の著者によれば、それは積極的に醜悪である。 現代アメリカが風刺の格好の標的を提供していることは、ほとんど否定しがたい。 多くの人々が、しだいに唯物主義へと流れ込みつつ、しかも同時に自分では輝かしい理想主義者だと思い込んでいることが少なくない。 しかし、風刺が価値あるものとなるには、建設的でなければならない。 凡庸の反対は卓越であり、卓越が何であるかは標準に照らしてしか定められない。 標準という背景の上に『Main Street』を眺めることは大いに役立つはずだが、標準こそが、いわゆるリアリストたちにまさに欠けているものなのである。 彼ら自身が、定義しようとしている病の一部である。 民主主義的理想主義者は、素朴な民衆への無制限の信頼のゆえに、標準と指導という問題全体を軽視しがちである。 素朴な民衆へのこの訴えは、どこまで正当で、どこからが単なる扇動なのか。 「誰よりも多くを知っている者がいる。それはみんなだ」という言い回しには、疑いなく真理がある。 ただし、みんなが証拠をふるいにかけるのに十分な時間を与えねばならず、しかもそれでも、みんなは大して多くを知っているわけではない、ということを付け加える必要がある。 バークはブリストルの選挙民に対し、目先の意見におもねるのではなく、五年後には彼らも自分も抱いていなければならない見解を述べているのだ、と語った。 民衆の一時の印象よりも、その冷静な判断が勝利したこの場合でさえ、真の指導者の役割は過小評価されるべきではない。 たとえば1795年、アメリカの素朴な民衆はFrench Jacobinsに友愛の抱擁を与えたがっていた。 偉大で賢明なワシントンは、ほとんど確実に破滅的結果を招いたであろう同盟に反対し、そのために「Aurora」のような新聞から彼に浴びせられたのは、 私たちの現代の「オピニオン誌」の先駆けであるそうした新聞が、 彼自身の不平によれば、ありふれたすりにさえ値しないような罵倒語であった。 ほどなくして、ワシントンとその一派が正しかったこと、そして素朴な民衆の代弁者に見えた人々が誤っていたことが明らかになった。 啓発された少数者を欠く共同体の「冷静な再考」にすら、大きな信頼を置けるかどうかは疑わしい。 たとえばハイチの政治家が、今日のハイチ世論から五年後のハイチ世論へと訴えを移しても、得るところはあまりないかもしれない。 しかし民主主義的理想主義者が、素朴な民衆への訴えによって通常意味するのは、「冷静な再考」への訴えではない。 彼が意味するのは、数の上での多数派の意志を即時に実施することである。 流行歌のあの男のように、民衆は「欲しいものを、欲しいときに欲しがる」ものだと想定されている。 近年のアメリカの趨勢が、この種の急進的民主主義へと明白に傾いてきたことは、イニシアティヴ、レファレンダム、リコール(裁判官または判決のリコール)への流行の高まり、さらには予備選挙や上院議員の直接選挙からも明らかである。 人民があらゆる案件に直接行動すべきだという感覚は、ある州では長さ三十フィートにもなる投票用紙の出現にまでつながった。 しかし、いかなる特定の瞬間においても大衆の多数に知恵が宿る、という観念ほど徹底的に打ち破られるべき誤謬はない。 もしエルサレムの素朴な民衆が、最新式の投票箱の助けを借りて意志を登録していたとしても、彼らがバラバよりキリストを選んだという証拠はどこにもない。 ソクラテスを有罪にした陪審の人数を考えれば、彼が「偉大で厳粛なレファレンダム」の犠牲者だったと断言してもよい。 逆に、素朴な民衆がネロを格別に好んだことは示しうる。 しかし、と反論する人は言うだろう、素朴な民衆は教育され、啓発されたのだ、と。 徴兵の選抜に関連して行われた知能検査によれば、男性有権者の平均精神年齢はおよそ十四歳であるという。*もっとも知能検査者たち自身の知性の質については、いささか疑いがもたれてはいるが。 私たちの人口の低い知的水準を示す、より説得力のある証拠は、おそらくハースト系出版物の読者が二千五百万人いるという事実に見いだされる。 「多数派ほど忌まわしいものはない」とゲーテは言う。「というのもそれは、少数の強力な指導者、ある程度の迎合的な悪漢どもと卑屈な弱虫ども、そして自分の考えなど少しも知らぬまま彼らの後をとぼとぼついて行く大群衆から成り立っているからだ。」 この分析に少しでも真理があるなら、急進的民主主義において多数派が支配するのは、しばしば名目にすぎない。 しかも、惰性的で組織化されていない大衆の意志に対して、高度に組織化され断固たる少数者の意志がいかに勝ちうるかを、いわゆる民主的運動ほど明瞭に示す運動はない。 大衆が、その少数者の後を「とぼとぼついて行く」ことに同意しないとしても、それに抵抗しようとする試みにおいては、ますます不利な立場に置かれる。 物理科学は、圧制的な少数者の側についている。 普通の市民は、暖炉のそばに機関銃を置いたり、裏庭に「戦車」を置いたりはできない。 近ごろの新型の革命的理想主義者は、主たる関心がなお人民に利益を授けることにあるとはいえ、公正に言えば、その利益を多数派によって実現しようとはせず、むしろ組織化された少数派の直接行動によって実現しようとする。 彼は、必要なら力ずくでも、自分の妙薬を人民の喉に押し込むのは正当だと感じている。 *これらの検査の集計は『米国科学アカデミー紀要』第15巻を参照。この種の急進派は、「救われる残余の少数者」という教義へと回帰しつつあり、最終的にはすべてが指導の質にかかっていることを彼なりに認めるようになっている。だが、その「質」についての見方は、伝統的な見方とは奇妙なほど異なる。もっとも、指導についてどんな理論が伝統的に唱えられてきたにせよ、現実の指導がさほど良かったためしがないことも認めねばならない。ジョン・セルデンが言ったように、「世界を支配しているのが、どれほど取るに足らぬ愚行か」など、ほとんど想像もしないものだ。 しかも社会の頂点で幅をきかせてきた愚行は、トロイア戦争の時代以来つねに、下々の隊列にも忠実に映し出されてきた(Quidquid delirant reges —)。 過去を見渡す者は、ときにドライデンの陰鬱な判断に同意したくなる。「迎合者と愚鈍者が頂点に立たぬ政府など、これまで一度もなかったし、今後もありえない。 人物が入れ替わるだけで、国家における同じ手品、宗教における同じ偽善、同じ利己心と失政が永遠に残るだろう。 血と金は、いかなる時代にも、古い良心をもつ新しい顔を出世させるためだけに浪費されるのだ。」 しかし、過去の悪しき指導と、近代の革命時代のそれとのあいだには、ひとつ違いがあることに注意すべきである。 過去の指導者が悪かったのは、多くの場合、彼らが唱えていた原理に反していたからだが、ロベスピエールやレーニンのような人間が自らの原理を適用しようと乗り出すときこそ、文明の存続に関心をもつ者は震え上がるべき理由をもつ。 ドライデンのこの一節は、本当に必要なのは古い良心をもつ新しい顔ではなく、良心そのものの変革なのだ、ということを示唆しているように見える。 ロベスピエールのような革命的理想主義者が成し遂げようと望むのは、まさにその種の変革である。 彼は、旧来の貴族的指導者の腐敗した良心に代えて、社会的良心を据えようとする。 そして、その良心に鼓舞された「民衆の意志」は、見てきたとおりあまりに潔白なので、王の意志ばかりか神の意志の代わりにさえ安全に据えられる、とされる。 私はすでに、「一般意志」あるいは「神的平均」の単なる器官であろうとする指導者は(それがあるときは本質的に理性的、またあるときは本質的に友愛的だと考えられるにせよ)、実際には帝国主義的になることを示そうとしてきた。 ここで、この民主的理想主義を、わが国自身の国際関係に及ぼしうる影響に特に目を向けつつ、さらに分析してみるのがよいだろう。 近年しばらくの傾向は、国際法を、理論上は理性の具現としてではなく、実定的には意志の具現として扱うことであった。^ ^ J・ド・ルータは『国際公法実定法』(1920年)第1巻77頁以下で、国際法を普遍的理性としての「自然法(jus naturale)」に基礎づける立場と、それを意志の表現(「任意法(jus voluntarium)」)として見る傾向との対立を、歴史的に跡づけている。 その場合、国際法が国家間関係の改善を何らか反映しうるためには、神の意志に代えて民衆の意志を置くことが、国境を越えてさえ人間のあいだの倫理的結合を実際に促進してきたのだ、ということが示されねばならない。 民衆の意志を現実的に分析すると、それは伝統的な標準からますます解放され、私が「無責任なスリル追求」と呼んだものにますます身を委ねてゆく、多数の人間の意志を意味することがわかる。 こうしたスリルは、周知のとおり扇情的新聞によって供給され、国際問題では、平和主義からジンゴイズムへの、しばしば当惑するほど唐突な転換を伴う。 スペインとの紛争の直前の時期を思い出せる人なら、この種のジャーナリズムが戦争を引き起こすうえで果たしうる役割を、十分に理解しているだろう。 では、もし日本がより民主的になり、言い換えれば、少数の「元老」集団の意志に代わって民衆の意志が置かれるなら、アメリカと日本の衝突の可能性は小さくなるだろうか、改めて自問してみよう。 すでに日本の扇情的新聞がアメリカへの疑念を煽るために何をしてきたかを知る者は、この点について疑いを抱くのが当然である。 民主政は、現実を見ようとする観察者が結論せざるをえないところによれば、自己についての感情においては理想主義的になりがちだが、実践においては帝国主義的になりがちである。 しかも、その理想主義と 帝国主義とは、じつにかなり直接の比例関係にある。たとえば、ウォルト・ホイットマンの意味で友愛的であるとは、無限に膨張的であることを意味し、この世界のような場所では、無限の膨張性は平和と両立しない。ホイットマンは、アメリカ合衆国が拡大してカナダとメキシコを吸収し、大西洋と太平洋の双方を支配するところまで行くと想像するが、そうした綱領はほとんど確実に全世界との戦争に私たちを巻き込むだろう。アメリカ人が自分をどう感じているかではなく、実際に何をしてきたかによって判断するなら、私たちはこれまで一貫して膨張的、言い換えれば一貫して帝国主義的な人民であった、と結論せねばならない。^ それは自然の国境まで拡大してきただけだ、と反論されるかもしれないが、私たちはすでにフィリピンにおり、明らかにアジアでの冒険に巻き込まれる危険にさらされている。人口五千七百万人(年に約六十万人の割合で増加中)を抱え、カリフォルニア州ほどの大きさもない島々に住み、そのうち耕作可能なのは一七%にすぎない日本には、自然の国境を越えて手を伸ばす少なくともそれらしい口実がある。だが、ほとんど無尽蔵で、しかもなお大部分が未開発の資源をもつ私たちが、東方へ膨張して得られそうなもののために、近代的条件下の戦争の恐怖を賭けるとすれば、それは精神の純然たる落ち着きのなさと、節度を欠いた商業主義の極端な例となるだろう。私たちの心理の一部として、国史上の主要な出来事はそのつど強い理想主義的色彩を帯びる。たとえば数年前、メキシコの主権に対する不当な干渉の結果として、私たちはメキシコとの紛争寸前にまで至ったが、ウィルソン大統領はただちにその芽生えつつある闘争を「奉仕」の戦争だと述べた。キケロは、^ この一貫した帝国主義は、H・H・パワーズが『諸国民の中のアメリカ』で跡づけている、と言う。 ローマが世界の覇権を得たのは、同盟者を救援しに行ったからだ、と言っている。 同じように、いつの日か私たちについても、一連の理想主義の噴出の結果として、連邦共和政から高度に中央集権的で官僚的な帝国へと変貌したのだ、と言われるかもしれない。 私たちは、他国がみな利己的であることは喜んで認めるが、自分たちに関しては、最も無私の動機からのみ行動しているのだ、と考えている。 私たちは、革命期フランスのように自らを「諸国民のキリスト」に祭り上げたわけではないが、先の戦争中には、少なくとも「諸国民のガラハッド卿」だと自分たちを眺めたがった。 アメリカ人が自分を理想主義者だと見なし、同時に外国人が彼を金の亡者と見るのだとすれば、その説明の一端は、アメリカ人が自分を感情で裁くのに対して、外国人は行為で裁く、という事実にあるのかもしれない。 もちろん、これが真実のすべてではない。 理想主義の伝統のほかに、健全な道徳的リアリズムにもとづく、連合主義的な伝統も私たちにはある。 「それは格言である」とワシントンは言う。「人類の普遍的経験にもとづく格言として、いかなる国も、その利害によって縛られている以上には信頼できない。そして大統領でも政治家でも、これから外れようなどとはしないだろう。」 あらゆる現実的観察は、ワシントンを裏づけている。 彼の精神に प्रेरわれる人々は、国家として備えを整え、そのうえで内政に専念すべきだと信じている。 これに対して、わが国の理想主義者の傾向は、備えを怠ったまま、多少とも包括的に干渉へ乗り出すことにある。第三の態度として、ルーズヴェルトに結びつけてよいものが区別できる。 ルーズヴェルトの追随者は備えを望むが、ワシントンの追随者のように内政に専念すると当てにすることはできない。 人道主義者は言うまでもなく、世界奉仕の綱領の一部として、外交への干渉を私たちに求めるだろう。 だが残念ながら、彼が思うよりも、そうした綱領に携わりながら世界帝国の綱領に巻き込まれずに済ますのは難しい。 「感傷的帝国主義」という語は古代ローマ史のある種の出来事に当てはめうるが、^ 第一次世界大戦に参戦するにあたって私たちが掲げた動機のいくつかは、フラミニヌスのような人物がギリシア救援へ向かう際に掲げた動機を、奇妙なほど思い起こさせる。 それから百年以上のち、しかも三頭政治家の使者によって暗殺されるほんの数か月前に書いたキケロは、自分もかつてローマは世界帝国ではなく世界奉仕を体現しているのだと思っていたが、痛烈に幻滅させられた、と述べている。 彼はさらに、帝国主義的指導者の典型たるユリウス・カエサルを、人間の姿をした悪魔であり、悪を悪そのもののために行った、と糾弾する。 しかしカエサルには少なくとも、ローマのエートスが変わりつつあること、宗教的抑制の崩壊(これに対してストア派の「奉仕」は十分な代替ではなかった)の結果として、ローマ人が共和政の制度に急速に不適格になりつつあることを見抜いた、という功績があった。 たしかに、ある人々はこの種の個別比較を越えて、退廃したローマと近代アメリカとの一般的な並行関係を打ち立てようとする傾向がある。 だが、このような並行は常にきわめて不完全であり、最大限の注意をもって用いねばならない。 *テニー・フランク『ローマ帝国主義』、とくに第8章(「感傷的政治」)参照。 まず第一に、退廃という語で何を意味するのかを、ある程度正確に定義する必要がある。 この語は、いわば「古き良き時代」の幻想に苦しむ人々によって、しばしば漠然と用いられる。 リウィウスが「今では、かつては民族全体に属していたあの慎みと廉直さと気高い精神を、ひとりの人間のうちにどこで見いだせようか」と叫ぶとき、たしかに少し理想化しすぎている。 それでも、共和政のローマと帝政のローマとを比べれば、実際の衰退を感じずにはいられない。 ピュロスの助言者キネアスには半神たちの集会に見えた元老院も、ティベリウスの時代には、むしろ卑屈な追従者の寄り合いと化していた。 ホラティウスが同時代ローマ人の進行する退廃を宣言したのは、単に冷静な真実を述べただけだった。® この退廃の最も重要な徴候は、ホラティウスや他の慧眼の観察者には、家族の絆のゆるみとして映ったのである。 われわれはこの国でも同様の道徳的な崩解を目にしているのだろうか。もしそうなら、それはどこまで進んでいるのか。 外国の批評家の一人は、われわれはすでに「ヘリオガバルス段階」に達したと言うが——それは馬鹿げている。 しかし同時に、自由を自然主義的に捉える観念が、過去の二大統合力——教会と家族——を少なからず掘り崩してきたことは否定できない。 家族の規律の衰えは、比較的最近のことである。 「田舎の哲学者」が言ったとおりだ。「世の中は昔と違う——いや、そもそも昔だってそうだったことはないのだが」。 ‘ Aetas parentum peior avis tulit Nos nequiores, mox daturos Progeniem vitiosiorem. Carminum, Lib. III, 6 清教徒の家庭に支配的だった状況を覚えている人はいまも存命である。* 古い抑制からの解放の過程は、ふつう単なる物質主義への転落としては現れてこなかった。今日の語義でいうところの理想主義が、伝統的宗教に取って代わりがちだったのである。清教徒の子孫が商業主義に走ったのは確かで、とりわけ南北戦争以降それが顕著だが、その商業主義は人道主義的な改革運動によって緩和されていた。私が指摘してきたように、人道主義者は真の清教徒のように個人の心の内にある悪を突き止めようとはせず、結局は外的規制に訴えざるをえなくなる。源泉で抑えられない利己的衝動は、人と人、階級と階級の関係において、効き目の薄い利他主義に勝ちがちである。財産を目的への手段ではなく、それ自体を目的とみなすこと——これが物質主義の特別な刻印だが——はますます目に見えるようになっている。今日の保守派は、財産をそれ自体のために守ることに関心を寄せ、バークのように、財産が人格的自由という真に精神的なものを支えるほとんど不可欠の支柱だから守る、というのではない。進歩派の方は、財産と、彼が正当だと考えるその分配とへの執着が、病的な強迫観念に近い。われわれがこの方向へ進み続けるなら、秩序ある政党政治はますます困難になり、ついには階級戦争に脅かされるだろう——いや、すでに脅かされているのでなければ、という条件つきでだが。 * G・H・パーマー教授は自らの記憶にもとづいて「清教徒の家庭(The Puritan Home)」という一文を書いている。(Atlantic Monthly、1921年11月。) この特定の徴候が民主政において持つ意味を、歴史の学徒なら誰しも知っている。 現在われわれの全体的傾向を要約するなら、人道主義的な法律万能の狂宴を経て、退廃的な帝国主義へと向かっている、ということになる。 これに対抗する重要な力は、われわれの偉大なユニオニスト(労働組合主義)的伝統である。 しかし、この伝統を維持していく道の困難を過小評価すべきではない。 国家は恒常的な、あるいはより高次の自己を持ち、それが通常の自己に対して拒否権として感じられるべきだ、という考えは、究極的には個人における同様の二元性の主張に依拠している。 そしてこの主張が西洋において、自然主義的運動によって弱められたある種のキリスト教的信念と切り離しがたく結びついてきたことは、すでに見たとおりである。 ここでわれわれは、この議論の過程で幾度となく突き当たってきた問題へと引き戻される。すなわち、伝統的信念に代わる近代的な等価物をどう得るか、とりわけ自由のうちにある frein vital(生命的な制動力、求心的要素)を肯定するための新しい基礎をどう得るか、という問題である。 ジュベールによれば、フランス革命の人々が欲したのは宗教的自由ではなく、反宗教的自由であった。 するとフランスの近代主義者は苦々しく言い返す。その場合、あなたはわれわれに革命的自由を捨ててイエズス会士になれと言うのか、と。 同様に、アメリカの近代主義者に対して、伝統的統制の代用品としての彼の理想主義の空虚さを指摘すると、彼はたちまち、あなたは清教徒主義への逆戻りを望んでいるのだ、と非難するだろう。 しかし厳密に言えば、何かに「逆戻り」する必要はない。 私自身の方法の一部は、孔子をアリストテレスの背後に、Aristotle and Buddha をキリストの背後に置くことである。 とはいえ、これら偉大な教師たちでさえ、われわれのためにできる最善のことは、すでに自分の内にあるものを発見するのを助けてくれることにすぎない。* この観点からすれば、彼らはほとんど不可欠に近い。 それではまず、非現実的な二者択一を心から追い払うことから始めよう。 アメリカのわれわれが野暮ったい商業主義に満足できないからといって、一方で清教徒主義に戻る必要があるわけでも、他方で『ニュー・リパブリック』流の「リベラル」になる必要があるわけでもないし、さらにまた、H・L・メンケン氏の導きのもとで二流のニーチェ主義者へと進化する必要もない。 しかし、現在の状況を少しでも掴もうとするなら、われわれには多少の道徳的重みと知的真剣さを育てる必要がある。 そうすれば、伝統的教説の強みが近代主義的立場に比して、悪という事実に向き合う際の相対的な正直さにあることが見えてくるだろう。 また、理想主義者たちが忙しく排除してきた「古きアダム」を、人間性へと、ある批判的かつ実験的な仕方で取り戻す必要があることも見えてくるだろう。 この種の回復は、自然主義的楽観から自然主義的悲観への単なる転落に終わってはならない。そのような転落ほど容易なものはなく、そして究極的にはそれほど空しいものもない。 どちらの態度もほぼ同じくらい宿命論的であり、それゆえ道徳的責任を掘り崩す。 事実を見渡せば、人間は道徳的責任を負うが、常にその責任を逃れようとしていることが示唆されるだろう。要するに、人間が苦しんでいるのは、どんな意味であれ「運命」ではなく、精神的な怠惰なのである。 悪魔の別名は惰性だ、という言い方にも一理あるのかもしれない。 * Cf. Pascal, Pensees, 64: "Ce n’est pas dans Montaigne, mais dans moi que je trouve tout ce que j’y vois.” キリストやブッダのような偉大な教えが、歴史の中で次第にねじ曲げられ、人間がそれを自分の古来の怠惰へと多かれ少なかれ完全に適応させていった道筋をたどるほど、興味深いことはない。 数世紀前、日本仏教には苦難の道として知られる一派があり、ほどなくして Easy Way と呼ばれる別の一派が起こって、たちまち大いに人気を得て、苦難の道に取って代わる傾向を示した。 しかし日本の苦難の道でさえ、ブッダ本来の道と比べれば、それ自体が Easy Way なのである。 実際、仏教教義が、創始者によって置かれた峻厳でほとんど到達不能な高みから、次第にマニ車の水準へと降りていった過程は、きわめてはっきりと追うことができる。 つい最近、最後の改良として、チベットのマニ車の一部は電気で動かされることになる、と新聞が報じた。 立法という機械のクランクを回すことで社会を救えると望む人、あるいは「社会宗教的エンジニア」を自任する人は自分をキリスト教徒と呼ぶかもしれないが、彼はおそらく、Easy Way の東洋の信徒がブッダの真精神から遠いのと同じほど、イエスの真精神から遠い。 私がすでに指摘したように、人間の精神的怠惰の本質は、標準(standards)を仰ぎ見て、それに照らして自らを鍛えようとしないことにある。 むしろ彼は、自分の支配的欲望の線に沿って自由に拡張したいのである。 彼はその欲望を助長するように見えるものすべてに貪欲に飛びつき、その結果、いわゆる自己満足を保つ方向へと傾く。 ディズレーリは、ヴィクトリア女王とうまくやっていく最良の方法は、お世辞を言い、やりすぎることを恐れず、「左官ごてで塗りつけるように」べったりとお世辞を塗ることだ、と見抜いたのだと言われている。 デモス(民衆)も、昔から指摘されているように、他の君主と同じくお世辞を渇望する。そして人民主権論においてルソーは、認めざるをえないが、このお世辞を左官ごてで塗りつけるほどに厚塗りしている。 一般に、悪は人間自身のうちにあるのではなく制度のうちにある、という彼の考えが絶大な人気を博したのは、それが真実だからではなく、お世辞になるからである。 ここまで述べてきたような観察は、冷笑だという非難を受けがちである。 しかし、不健全な種類——幻滅した感傷家の冷笑——を避ける唯一の道として、健全な冷笑を培う必要がある。 私が言う健全な冷笑とは、「機会があれば大多数の人間は悪をなす」と言うアリストテレスのそれであり、あるいは穏健なキリスト教的見解を表して、「悪をなす方へと常に傾く人間の心の途方もない邪悪さ」と語るボシュエのそれである。冷笑には害はない、ただし冷笑家が、自分は人間性を外側から、どこか優越した高みから眺めているのだと思い込まないかぎり。 私がいま定義した意味において、冷笑はたしかに宗教的謙虚さと多くの点で共通している。 それでは、冷笑だという非難を恐れず、現実主義的な分析をさらに進めよう。 人間がそれほどたやすくお世辞に屈するのは、まず自分で自分をお世辞でなだめているからだ。自己へのお世辞は、ひいては彼の道徳的怠惰と密接に結びついている。 私は、人生の全体は「気晴らし」と「改心」という言葉に要約できる、と述べた。 だが人間は、そこに要する道徳的努力のために、改心――言い換えれば自分の自然な意志をより高次の意志に調整すること――を望まない。 この意味で彼は、永遠の戯れ者である。 しかし彼は、気晴らしを求めながらも、同時に自分が 改心の実りを取り逃がしていることは、認めたがらない。 目的は、それが明らかに望ましいから欲するが、手段は、それが困難で規律を要するから欲しない。 要するに彼は相容れない欲望を抱え、定められた代価を払わずに良いものを手に入れられるのだと思わせてくれる者に、喜んで耳を傾ける。 「 人がこのようにお世辞でくすぐられる主要な様式は、二つに分けられる。 第一に、権威と受け入れられた標準の時代には、霊的鍛錬の現実の代わりに、形だけを巧みになぞる技法へとすり替えるよう誘われる。 極端な例として、ボワローが描いた流行好きの貴婦人がいる。彼女は(霊的指導者の助けを借りて)楽園へ向かう途上で地獄の快楽をすべて味わえるのだと、自分を信じ込ませていた。 しかし今われわれの関心があるのは、外的権威への過度の敬意にもとづくお世辞の様式ではなく、個人主義の時代に栄えるもう一つの主要な様式のほうである。 ボシュエによればイエズス会士が罪人の肘の下に置いたという座布団など、罪人が独りにされると自分で自分の肘の下に置く座布団に比べれば、取るに足りない。 現代のような時代には、誰もが自分自身のイエズス会士である。ルソーの人間性へのへつらいは、個人主義の時代の要請にとりわけ適していた。 参照:孔子「嘆かわしいかな、自分の過ちを見て、自らの良心の法廷で自分を告発できる人に、私はいまだ会ったことがない。」 彼は感情の詭弁によって、とりわけ道徳的価値の領域で、ケーキを食べてなお手元にも残すという人間の永続的欲望を、新しく魅力的な形で満たした。 相容れない欲望を寄せ集める自己へのお世辞は、この運動においてかつてないほど押し進められた。 たとえば、自然への回帰と平和と博愛を両立させようと望んだ人々の群れを考えると、人間の際立った特性とは、途方もなく哀れなほどのだまされやすさだ、という結論を免れない。 だまされやすさへの主要な矯正は、個人主義的解放の時代にあっては、批判精神を十分に、自由に働かせることである。 こうした時代に批判的であればあるほど、人は標準を獲得し、空虚なうぬぼれを避けやすくなる。 いま「批判する」とは、文字どおり「識別する」ことである。 自然法と人間法の双方を学ぶ者は、きわめて鋭い識別力を要するが、ただし両者には重要な違いがあることに注意すべきである。 科学者の識別は主として物理現象に向けられ、人文主義者のそれは主として言葉に向けられる。 「真の教養の始まりは、一般名辞の吟味である」とソクラテスは言ったと伝えられている。 そしてソクラテス自身がこの種の吟味にこれほど熟達していたからこそ、批評を志す者にとって、いまなお師であるに値する。 私は、文明の望みは「神的平均」にではなく、「救いとなる少数者(レムナント)」にある、と述べた。 批判的という語のあらゆる意味において批判的な現代のような時代には、その少数者は高度にソクラテス的でなければならないのは明らかである。 参照:エピクテトス『談話』第一巻17章。 人文的な意味での識別は、とりわけ政治理論と政治実践の領域で必要とされる。 孔子は、もし政権の手綱を託されたらまず何を気にかけるかと問われ、まず用語を定義し、言葉を事物に対応させることだ、と答えた。 現代の革命家たちがほとんど比類のないほど手ひどい幻滅を味わってきたのは、言葉が事物に対応しているか確かめもせずに想像力を言葉へ注ぎ込み、その結果、約束の地へ向かっているつもりで、実際にはうぬぼれの海を泳いでいただけだと感じるに至ったからであることが、あまりに多い。 「夢見がちな希望の実りは、目覚めれば、空白の絶望である。」 ハズリットがフランス革命に抱いた幻滅は、無数の「理想主義者」のそれの典型である。 「フランス革命は、哲学と経験がただ一度だけ戦った試合であった。そして理論の恍惚から現実感へ目覚めると、真理、理性、徳、自由という言葉を、浮気者や口やかましい女房を娶った冷笑家が、恋人たちの熱弁を聞くときと同じ無関心か軽蔑をもって聞くのである」と彼は言う。 ルソー主義者が、ソクラテス的弁証法に不可欠の道具である分析的知性を攻撃する際にしばしば持ち出す理由は、それが統一を破壊するからだ、というものである。 しかし彼の分析への軽視は、統一への愛よりも、努力への嫌悪にいっそう由来するのかもしれない。 ルソー自身と同じく、怠惰に哲学的営みの威厳を与えようとしているのかもしれない。 参照:ジュベール、ルソーの著作について「そこでは怠惰が哲学的営みの姿勢を取る」。 自然秩序の事実に想像力を集中することが骨の折れることだとしても、用語を正しく用いることを可能にする人間秩序の事実への集中は、それ以上に骨が折れる。 正直な労働者が石炭を掘って一日七十セントなのに、大統領が抽象を掘って一日七十ドルとは、なんという途方もない不平等だ、とリンカーンは言った。 リンカーンがここで皮肉として提示したこの議論を、カール・マルクスの追随者なら真面目に用いかねない。 しかし大統領が正直な仕事をするなら、つまり形だけをなぞる技法にすり替えるのではなく、抽象をきちんと掘り当てるなら、精神の最大限の緊張を示さねばならない。 近年にも、こうした種類の大統領がいれば、この国にとって一日七十ドルの何倍もの価値があったであろう瞬間があった。 ここで大胆に問わねばならないが、ウッドロウ・ウィルソン氏が大統領として滔々と注ぎ出した理想主義的抽象は、ソクラテスと孔子の試験にかなっていたのか――すなわち事物に対応していたのか。 亡きウォルター・H・ペイジ氏は、並外れた観察の機会を経たのち、ウィルソン氏は 「指導者ではなく、むしろ頑固な文句の製造者だ」と結論した。 素朴なことわざが言うように、立派な言葉では腹はふくれない。 しかしそれでも、どうやら人をホワイトハウスに入れることはできるらしい。 覚えておくべきは、ウィルソン氏は元大学総長であっただけでなく、主要政策においては実質的に大学総長団のほぼ全体から熱烈な支持を受けていた、という点である。 もしペイジ氏のウィルソン評が正しいことになるなら、われわれアメリカのレムナント――そして大学総長たちは確かにレムナントに属すべきだ――は、批判精神が十分ではない、という帰結になる。 この問題が重大なのは、冒頭で述べたように、民主主義も他のいかなる統治形態と同じく、つきつめれば指導者の質によって裁かれねばならず、しかも現状の条件のもとでは、標準と指導力を伝統的路線ではなくソクラテス的路線に沿って獲得しなければならない、ということが真実だとすれば、である。 「アメリカ人が最も切迫して必要としているのは、」 とマシュー・アーノルドは言った、「冷静で健全な批評が着実に示されることである。」 それこそが彼らに必要なものであり、そして彼らが一度も持ったことのないものである。 もしソクラテス的レムナントがいるなら、その主要な関心の一つは、ついには大衆の想像力を支配する決まり文句に、文明的な内容を与えることだろう。 詭弁家と煽動家は、定義が曖昧で不正確な空気の中でこそ栄える。 しかし、ソクラテス的批評家の助けがあれば話は別だ。 デーモスも、自分の友とおだて屋とを見分ける見込みが少しは出てくるだろう――これまでのデーモスは、その点で驚くほど無力だったのだから。 アテナイのクレオンからマラーに至るまで、そしてマラーからウィリアム・ランドルフ・ハーストに至るまで、人々の友を装ってある程度成功した者たちを考えてみるがよい。 実際、民衆はその「友人」さえいなければ、案外うまくやっていけるのではないかと思われることすらある。 煽動家が、人間は鼻先ではなく耳によって、しかもロバがそうされるのと同じくらい容易に導かれるのだ、という思い込みをあまりにもしばしば正当化されてきたのも無理はない。 過去の記録が示すところでは、大衆はしばしば言葉の蜃気楼に惑わされ、国家という船がエルドラドへ一直線に向かっていると信じ込んだが、実際には風下の危険な岸へと漂流していた。そして大衆は、砕波の響きが聞こえるほど間近になるまで、その危険を知らされもしなかった。 民主主義のこの特有の問題に、われわれは十分に対処できていないことは明らかだ。むしろ、巨人の力と子どもの批判的知性とを結びつけてしまう危険にさらされている。 つい少し前まで、数百万のアメリカ人がウィリアム・ジェニングス・ブライアンを「比類なき指導者」として歓呼して迎える気でいた。 そして今や別の数百万人が、彼が「ピース・シップ」でさらしたほとんど信じがたい自己露呈にもかかわらず、ヘンリー・フォードに同じような敬礼を捧げようとしているらしい。 もしソクラテス的批評家が十分な数だけいれば、そうした指導者の追随者たちも、空気の中に鋭く、引き締まり、危険な何かが漂っていることをついには感じ取るだろう。そして、自分たちが甘言で惑わされている理想なるものが本当に何かを意味するのか、少なくとも他人の懐に手を突っ込もうとする欲望を美辞で覆い隠したもの以上の何かなのか、と自問せざるをえなくなるかもしれない。 周知のとおり、悪魔も光の天使に化けることを許されないかぎり、比較的無害な人物にすぎない。 要するに、むき出しの唯物論よりも、偽りの霊性のほうが恐るべきなのだ。 偽りの霊性は、とりわけ区別のぼかしによって助長されるが、そのぼかし自体が一般概念をいじくり回すことによって促進される。 したがって、人が自分の理想主義だと思い込んでいるものが、ただの空疎な精神の膨張にすぎないのか、それとも人間経験の事実に裏づけられているのかを見極めるには、こうした語の弁証法的吟味が不可欠である。 私はすでに、ほとんど人道主義と同義になってしまった「理想主義」という語に、ソクラテス的方法をいくらか適用してみた。 たとえば、功利主義者が「快適」という語を、感傷主義者が「徳」という語を、どのように堕落させてきたかを指摘した。 もっとも理想主義者は、ソクラテス的な枠組みでは救済に不可欠なある要素が欠けていることを私自身が認めたではないか、その要素についてはソクラテスではなくキリストに向き直る必要があるのだ、と反論するかもしれない。そして彼は、キリストの福音を、自分自身の同情と奉仕の福音と同一視しようとするだろう。 人道主義的理想主義が多くの威信を、ひょっとするとその主要な威信を得ているのは、このようにキリスト教と結びついてきたという事実に負うところが大きいのは疑いない。 しかし私は、厳密に心理学的な根拠から、人道主義的奉仕は功利主義的であれ感傷主義的であれ、内面生活の真理を含んでおらず、したがってキリストから正当に導き出すことはできないのだ、ということを示そうとしてきた。 内面生活のこの偉大な師を「向上」の師へと変貌させてしまうことは、もし今なお厳格なキリスト者が残っているなら、彼らには一種の第二の磔刑に見えるに違いない。 神への愛を人への愛で置き換えることで、人道主義者は悪循環に陥っている。というのも、人間のうちに神への愛に匹敵するものがなければ、人間は愛すべき存在ではないからだ。 さらに重要なのは、人は愛するだけでなく、恐れるべきものを正しく恐れねばならない、ということである。 最近パリで、医師たちがかつて聖職者に属していた影響力を奪い取る傾向にあるのはなぜか、という問いが出された。 答えは明白で、かつて人々は神を恐れて生きていたのに、今では微生物を恐れて生きているからである。 「主を畏れることは知恵の初めである」という真理に相当するものを、人道主義の路線でどうやって得られるのか、私には見当がつかない。 おそらく人道主義運動に対処する最良の方法は、イエスのいくつかの言葉を出発点にしつつ、同時にそれらをソクラテス的弁証法で守り、その真の意味を浮かび上がらせることだろう。 というのも、当面の要請は、ソクラテスを捨ててキリストを選ぶことではなく、むしろキリストを支えるためにソクラテスを連れてくることにあるのかもしれない。 人道主義との対照を際立たせるために、霊感に満ち想像力豊かな良識としての彼の言葉を取り出すなら、次のイエスの三つの言葉がとりわけ関係深いと思われる。(1) 「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」 (2)「その実によって彼らを知るであろう。」 (3)家は岩の上に建てるべきである。 私はすでに、この格言の第一を破る例に触れた。すなわち、正義を犠牲にしてでも戦争を廃絶しようとする人道主義的試み、そしてそれと密接に結びついた、平和の君を平和主義の君へと作り替えようとする試みである。 アメリカ人はしばしば、カトリック教会が民主主義の機構を自らの目的のために利用するのではないかと恐れている。そしてカトリックの有権者が多数派を占める地域では、たとえば学校がカトリックに支配されるのではないかという不安は、必ずしも根拠がないとは言い切れない。 ・パピーニは『キリストの生涯』で、ソクラテスを特に攻撃するだけでなく、 批判精神の放棄の上に、自らの見方全体を築いている。 だが最近、天国はワシントンにあるのではなく私たちの内にあるのだ、と同信の人々に思い起こさせる必要を感じたのは、カトリックではなくプロテスタントのほうであった。 プロテスタント諸教会はますます社会奉仕へと傾いているようだが、これは内面生活の真理に代えて、さまざまな大義や運動や改革や十字軍的活動を据えてきた、ということを意味する。 もしW・J・ブライアンが50年早く生まれていたなら、彼はおそらく宗教的リヴァイヴァリストになっていただろう。リヴァイヴァリストの宗教は、当時なお流行していた内面生活の宗教だったのである。 しかし、自由銀運動の十字軍に関連してブライアンが、金の十字架に民衆を磔にするなと抗議したことは、神のものとカエサルのものを異様に甘ったるく取り混ぜているだけでなく、政治行動としては宗教的どころか、平凡な正直ささえ掘り崩しかねないものだった。 率直に向き合うべきは、十字軍的精神がそのいかなる形態においても真にキリスト教的なのか、という問題である。 宣教師精神、すなわち人から人へと訴える純粋に霊的な呼びかけは、疑いなくキリスト教的である。 これに対して私が十字軍的精神と呼ぶのは、世俗秩序の機構を通じて、霊的目的を集団として達成しようとする試みである。 長期的視野で見れば、この問題はフランス人にとってとりわけ関心事であるべきだろう。というのもフランスは、他のどの国にも増して十字軍国家であったからである。 フランスが主導的役割を果たした中世の宗教的十字軍は、ヨーロッパがすでに真のキリスト教を脱ぎ捨てつつあったことを示していたのだ、と言われてきた。 いずれにせよ、この時期のキリスト教と、最初の数世紀のそれとの対照は際立っている。 皇帝が世俗の領分にとどまるかぎりは勇敢に戦う用意がありながら、神として崇拝することは拒み、最後の一人になるまで抵抗せず殉教する道を選んだというテーベ軍団の、多分に伝説的な物語は、初期キリスト教徒の態度を十分に正確に映し出している。 十字軍がエルサレムに初めて入城した際(1099年7月15日)に見られた容赦ない大虐殺は、彼らが霊的秩序と世俗秩序の間にそのような区別を保っていなかったことの十分な証拠である。どちらが、十字軍兵かテーベ軍団の一員か、精神において創始者に近かったかを問う必要はほとんどないように思われる。 神のものとカエサルのものを混同したことで、十字軍兵は、真のキリスト教の核心にある平和への意志を、権力への意志で置き換えてしまう危険にさらされていた。権力への意志の台頭は、人道主義的十字軍者においてはさらに明白であり、私はフランス革命のルソー主義的側面を扱った研究で、そのことを示そうとした。 革命の標語「自由、平等、博愛」は、 それ自体、ただ不吉な言葉の連ねにすぎない。 「闘争本能を聖別することのほうが、それを抑え込むことよりも容易だった……。[十字軍兵は] 一日じゅう殺戮して足首まで血に浸り、日暮れには聖墳墓の祭壇の前にひざまずき、喜びのあまりすすり泣くこともできた――自分は主の葡萄搾り場の赤に染まっているではないか、と。十字軍が人気を博したのも、地上で激しく戦えばあの世へ行け、快楽主義という道で禁欲の果実まで手に入れられることを思えば、容易に理解できる。」(『ブリタニカ百科事典』第11版、アーネスト・バーカー「Crusades」項より) 「第四回十字軍(1202〜04年)では、宗教的動機よりも帝国主義的動機が優勢であることが、とりわけ顕著である。」 フィッツジェームズ・スティーヴンは『自由・平等・博愛』の中でこの定式を徹底的に分析し、同書にはミルの『自由論』への反駁も収められている。 これらの言葉は、個別にも相互関係においても、真に宗教的な意味をもつように定義することは、もちろん可能である。 しかしルソー流に、すなわち「自然」への回帰がもたらすはずの結果の総括として理解されるとき、それらは最も悪質な帝国主義の一形態を助長した。 フランス人自身、革命の「理想主義的」側面(言うまでもなく革命には他の側面もあった)について、ますます疑いを深めつつある。 彼らの気分はより現実的になってきている。重要なのは、こうした種類の理想主義に幻滅したとき、私たちと同様に彼らも、単なるマキャヴェリ的現実主義者になってしまわないことである。 いずれにせよ、フランスはもはや十字軍国家と見なすことはできない。 国内政策でも外交政策でも、どの国よりも十字軍的気質を示すという危険な特権は、アメリカ合衆国に移りつつある。 かつてフランス人が好んだ宗教的十字軍(Gesta Dei per Francos)でさえ正当に疑うことができるのなら、私たちの「社会改良家」たちの活動(Gesta humanitatis per Americanos)をこそ、なおさら疑うべきではないか。 私たちは、社会の利益のためにその犠牲が必要だという理由で、自由を少しずつ奪われつつある。 ※この傾向は、戦前からすでに何人もの観察者が指摘していた。たとえばJ・E・C・ボドリー『フランスにおける理想主義の衰退』(1912年)などである。 私たちに奉仕したがる人々の心理を注意深く見れば、彼らが私たちに仕える以上に、私たちを支配したがっていることが分かるだろう。 たとえば、禁酒十字軍の典型的組織であるアンチ・サルーン・リーグの指導者たちの利他的な言辞の下に見いだされるのは、増大する権力への意志であり、さらには芽生えつつあるテロリズムである。 もう一度、近年のどのアメリカ人よりも、私たちの理想主義を国境の外へ拡張しようとしたウッドロウ・ウィルソン氏のことを考えてみよう。 世界奉仕という構想を追い求めるうちに、彼は自らの権限に対する憲法上の歯止めを軽んじ、ほとんど自動的に無制限の権力へと手を伸ばすようになった。 彼の人道主義的十字軍を深刻に受け取らなければ、私たちは「世界の心を折る」ことになるのだ、と警告された。 もし手ごわいこの旧世界が、ウィルソン流の意味で心など持っていたのなら、とっくの昔に折れていただろう。 真実は、抽象的で感傷的でもあるこの言い回しが、真の政治家とは正反対の気質を露わにしている、ということである。 彼は自分の「理想」を守るうえで、頑として譲らず妥協もしなかった。 その理想とは国際連盟であり、国家規模の権力追求を是正するものとして掲げられながら、実のところ人道主義的な幻想にすぎないのではないかという疑いをかけられている。 その一方で彼は、自由な制度にとって脅威に満ちた支配本能の一形態である労働組合の権力要求(アダムソン法)には、いとも簡単に屈した。真の政治家なら、それに屈するくらいならその場で死んだだろう。 この問題に対するウィルソン氏の向き合い方は、私たちの偉大な伝統に明らかに属していた最後の大統領かもしれないグロヴァー・クリーヴランドが、自由銀の問題に向き合ったやり方と対比すると有益である。 ウィルソン氏や他の「理想主義者」たちが促進した、神のものとカエサルのものとの混同には、私が引用したイエスの第二の言葉(「その実によって彼らを知るべし」)を適用してみる必要がある。理想主義者たちはこの「実」の検証にあまりに明白に失敗しているため、彼らはとくに戦後、ますます善意へと逃げ込んでいる。 皮肉屋は、彼らの善意で地獄の道は少なくとも二重に舗装されている、と不平を言うかもしれない。 人間を扱うにあたって善意だけで十分だとは、強力な爆発物を扱う化学者にとって善意だけで足りると言えないのと同じくらい、到底認められない。 ある条件の下では、人間性そのものが、最も危険な爆発物の一つになりうる。 とりわけ政治的責任ある立場の者は、どんな「理想」であれ、それを自分と事実の鋭い点検との間に割り込ませてはならない。 戦前にこの真の眼差しが見いだされたのは、アスキスやグレイの型の自由主義者よりも、むしろロバーツ卿の型の帝国主義者の側だったことは、あまりにも明らかである。 だからといって、「理想主義者」に対置すべき現実主義が、単なる帝国主義的現実主義である必要はない。完全な道徳的現実主義でありうる。 道徳的現実主義者は、理想の名のもとに、雲上の空想郷へとさらわれることを自分に許さない。 その種の理想が立派な言い回しで着飾っていようと、曲がり角を回る風の口笛ほどにも、彼は耳を貸さない。 したがって理想主義者は、彼を「冷酷だ」と非難するだろう。 しかし彼の冷酷さは、いずれにせよマキャヴェリ的現実主義者のそれとはまったく異なる。 道徳的現実主義者が理想主義者に冷酷に見えるのは、同情や社会正義、その他いかなる理由を掲げようとも、善と悪の闘争を個人から社会へ移し替えることを拒むからである。 道徳的闘争を個人へと戻すなら、私たちはただちに、何らかの形で内面生活の真理の主張へと立ち返ることになる。 今日、正当に提起されるべき問いは、この改革やあの運動が行き詰まっているかどうかではなく、内面生活の代用品としての人道主義的十字軍一般が、行き詰まりつつあるのではないか、ということである。 人道主義の失敗が今以上に明白にならないのは、全く異なる人生観に由来する習慣が、人道主義者自身の中にすら生き残っているからかもしれない。 共同体のエートスは、それを支える確信が掘り崩されたとしても、一日で消え去るものではない。 エートスのこの緩慢な衰退は、ある学説を「実」によって判断することをいっそう難しくする。 その「実」は、しばしば現れるまでに時間がかかるのである。 たとえば、アメリカの教育的伝統を、人道主義的観念のためにこれほど見事に掘り崩した者は、清教徒的規律のきわめて優れた産物であるエリオット学長ほどいない。 彼が大きな影響力を持てたのは、多くの人が威厳があり印象的な人格には敏感である一方、思想の究極的な傾向を量りうる人はごく少ない、という事実に主として負っている。 選択科目制も、エリオット学長のような人物を生み出すと当てにできるのなら、もっと信頼できるのだが。 ※エリオット学長の学説と清教徒の教えの隔たりの大きさを測りたければ、ジョナサン・エドワーズの説教「神的で超自然的な光」(清教徒主義の精髄の一片)と、「アメリカ文明への五つの貢献」とを読み比べるとよい。 伝統的信念が薄れても伝統的習慣はしばらく残るが、いつまでも残り続けるわけではない。 清教徒的エートスのみならず、西欧一般のキリスト教的エートスが次第に弱まるにつれて、人道主義を経験的に正当化することは、ますます困難になるかもしれない。 この運動はベーコン以来、成果(fruits)を掲げ、人間の力、物質的快適さ、有用性に関わるかぎり、実際きわめて豊かな成果を挙げてきた。 しかし同時にそれは、平和や友愛といった霊の果実を与えるとも称してきたが、この点での失敗はあまりに目立つため、何か根本的な不健全さを疑わせる。 ここで私が引用したイエスの第三の言葉、すなわち岩の上に建てることの重要性を説く言葉が問題になってくる。 嵐はすでに来たが、私たちの近代の家がそのように堅固に据えられているかどうかは、はっきりしない。 むしろ私たちが抱く印象は、不安定な基礎の上に、巨大で煌びやかな上部構造が築かれている、というものである。 私たちが見てきたように、新しい倫理の全構造が築かれている土台は、善と悪の重大な闘争は個人の内ではなく社会の中にある、という想定である。 もう一度堅固に築こうとするなら、私たちは何らかの形で「洞窟の内戦」という観念を取り戻さねばならないのかもしれない。 この「戦争」を認めるなら、霊の果実を生み出すためには霊の働きが必要だということも、同時に認めることになるだろう。 この戦争を否定するなら、人はその働きを外的世界へ移すか、あるいは内にも外にも働きを伴わない同情でそれに取って代えることになる。 キケロによれば、倫理学の主要問題の一つは、立派なもの(honestum)と 有用なもの(utile)とのあいだに乖離を生じさせないことである。 彼によれば、これらの語が詭弁的にねじ曲げられていないかぎり、立派なものと有用なものは同一だと分かるはずだという。 しかし本書でこれまで繰り返し述べてきたように、内的な働きより外的な働きを重んじた結果、そのような詭弁化が起こってしまった。 こうして「実りあるもの」は「有用なもの」と同一視され、ついには(狭く教条的な意味で)功利主義的なものと同一視されるに至った。 この問題がキケロの時代よりも深刻になったのは、有用性だけを一面的に追い求めたために、私たち自身が巨大で相互に噛み合う機械装置の塊の中へと巻き込まれてしまったからである。 しかし、霊的生活の確かな基盤を回復するには、「働き(work)」という語そのものの背後にまで遡る必要がある。 この語が詭弁化されたのも、それ以前に「自然(nature)」という語が詭弁化されていたからにほかならない。 ソクラテス的な筋道で人文主義的真理であれ宗教的真理であれ擁護しようとする者にとって、この語こそ最初に注意を向けるべきである。 「自然」という語に十分に鋭い弁証法を適用しさえすれば、と思いたくなることがあるが、そうすれば詭弁家は出鼻をくじかれるだろう。 この語の手品のような扱いは、「立派なこと」と「恥ずべきこと」の区別は自然に根を持たず、単なる慣習にすぎないと言った古代ギリシア人から、「自然は貞節など気にかけない」と言ったルナンに至るまで辿ることができる。 この手品こそ、つねに不健全な個人主義の主要な源泉であった。 18世紀以来はびこり、ロマン主義運動の下敷きになっている「自然なもの」と「人為的なもの」の対比は、とりわけ容認しがたい。 バークの言葉を借りれば、「芸術(技)は人間の自然である」。 私はすでに、霊の法と肢体の法との対立を「人為的だ」として退けたディドロに触れ、この種の詭弁への正しい応答は神学へ逃げ込むことではなく、この対立を「意識の直接与件」の一つとして主張することだ、そうすれば霊の働きをなしその実を結ぶために必要な基盤を経験的に得られるのだ、と述べておいた。 ディドロのような混乱はあまりに重大で、「自然」というただ一語の定義づけだけでも、 世界史上かつて見られなかったほどの、ソクラテス的な筋道に沿う弁証法的な戦いを正当化するだろう。 それが終わったとき、戦場は死屍累々とし、名声は瀕死のものまで厚く覆うに違いない。というのも、現代の指導者の多くが自然主義的誤謬に陥っていることは疑いえないからである。 働きの定義は、それ自体が自然の定義に依存しているが、その働きの定義に応じて、今度は自由の定義が決まる。 人は、怠ける自由ではなく、働く自由を与えられている。 自由を、働きの「程度」だけでなく「質」に照らして正しく定義してはじめて、健全な正義の定義(各人にその業に応じて)も達成できる。 さらに正義の定義は、世俗秩序における平和の定義を含むことになるだろう。人々が互いに平和に暮らせるのは、正しいかぎりにおいてのみだからである。 宗教的平和に関しては、定義の対象にならない。 聖書の言葉で言えば、それは理解を超える。 とりわけ、健全な意志の哲学を打ち立てるには、霊的に不活発なものと霊的に活発なものとの区別を曖昧にしてはならない。 この点は、とりわけアメリカ人にとって特別な関心事であるべきだ。 ヨーロッパ人は、典型的な瞬間には、しかもギリリシア以来ずっと、知性的存在である傾向があった。 これに対して、アメリカがもし独自の哲学を達成するとすれば、それはむしろ意志の哲学になるだろうという徴しがある。 私たちは「行動の民」と呼ばれてきた。 そうした状況のもとで、私たちが全面的に人間的な意味で、あるいは単にルーズヴェルト的な意味で精力的であるべきなのかは、私たち自身にとっても世界の他の人々にとっても、軽視できない問題なのである。 確かに、このような世界では、ルーズヴェルト的帝国主義者のほうが、ジェファソン的あるいはウィルソン的な「理想主義者」より安全な導き手だ、と認めることはできる。 しかし、このジレンマのどちらか一方を受け入れねばならない理由はない。 ジェファソン的理想主義に最も効果的に対処する道は、その根底にある自然権の理論をソクラテス的弁証法にかけることである。 この理論は、先に述べた「自然なもの」と「人為的なもの」との詭弁的対比に依拠しており、その対比は霊の真の二元性と、そこに含まれる働きの特殊な質とを、全面的にせよ部分的にせよ抑圧することを促す。 こうして内面生活が弱まると、怠惰な、あるいは同じことだが無政府的な自由を主張することが可能になる。 というのも真の自由とは、好き勝手にする自由ではなく、何らかの意味で法に自らを適応させる自由だからである。 Anatole Franceはこう言う。「アベ・コワニャールなら、人間とゴリラのあいだに過度で不当な差別を設けているとして、人権宣言の一行たりとも署名しなかっただろう」。 人権宣言への真の異議は、France氏の述べたものとは正反対である。すなわち、それは人間とゴリラのあいだに十分に大きな隔たりを設けていない。 この隔たりは、真の自由が倫理的努力の報酬であると主張するときにのみ保たれ、「自由」を「自然」からの無償の贈り物として提示するときには消え去りがちである。 たしかに、自然権の理論は誤りではあるが「有益な虚構」として正当化できる、そして既存の社会秩序の不正を攻撃する有効な武器であることをしばしば示してきた、と言われるかもしれない。 しかし私は、その虚構の有用性を疑う。というのも、それが既存の秩序に対置しがちなのは、より良い秩序ではなく無秩序だからである。 確かに、「権利」の唱道者が慣習的で人為的だとして退ける、ある特定の時と場所における既成秩序は、真に完全な秩序に比べれば影にすぎない。だが、それがいかなるものにせよ、批判的に吟味すれば断崖の縁の蜃気楼にすぎないかもしれない何らかの「理想」のために、軽々しく放棄してよいものではない。 大ヒューマニストのソポクレスが語る「天の不文律」*は、 成文法との関係において感じ取られるが、 それは権利としてではなく、より厳しい義務としてである。 *『アンティゴネー』(450行以下)の一節は『オイディプス』(863行以下)の一節と結び付けて読まれるべきである。「…最高天にその起源をもつ法、父は天のみであり、死すべき人の種族が生んだのではなく、忘却がそれを眠らせることもない。そのうちには神の力が強く宿り、老いることがない」。 自然権の教説が義務感を弱め、その結果として真の自由を掘り崩す傾向は、英語圏の諸民族のあいだで支配的であったコモン・ローへの影響と関連づけて考察することができる。 この法の精神は、最良のときには健全な道徳的リアリズムのそれである。 「権利」学派の影響のもとで、厳格な法としばしば衝突する衡平(equity)が、いわゆる「自然」の法と多かれ少なかれ同一視されるようになった。 この同一視は、不健全な個人主義を助長した。 不健全な個人主義への正しい処方箋は、健全な個人主義である。すなわち、権利ではなく義務から出発する個人主義だ。 個人の放縦への現実の反動として現れたのは、別の権利論、すなわち社会の権利であり、それはしばしば旧来の「人権」学説と同じくらい形而上学的に構想されている。 この法思想の学派の代表者は、衡平(equity)を社会的効用の原理と同一視しがちである。 社会的に得策だと彼らが見なすもののために法の厳格な文言を執拗にねじ曲げ、立法と司法の機能を真に混同するに至った裁判官すら、すでに現れている。 だが不幸なことに、ある時点の「社会」を代表し奉仕の意志にあふれているはずの人々は、現実主義的な観察者の目には(少なくとも、伝統的な統制の名残がなく、ただの人道主義的十字軍者にすぎないかぎり) 利他主義の隠れ蓑の下で、権力への意志を育てつつあるように映るだろう。 社会的効用を口実に、彼らは個人から自由の最後の一片、痕跡に至るまで奪い去り、ついには専制的な外的統制のもとに従属させる用意がある。 現代のアメリカ人が痛いほど知っているように、個人の自由を攻撃するうえで「奉仕」の使徒ほど無謀な者はいない。 彼は「向上」計画の推進にあたって、個人に対して社会に無制限の主権を帰するだけでなく、その主権の大きな部分を自分が与えられているかのように考えがちで、要するに明白に専制的な気質を育てる。 * ロスコー・パウンド著『コモン・ローの精神』(The Spirit of the Common Law, 1921年)第IV章「人間の権利」を見よ。パウンド教授は、私が言及する第二の傾向、すなわち彼の言う「司法の社会化」への傾向に共感している。彼の見方はドイツのイェーリングのそれと密接に関連しており、イェーリングは集団主義的なベンサムの一種と定義しうる。 実際、私たちは初期キリスト教徒が直面した非常事態を、別の形で目撃しているように思われる。 すでにそうなっているのでなければ、やがて再び、人々が物質主義国家の怪物的な侵害に対して、たとえ命を代償にしてでも真の自由を主張することが正当化される時が来るかもしれない。* * 「個人と家族、結社と依存関係は、主権権力が自己の目的のために消費する材料にすぎなかった。奴隷が主人の手中にあるのと同じように、市民は共同体の手中にあった。最も神聖な義務さえ公益の前に消え失せた。乗客は船のために存在した。私益を顧みず、人民の道徳的福祉と向上を顧みなかったために、ギリシャとローマは諸国民の繁栄を支える生命的要素を破壊し、家族の崩壊と国土の人口減少によって滅びた。彼らが生き残るのは制度においてではなく思想においてであり、その思想、とりわけ統治術に関する思想によって、彼らはなお――死してなお王権の笏を持つ君主として、甕の中から我らの精神を支配し続けるのである。」 「実に、政治社会を掘り崩しているほとんどすべての誤謬――共産主義、功利主義、暴政と権威の混同、無法と自由の混同――は彼らにまで遡って跡づけることができる。」(アクトン卿『自由の歴史その他の論文』17頁。) 集団主義的理想は、それが大いに抗議しているはずのレッセ・フェールの根本的誤謬を、しばしば誇張された形で引きずっている。 それは義務の本性と、義務が課す特殊な努力の型について、十分な感覚を示していない。 労働という観念の扱いが浅薄なために、真の正義の代わりに「社会正義」の幻影的な見世物を置き換えてしまう危険がある。 集団主義者が攻撃する不平等の一部は、たしかにレッセ・フェールが助長した非倫理的競争の結果である。 しかし、それらの不平等への処方箋は、法の前の平等という唯一価値ある平等を犠牲にする危険を冒してまで、社会的・経済的平等といった蜃気楼を追い求めることでは断じてない。 今日追求されている形の平等は、真の自由と両立しない。というのも自由とは、標準(standards)に照らした内面的な働きを含み、言い換えれば人間の通常の意志をより高次の意志に正しく従属させることだからである。 要するに、平等と謙虚さのあいだには避けがたい衝突がある。 歴史的に見れば、謙虚さは多かれ少なかれ知性を犠牲にして確保されてきた。 私自身は、批判的方法によって謙虚さ、ひいては内面生活の真理一般を擁護し得ること、そしてこの意味でソクラテスをキリストに奉仕させ得ることを示そうとしてきた。 いずれにせよ方法の問題は、西洋においてギリシャ・ローマ時代以来さまざまな形で続いてきた、頭脳と心情の対立を癒やすために決定的に重要である。 知性は最終的には意志に従属するとはいえ、伝統的標準からの断絶が徹底しているほど、それに比例して不可欠となる。 そのとき知性は、想像力が達成した統一を現実の観点から検証し、より高次の意志が衝動や拡張的欲望に対して拒否権を行使しうる新たな標準を供給するために必要とされる。 意志と知性と想像力が互いに正しい関係へと整えられると、ついに感情の問題に到達するが、ルソー主義者は誤った即時性への渇望のために、これに第一の地位を与える。 標準(standards)を持つとは、実際には選び取り、退けることである。そしてそれはまた、感情、古い言葉で言えば情愛(affections)を、何らかの倫理的中心に向けて鍛錬しなければならないことを意味する。 鍛錬が実効をもち、人が正しいものを好み、正しくないものを嫌うようになるには、原則としてそれが習慣の問題となり、しかもほとんど幼少期からそうなる必要がある。 子どもがいわゆる理性の年齢に達し、要するに自分で取捨選択できるようになるまで待ってはならない。その間に悪習の犠牲者になってしまうかもしれないからだ。 これこそが、成長する少年の上に閉じかかっている真の牢獄である。 したがって、アリストテレスが言うように、習慣は理性に先立たなければならない。 習慣の観念と密接に結びついた他のいくつかの観念にも、ここで注意を払う必要がある。 共同体のエートス(ethos)は、事実としても語源的にも、習慣に由来する。 共同体が若者に特定の習慣を伝えようとするなら、通常どの習慣が望ましいかについて何らかの合意に至らねばならない。つまりこの語の文字どおりの意味で、一つのコンヴェンション(convention)を成立させねばならない。 ここに、真の自由主義者と偽の自由主義者の主要な違いがある。 近代主義者について、彼らにはただ一つのコンヴェンションしかなく、それは「これ以上いかなるコンヴェンションも存在してはならない」ということだ、と言われてきた。 このように純粋に気質だけの個人主義は、文明の存続と両立しない。 多くの人々において文明的なものとは、まさにその人のうちの慣習的(conventional)な部分である。 たしかに、コンヴェンションを持ちながら単なる因習主義(conventionalism)に堕することなくいるのは難しい。近代主義者はこの二つを混同する。だが、価値あるものは何であれ難しいのである。 コンヴェンションを、個人の自由への適切な尊重と結びつけることは、認めざるをえないが、きわめて繊細な調整を要する。 ほぼ同程度に望ましくない二つの極端がある。第一に、コンヴェンションがあまりに硬直し微細にわたりすぎて、個人の自発的 инициативにほとんど余地を残さないこと。 この形式主義的極端は、西洋の見方が正しいなら、過去の中国で、またルソーが攻撃した旧来のフランスのコンヴェンションでも到達していた。 反対の極には、ルソーが奨励した流儀で自発的であり、コンヴェンションを捨て去ることで標準(standards)まで捨て、印象のただの流れに身を委ねてしまった人間がいる。 標準(standards)の問題は、この無政府的な「自由」に対して健全な一般原理の一組を対置すれば済むだけなら、簡単であろう。 しかし実際の行為に関するかぎり、人生は個別の非常事態の連続に分解され、これらの非常事態や具体的事例と一般原理とのあいだの隔たりを埋めるのは、つねに容易ではない。 少なくとも西洋ではアリストテレス以来、東洋では孔子以来、一般原理の適用においては「尺度の法(law of measure)」によって導かれるべきだと考えられてきた。 この媒介をうまく成し遂げる人は、パスカルの言い回しによれば、相反する徳を自らのうちに併せ持ち、それらのあいだの空間をすべて占めるように見える。 たとえば一般原理としては勇気はすぐれているが、具体的な場合において慎重さによって和らげられなければ、無謀へと堕してしまう。 ボシュエによれば、「善い格言も極端へと押し進められれば、まったく破滅的である」。 (善い格言も度を越せばすべてを失う。) では、善い格言の適用が「中庸」なのか「極端」なのかを、いったい誰が決めるのか。 決疑論者(casuist)や法律主義者なら、一般原理を打ち立てるだけでなく、その適用に際して起こりうるあらゆる事例を網羅的に扱おうとして、できる限り個人から自律を奪おうとするだろう。 しかし事例は尽きない。というのも人生は、ベルクソンの言い方を借りれば、新しいものが絶えず湧き出してくる過程だからである。 変化しない原理と新たな緊急事態とのあいだで、どこに正しい均衡を置くべきかを決めるにあたって、イエズス会的な事例集(あるいはそれに類するもの)は、結局のところ、個人の生きた直観の不器用な代用品にすぎない。 したがってコンヴェンションの必要を主張しつつも、そのコンヴェンションは柔軟に、想像力をもって、いわば漸進的に保持するよう努めるべきである。 何らかのコンヴェンションがなければ、過去の経験を現在に生かすことがどうして可能なのか、見通しが立ちにくい。 既成に従わない人は、自分(あるいは自分の時代)があまりに特異で、こうした過去の経験はすべて時代遅れになったのだ、と前提している。 そしてこの種の幻想は、たしかに自然科学の急速な進歩によって、多くの人のうちで助長されてきた。 東西にこれほど多くの経験が蓄積している以上、標準(standards)を守り、無政府的な印象主義と戦おうとする人々が、一般原理だけでなく、その適用で生じる主要な事例についても一致して結集できそうに思われる。 このコンヴェンションが実効性をもつには、すでに示唆したとおり、若者に対して習慣のかたちで伝えられねばならない。 これは、共同体の文明、ひいてはそれが可能とする統治のあり方が、その共同体が合意した教育の型と密接に結びついている、という別の言い方にすぎない。 (教育には子どもが家庭で受けるしつけも含めるべきである。)「最善の法律も、若者が憲法の精神において習慣と教育によって訓練されなければ、何の役にも立たない」とアリストテレスは言う。 アリストテレスは、自分の時代にこの重大原理が踏みにじられている、と嘆いている。 では、われわれの時代には守られているだろうか。 いずれにせよ、このアリストテレスの命題を、アメリカの教育とアメリカの統治との関係に即して具体的に適用してみるのは興味深いだろう。 連邦的かつ立憲的な民主政を保持したいのだとすれば、われわれは、この政府形態と親密に一致したエートスを備える指導者階級を育てているだろうか。 旧来型のアメリカのカレッジは、その時代のコンヴェンションを十分に忠実に反映していた。 『政治学』1310a。なお同書1337aも参照。 その課程では、指導力の担い手が主として聖職者に置かれることになっていた以上、古典の要素は宗教の要素に適切に従属させられていた。 われわれの旧い教育上のコンヴェンションは、もっと生き生きと解釈し直し、明らかに必要だった広がりを与え、変化した条件に適応させることも可能だったはずである。 しかし新しい教育(もちろん主要な潮流について言うのだが)は、旧い教育からこのようなかたちで発展してきたとは、とても言いがたい。 むしろそれは、われわれの伝統的なエートスとの急進的な断絶を示唆する。 旧い教育は、少なくとも意図においては、知恵と人格のための訓練であった。 新しい教育は、エリオット学長によって「奉仕と力のための訓練」という一句に要約されている。 われわれは皆、この奉仕という観念に、ますます合流しつつある。 しかし奉仕は、ある意味ではコンヴェンションを与えてくれるとしても、人文主義的にも宗教的にも、標準(standards)を与えてはくれない。 現在の語義での奉仕は、むしろ標準(standards)を掘り崩す傾向がある。もし私が示そうとしてきたとおり、それが(厳密に心理学的根拠からは正当化しがたい仮定、すなわち)人々は日常の自己の水準のまま、拡張的に結びつけるのだという仮定を含むのだとすれば、なおさらである。 旧い教育は、人間は何らかの倫理的中心へと鍛えられねばならない、という信念に基づいていた。 感傷的な人道主義者は、そうした人文主義的または宗教的規律を目指す明確なカリキュラムに対して、個人が自分の傾向や気質的な嗜好を自由に伸ばす権利を持ち出して対抗する。 この権利なるものの主張によって、標準、すなわち共通の尺度は損なわれ、それにほぼ比例して、その標準が刺激していた努力と競争(エミュレーション)の精神も消えていく。 curriculumという語そのものが、「共に走る」ことを含意している。 新しい教育体制のもとでは、学生たちは共に走る代わりに、ばらばらにだらだらと過ごしがちである。 関心は教室から運動場へ移り、そこには一種の標準があり、その標準に照らして、人間性が渇望するものがある――真の勝利か真の敗北か、である。 感傷主義者はまた功利主義者にも加勢するが、功利主義者も同様に、そこに照らして努力し、成功と失敗を達成しうる標準を立てる。 このように明確な目的をもつものは、選択科目制のもとにある教養カレッジのように比較的無目的なものに対して、優勢になりがちである。 旧い教育には明確な目的があったのだから、たとえば近頃われわれの教育中心地で不気味な勢いで発達している経営学系の学校と同じ意味で職業教育だったのだ、という、ときに耳にする議論は認められない。 旧い教育は指導者を生み出すことを目指しており、そして指導力の基礎は商業的・工業的な能率ではなく、知恵であると理解していた。 旧来の教養教育に代えて能率崇拝を据えてきた人々は、国家や全人類への奉仕を唱えることにかけては、もちろん口を極めている。 しかし本書を通じて私が提起してきた問題は、人道主義的意味での奉仕のように、これほど純粋に拡張的なものが、非倫理的な力の追求に対する十分な対抗力を与えうるのか、そして真の対抗力は、むしろ生命的統制(vital control)の原理の涵養に、まず個人において、最終的には国家において、求められるべきではないのか、ということである。 統制(コントロール)の原理に対する態度が自由の定義を決める、と私は述べたが、新しい「人間は生来自然に善である」という神話に傾いたジェファソン派は、伝統的な抑制だけでなく、純粋に拡張的な自由を妨げる一切のものを、うさん臭く見たのである。 トーマス・ジェファソン自身も、とりわけ教育に関して、自分の一般的立場が含意するところをある程度は見ていた。 たとえば彼は選択科目制の確かな先駆者の一人である。*ジェファソン派の自由が取って代わりがちだった教育は、自己表現と称される個人の権利を、また効率の名のもとに特殊な適性だけを作り込むことを、ともに制限する標準(standards)を立てていたのであり、要するにそれは感傷的でも功利主義的でもなかった。 このように個人の単なる気質に対して抑制的に働いた旧い教育上の標準と、憲法・上院・最高裁判所といった制度に体現され、民衆の通常の、あるいは衝動的な意志に歯止めをかける旧い政治上の標準とのあいだには、実際の連関がある。 以上の私の議論からすると、新しい教育はアリストテレスの要請を満たしていない。すなわち、われわれの政府形態と親密に対応していないのである。 教育から拒否権(veto power)が消え去るなら、国家においてそれが長く生き残ると期待する理由はない。 指導者たちの精神は、立憲民主政を主宰すべきそれとはならないだろう。 *Herbert B. Adams『Thomas Jefferson and the University of Virginia』(1888年)、とくに第九章(「ヴァージニア大学とハーヴァード・カレッジ」)参照。さらに、1823年7月16日付ジェファソンのジョージ・ティックナー宛書簡も参照。表面上ジェファソンは古典研究に好意的だったが、彼の根底にある哲学的傾向(百科全書的な包括性と専門化の奨励はその症状にすぎない)は、それに不利であった。 われわれの最良の旧世代の政治家たちは、民衆の衝動のただの流れに対して標準(standards)を対置し、その標準が制度に適切に具現化されるよう確保したが、その標準を、何らかの絶対者の理論と結びつけはしなかった。 この点に彼らの賢明さがあった。 標準(standards)の大義と絶対の大義とは、いくら慎重に切り分けても切り分けすぎることはない。 標準(standards)は観察と常識の問題であり、絶対なるものは形而上学的な思いつきにすぎない。 政治思想においてこの思いつきは、無制限の主権をめぐるさまざまな理論を生み出してきた。 その結果によって判断するなら、これらの理論はすべて、ジョン・アダムズによれば「等しく恣意的で、残酷で、血なまぐさく、あらゆる点で悪魔的である」。 そして少なくとも、それらが個人の自由への適切な敬意と両立しがたいことは示しうる。^ さいわいにも、主権(sovereignty)という語は、われわれの憲法には出てこない。 この憲法を作った人々は、ここには一定の限定された権力を、別の場所には別の限定された権力を与え、絶対権力はどこにも置かない、という立場だった。 彼らが構想した最良の統治の仕組みは、抑制と均衡の体系であった。 しかし彼らは、自分たちが付与したそれぞれの限定された権力を、同一の水準にあるものとは見なさなかった。 彼らは、真の自由には序列と従属が必要であり、衝突が起きたとき最終的に訴えうる国家の中心となるものが不可欠だと自覚していた。 実際、連合規約の条文には、結局は戦場で明確にされねばならなかった曖昧さが残された、という不満も述べられている。 「付録B参照。」 だが、もし彼らがもっと明確に書いていたなら、そもそも連合そのものを成立させられなかった可能性が高い。 彼らが直面したのは、世界でもかつてないほど遠心的な学説、すなわち人々に義務よりも権利を優先させる教義に抗して、統治における求心的要素を承認させるという困難な課題だった。 ジョン・マーシャルは、いま築かれつつあった統治形態における最終的な統制の中心は、統制が倫理的根拠をもち単なる力の別名でないためには、司法、とりわけ最高裁判所に帰属しなければならない、と明晰に見抜いた点で特筆に値する。 とりわけ憲法を解釈するという最重要の機能において、この裁判所は国家のより高次の、あるいは恒常的な自己を、他のいかなる制度にも増して体現すべきだと彼は理解していた。 健全で独立した司法、なかんずく健全で独立した最高裁判所があれば、自由と民主主義は結局のところ両立しうるのかもしれない。 個人の自由と、そこからほとんど切り離せない私有財産の安全とが、最高裁判所の命運と密接に結びついていることは、多くの人が知っている。 しかし、われわれの最高法廷に垂れこめる脅威の性質については、彼らの理解はしばしば漠然としている。 われわれはゴンパーズやその同類が裁判所に浴びせる罵詈雑言に慣れているし、急進派の新聞から何が出てくるかも見当がつく。 たとえばカンザス州ジラードで刊行される社会主義の定期刊行物が、五百万部の特別号を組んで連邦司法を攻撃しても、驚きはしない。 しかし、この露骨な敵意よりも深刻かもしれない脅威として、「内側から穴をあける」類のものがある。 この言い回しは、法学部の教授たちが「社会正義」を理由に、法の伝統的な標準(standards)から離れていく現象によく当てはまるように思われる。 こうした「進歩的」教授に念を押しておくべきだが、社会正義とは実際には階級正義を意味し、階級正義は階級闘争を意味し、そして階級闘争は、過去と現在の経験すべてに照らすなら、地獄を意味する。 個人の道徳的責任を掘り崩す傾向があり、同時に標準(standards)と指導の必要を見えにくくする社会正義の不十分さは、統治という問題を最大限に現実主義的に考えてみれば、いっそうはっきりするだろう。 そのように考えるなら、統治とは権力である。 その権力が倫理的か非倫理的か、言い換えれば真の正義に従属しているかどうかは、結局はそれを運用する人々が示す意志の質にかかっている。 実際にものを言うのは抽象的な正義ではなく、正しい人間なのだからである。 正しい人間とは、そのさまざまな能力(知性を含む)が、より高次の意志の主導のもとで互いに正しい関係において働いている者である。 ここでわれわれは「残余(remnant)」の問題へと立ち返る。 外界に正義として反映される内的均衡を求めて努力する者は、いつの時代も少数だった。 「大半の人間は、節度ある生よりも無秩序な生を選ぶ」というアリストテレスの言葉は、少なくともより微妙な心理的意味において、いまなお真実である。 多数派が倫理的に健全でないという点でアリストテレスに同意したとしても、倫理的国家が不可能だということにはならない。 人間性には、これがもっとも心強い特質だが、正しい模範に感応するところがある。 その模範が十分に正しいものでさえあれば、正しい模範の説得力にどこまで限界があるのか、見当をつけるのは難しい。 重要な少数派が倫理的に活力をもち、それによって同時に正しく模範的になっていくような倫理的国家は可能である。 そのような少数派は、連合(union)の問題も解決へと導く傾向があるだろう。 アリストテレスによれば、不正な人間の魂はあらゆる種類の党派性によって引き裂かれている。^ これに対して正しい人間とは、十分な熟慮にもとづく道徳的選択を重ね、その選択において主として自らの幸福への配慮に動かされつつ、下位の人間性の手に負えない衝動を鎮め、こうしてある程度まで自己内の統一に達した者である。 同時に彼は、同様の自己克服の仕事をやり遂げてきた他者たちと、共通の中心へ向かって近づいていく自分を見いだすだろう。 プラトン的意味で「自分のことに専念する」ことによって正しくなった人々に統制される国家は、正しい国家であると同時に、自国のことに専念する国家でもあるだろう;そして他国への奉仕は、商業的理由や「理想主義的」理由で他国の事柄に干渉することによってではなく、良い模範を示すことによって行われる。 この種の国家は、同じく倫理的に統制された別の国家とであれば、相互理解の基盤を見いだしうると望んでよい。 非倫理的な指導に支配された国家との協力を望むのは、幻想にすぎない。 したがって政治的思考の価値は、指導という問題を扱うのにどれだけ十分であるかに正比例する。 最終的にすべてが照らし合わされねばならない単位は、国家でも人類でも、その他いかなる抽象でもなく、人格者である。 「『ニコマコス倫理学』1166b。」 この究極の人間的現実に比べれば、他のあらゆる現実は霧の中の影にすぎない。 私が述べてきたことから言えるのは、倫理的な合一は、個人の内部であれ人と人の間であれ、国民的あるいは国際的規模であれ、可能である限りにおいて、膨張する感情によっても、(今日の意味での)いかなる仕組みや組織によっても達せられず、ただ内面生活の道筋によってのみ達せられる、ということである。 教育の機会があっても霊的に無政府状態のままの者もいれば、少なくとも倫理的規律の初歩を身につける者もおり、さらにごく少数だが、過去の経験に照らすなら、指導者としてふさわしくなるための、より困難な自己克服の段階を成し遂げる能力を示す者もいる。 欠陥は多々あれ、われわれの伝統的教育はこの種の倫理的指導者を生み出すのにいくらか寄与したが、それに取って代わりつつある功利主義的で感傷的な教育は、私が述べようとしてきたように、内面生活の本質を欠いており、宗教的指導者も人文主義的指導者も生み出しそうにない。 現代のアメリカ人の多くは、ただ「奉仕(service)」という言葉を口にしさえすれば、私の言ったことは十分に論破できた、と感じるだろう。 だが、奉仕の福音が人気を得ているのは、それが更生していない人間性をおだてるからではないか、と疑ってよい。 参照:孔子「徳ある人は、素直で誠実な生を送ることによってのみ、世に平和と秩序をもたらす助けとなることができる。」「人がいれば善政は栄えるが、人が去れば善政は衰え、ついには消滅する。」 人類のために何かをしようという熱意さえあれば、畏れと敬い、そして標準(standards)に対する精神の内的服従を免除してよい、と考えるのは心地よい。 ベンジャミン・フランクリンは、平然とこう断言している。「神を礼拝する最高の仕方は、人に奉仕することである。」 もし実験的に示されうるなら, そしてこの点についてはフランクリン以来ある程度の証拠が積み重なってきたのだが, この意味での奉仕だけでは人間の心のむき出しの欲望に鎖をかけるには足りないのだとすれば, アメリカ的な抜け目なさと実際性の最高の典型は いま引用した言葉において、十分に抜け目なく実際的であることを示さなかった、と結論せねばならない。 ともあれ奉仕の福音は、ほかならぬアメリカにおいてこそ、徹底的な試練を受けることになるだろう。 われわれは急速に、人道主義的十字軍の国になりつつある。 現在の法律主義の支配は、この十字軍化のもっとも目に見える帰結である。 しかし、法律の増殖によって放縦への流れは食い止められるどころか、むしろ加速されていることが、いよいよ明らかになりつつある。 われわれが「啓蒙家」や「進歩派」のそれより健全な見通しを育てないなら、この国における自由な制度の歴史は短く、おおむね不名誉なものになるおそれが高い。 まず第一歩は、立憲的自由の代替が法律主義的千年王国なのではなく、無政府の勝利ののちに力の勝利が続くのだと見抜くことである。 偽りの自由主義が広がるにつれて、人口のうち支配的な要素が、投票箱と代表制政府、憲法上の制限と司法的統制に次第にいらだちを募らせ、「直接行動」への熱望を強めるようになる時が来るかもしれない。 いまは帝国主義的指導者にとって、まさに好機である。 いかなる種類の帝国主義的指導者の勝利も災厄であり、ことに法の下の自由の恩恵を知ってきたこの国のようなところではなおさらだが、それでもここにも選択の余地はある。 状況しだいでは、アメリカ版ムッソリーニが現れてくれるだけでも幸運だと思うことになりかねない; 彼はアメリカ版レーニンからわれわれを救うために必要になるかもしれないのだ。 しかしその種の非常事態は、われわれがこれまで以上に、連邦主義的伝統を支える原理からさらに逸脱しないかぎり、予期すべきものではない。 この伝統を維持することは、標準の維持と切っても切り離せない。 民主主義の主張する「誰もが機会を与えられるべきだ」という考えは、誰もが高い標準に達する機会を与えられる、という意味であるかぎり、すぐれている。 だが民主主義的な機会拡大が、逆に標準を下げる口実にされるなら、そのかぎりにおいて民主主義は文明と両立しない。 共和国建国以来続いてきた真の自由主義と偽の自由主義の闘争の結末について、もう少し自信を持てるのは、標準の問題が教育、とりわけ高等教育において、より適切に扱われている場合だろう。 ところがここでの傾向は、先に述べたとおり、「標準」を捨てて「理想」を選ぶことにある; しかも今日の理解でいう理想は、人間が物理的自然の法則とは別の、自らの法に従うよう規律づけられねばならないことを、ほとんど、あるいはまったく認めていない。 もしジョン・デューイ教授の言うとおり、成長する子どもが自発的に奉仕への意志をにじみ出すのだと確信できるなら、この理想主義的展開ももっと平静に眺められるだろう*; しかしこの種の自発性をロマン主義的神話と見るなら、われわれは、デューイ教授とその同類に、総体として国難と言うほかないほどの影響力を教育の場で許してきた、と結論せざるをえない; そしてこの種の理想が進むにつれ、とりわけ高等教育は、真に自由主義的な教養教育の観点から見て、虚空で回転する巨大な機械のうなりのようなものになりかねない危険にさらされている; さらに言えば、自由な制度の実験を守るために、奉仕について語るよりも文化と文明について語ることの多い教育指導者が必要であり、その言葉の用い方によって、それらの真の意味をいくらかでも理解していることを示す者が必要なのである。 私が、標準と指導力の問題が決してアメリカだけの問題ではないことを明らかにしていないのだとすれば、本書は書かれた甲斐がない。 アメリカの状況は、より大きな背景、すなわち西洋全体において、伝統的な標準(人文主義的なものも宗教的なものも)が自然主義にゆっくりと譲り渡されてきた過程を参照してはじめて理解できる。 私は、過去からのこの解放のうえに生じた運動を、その主要な側面においてベーコン主義的、ルソー主義的、マキアヴェリ主義的、つまり功利主義的、感傷的、帝国主義的なものとして定義してきた。 しかし個人主義者は、自分の自由をもっと上手に用いるべきである; 伝統から離れれば離れるほど、標準を積極的かつ批判的に掴み取ろうと努めねばならない。 * 彼の『教育における道徳原理』22頁を見よ; 「子どもは、生まれながらに与え、行い、奉仕しようとする自然な欲求を持っている。」(強調は原文) そのような努力の結果は、私が示そうとしてきたとおり、ソクラテス的・アリストテレス的・キリスト教的と呼ぶのが最もふさわしい運動となり、要するにその各段階で、定義・習慣・謙虚さに第一の重きを置くことになるだろう。 ところが西洋で実際に目にしてきたのは、伝統的標準に代わる批判的等価物を打ち立てられなかった結果として、人道主義的理想主義とマキアヴェリ主義的現実主義とのあいだを激しく振り子のように揺れ動く一連の動きである。 人道主義的理想主義はいまなおこの国に、ことに学界において強固に根を下ろしており、年を追うごとに、ほとんど傲然とすら言いたくなるほど、いっそう自信たっぷりに抱かれているように見える; これに対してヨーロッパ人は、ある種の本質的な幻滅を味わってきた。 彼らにとって、理想主義者が権力への衝動に対する有効な対抗力を見いだしたのだと信じるのは、ますます難しくなっている。 「われわれは大いに負っている」とベーコンは言う、「マキアヴェリその他、人間が何をするかを書き、人間が何をすべきかを書かなかった者たちに。」 人間がすることと、すべきことの隔たりは、中世キリスト教の支配のもとよりも、人道主義的体制のもとでのほうが、いよいよ大きいことが明らかになりつつある。 それでもマキアヴェリ主義的解決は、それ自体として不可能である。 西洋がこの種の現実主義を乗り越えられないなら、異教的な愚行をただ繰り返し、再び異教的破滅へと急ぐだけだろう。 しかも、われわれを脅かしている自然主義的な文明崩壊の後期段階は、科学的「進歩」のおかげで、ほとんど想像を絶する恐怖の出来事によって特徴づけられる可能性が高い。 知恵なき力の危険、増大し続ける物質的組織化と、拡大し続ける精神的無政府状態とが結びつく危険は、すでにあまりに明白であり、真剣に治療策を探さないかぎり、人類に本来的に備わるとされる自己保存の本能は神話だ、と結論してよいほどである。 たしかに第一歩は、毒ガス*や強力爆薬を手にする科学者を、しかるべき従属的な位置に置くことだろう; しかも一片の蒙昧主義もなしに、である。 物理科学が人間性全体を単一の法則の下に収めようとする傾向こそ、現代のもっとも危険な誤謬のいくつかの根底にあることを示しうる; たとえば「科学的」政治という社会主義の夢がそれである。 「こうして社会全体が」とJ・ラムゼイ・マクドナルド氏は言う、「その組織も制度も活動も、自然法の支配のもとに置かれる; 記述的・歴史的側面においてだけでなく、実験的側面においてもそうであり、行政と立法は、化学者が実験室で仕事をするのと同じやり方で追求される技術となる。」 ^ この「物の法則」の法外な持ち上げ方によって、科学者は自分の重要性についてのうぬぼれをくすぐられる。 だが科学者は、科学そのものの利益のために、この見地全体を疑似科学的なものとして退けるべきである; 科学は文明の支えを必要とし、いま文明に対してもっとも大きく(おそらく感情の放縦に次いで)逆らっている力は、疑似科学だからである。 * 戦争中に用いられたどの毒ガスよりも、少なくとも千倍は致死性の高い毒ガスが近ごろ発明された、と、知る立場にあるはずの人々によって述べられている。 • 『社会主義運動』90頁。 マクドナルド氏とその同類は、ほとんど例外なく自分たちを「理想主義者」と見なしている。 これは、今日用いられる意味での理想主義と現実主義という語が、表面的にはいかに激しく衝突して見えようとも、少なくとも一点において共通していることを思い出させる; いずれも自然主義的哲学に根を下ろしているのだ。 この哲学を超える者は、その程度に応じて、人道主義的理想主義者でもマキアヴェリ主義的現実主義者でもなくなる。 その者は、人間を物理的自然から区別する意志の質に気づく; しかもそれは、外的権威の問題ではなく直接の知覚の問題であるという意味で、「自然な」ものでもある。 私は、功利主義者と感傷主義者の双方がこの意志の質をなおざりにしてきたことが、自由の詭弁的定義を助長したと述べた; そしてこの種の自由が訴求力を持ったのは、精神的怠惰を持ち上げたからであり、精神的怠惰とは、おそらく直接観察しうる人間のもっとも根本的な特性なのである。 いったんこの特性を自分自身と他者のうちに見て取り、そのほとんど無数と言ってよい派生のいくつかを追ってみた者なら、「理想主義者」流に古きアダムを見落とす危険はない。 精神的怠惰を捨て、より高次の意志を働かせよという主張は、あらゆる真正の霊的教え、とりわけ真正のキリスト教に見いだされる。 伝統的にキリスト者は、自らの自由と、より高次の意志への信仰とを、恩寵と結びつけてきた。 「主の霊のおられるところに自由がある。」 私自身は、この必要な真理に、恩寵という語ではなく労作という語によって、しかも宗教的というより人文主義的な水準で迫ろうとしてきた。 私は、より高次の意志を確証する他の仕方の妥当性を否定したり、この意志が想像力に対して解釈されてきた伝統的形式を時代遅れとして退けたりするほど、傲慢ではない。 私が試みているのは、読者にいくら強調してもしすぎることのないとおり、特定の問題への寄与である; すなわち、健全な個人主義と不健全な個人主義との区別である。 私の議論が、もし誰かに訴えるとすれば、とりわけ、十分に批判的でない根拠で伝統的形式と決別した結果、より高次の意志の真理そのものを完全に失いかねない危険にある人々に向けてである; そして、徹底的で完全な意味での近代人が最高度に必要とされている時代に、たんなるモダニストにとどまっている人々に向けてである。 終 付録A 意志論 本来なら一冊の書物を要する問題の、より技術的な側面についての覚え書きを、ためらいつつもここに少し付け加えておく。 意志の問題全体は、二元論の問題と切り離せないほど深く結びついている。 私が真の二元論とみなすのは、人間のうちにある二つの意志の対照であり、一つは生の衝動(vital impulse/élan vital)として、もう一つは生の統制(vital control/frein vital)として感じられるものである。 決定的な論点は、より高次の意志との関係において、知性がどこに位置づけられるべきかという点にあるように思われる。 一方では、合理的であろうとすると合理主義に陥りやすく、他方では、信仰を持とうとすると盲信に落ちやすい。 この難しさのキリスト教的形態は、パウロ的な「霊の法」と「肢体の法」との対立に結びついて生じた;霊の法が有効に統制を及ぼすには、キリスト者によれば、多かれ少なかれ神の協力が必要である。 したがって、キリスト者の人間の意志観を知ろうとするなら、その神の意志観を確かめるのが最良の方法である場合が多い。 神の精神(mind)よりも神の意志の優位を最初期に唱えた者の一人は、オリゲネスであった。 しかし、キリスト教的意志主義者のうち最も重要なのは、 聖アウグスティヌスである。 彼は、人間においても神においても意志が第一であることを、心理学的根拠からも神学的根拠からも主張する。 彼が用いる論拠の一つは、ドゥンス・スコトゥスのような後代の意志主義者に影響を与えた。i 聖アウグスティヌスによれば、意志はとりわけ注意、すなわち集中という行為において自らを示す;ゆえに意志は知性に先立つ。というのも、知性が注意を向け、そこから知を得る事実の領域や知覚の秩序を選び取るのは意志だからである。^ * ヴィルヘルム・カールの『Die Lehre vom Primal des Willens bei Auvistinuse, Dune Scotue UTid Descartee』は、この主題全体に関する資料の有用な集成である。 12世紀後半以降のアリストテレスの影響のもとで、ギリシア的知性主義へ回帰し、意志に関するアウグスティヌスの立場を逆転させようとする傾向が生じた。 たとえば聖トマス・アクィナスは、人間の意志に比べて知性により高い尊厳を認めるだけでなく、® 神の意志は神の叡智に従属すると考える。 付け加えるまでもないが、聖トマスは決して純粋な合理主義者ではない:人間の知性は意志より優れているとはいえ、神の意志はそれを無限に超越している。 確かに、啓示に支えられて伝統的に主張されてきた神の意志の働きは、当初から、とりわけより極端な恩寵論と結びついて、人間の理性にとってつまずきの石と感じられていた。 スコラ哲学の中心的関心は、まさにこの意味での信仰と理性の和解にあったと言ってよい。* この大きな努力は聖トマスにおいて頂点に達し、彼の体系では理性と信仰が調和的に協働しているように見える。 彼によれば、神学的真理は理性を超えてはいるが、理性に反するものではない。 後期スコラ学の顕著な特徴は、理性と信仰が再び分離し、和解不可能なものとして現れてくる傾向である。 「実在論者」のドゥンス・スコトゥスは、人間においても神においても「意志は知性に優る」*(Voluntas est superior intelleclu)という命題を展開する。 「唯名論者」のオッカムのウィリアムは、さらに容赦なく、神の意志は絶対的で恣意的だと断言する。 神は正しいからそれを欲するのではなく、神がそれを欲するから正しいのである。 神学は理性に支えを求める望みを持てない。 啓示と教会の権威にもとづいて受け入れねばならない。 * この点や意志に関する他の精緻な心理学的観察については、彼の『De Trinitate』を参照せよ。 ® P. H. ウィクスティードは、知性と意志の関係を示すために、著書『Reactions between Dogma and Philosophy』所収(pp. 682-620)の中で聖トマスからの引用を集めている。 ^ スコラ期における信仰と理性のこの葛藤については、E. ジルソン『La Philosophie ou moyen dpc』(全体として科学的知性主義の立場)を参照せよ;また『History o] Mediceeal Philosophy』(M. de Wulf著、立場はカトリック)も参照。 ‘ ジルソン(前掲書、ii, pp. 83-84)によれば、「ドゥンス・スコトゥスはキリスト教の神の権利を主張し、ヘレニズム思想の汚染に対して本能的にそれを守っている。」ドゥンス・スコトゥスに対するアラビアの影響を考えると、意志の扱いにおいて、アジア的なものがヨーロッパの心理学に対峙している、とさらに言えるかもしれない。 スコラ学のこの最終段階は、一見ほとんど共通点のないさまざまな運動の出発点となる。たとえば、ルター派とジャンセニスト、さらにはベーコンとデカルトの哲学である。 ジャンセニストとルター派は、恩寵を極端に解釈することによって、理性を犠牲にして神の意志を高める。 これに対してデカルトとベーコンは、きわめて異なる仕方ではあるが、自然的秩序において理性をいかに用いうるかに関心を向ける。 彼らは、多かれ少なかれ誠実に、理解不能な神学的秘義と不可分に結びついたものとして宗教を捉え、これに敬意を払い続ける。 近代哲学の父としての地位に照らせば、デカルトの意志観を確かめることはとりわけ重要である。 彼の人間の意志と神の意志に関する考えを、厳密に区別しなければならない。 神の意志について彼は、絶対的で恣意的であるとし、その限りではドゥンス・スコトゥスを想起させる。* しかし彼の究極の気質はキリスト教的意志主義者のそれではない。というのも、彼が何より関心を寄せるのは、現象的自然に対する機械論的法則を打ち立てることだからである。 神の意志に対する彼の態度は二つの点から説明される。第一に、極端な慎重さ、いや臆病さによってである;ガリレオの運命を生々しく念頭に置き、神学者たちとの紛争に巻き込まれることをほとんど病的なほど恐れていた。 第二にジルソンによれば、® 彼自身の機械論的仮説のために目的因を排除したいという欲求に動かされていた。 > ただしジルソンは、デカルトの神の意志観がドゥンス・スコトゥスのそれにどれほど近いかについて、カールと意見を異にしている。著書『La Doctrine cartisienne de la libertS et la (hiologie』pp. 128-49 を参照。 ^ 前掲書、ch. in;また p. 210。 デカルト自身によれば、彼の「Cogito ergo sum」が意味するのは、意識の直接与件から出発すべきだということであった。^ 実際には彼は、より高次の意志を(神学者たちの理解する)神へと事実上追いやり、これらの与件のうち第一の位置を精神ないし理性に与える。 そして彼は、別個の実体として捉えた精神と物質のあいだに、鋭い二元論を打ち立てる。 人間の意志について言えば、デカルトによればそれ自体として無限であり、その点では神の意志を想起させる。^ しかし精査すると、この意志の無限の自由とは、誤る自由にすぎないことが明らかになる。 意志が誤りから逃れうるのは、理性によって規定される限りにおいてだけである。* こうして正しい意志を正しい理性に依存させようとする傾向においても、また彼の実践倫理においても、デカルトはストア派を強く想起させる。 ここでいう「理性」とは、言うまでもなくデカルトにおいて論理的・数学的理性のことである。 意志を規定し、しかも誤りの危険なく従いうるのは、明晰判明な観念だけである。 人間秩序と自然秩序の真理と実在を、いわば数学的に捉えようとする傾向ほど、デカルト体系に顕著なものはない。 同じ傾向の極端な例が、スピノザが『エチカ』に与えた幾何学的形式である。 デカルトは神そのものを「明晰」な観念にして、ほとんど幾何学的に証明しようとする。* こうして彼は、内面生活が依拠する真理は論理的な意味でもその他いかなる意味でも明晰ではない、という人類普遍の経験に反する。 むしろそれらの真理は、捉えどころのない直観に属する。 おそらくデカルトの抽象的推理に対して直観を主張した最初の人物はパスカルであった。 パスカル自身の区別を借りれば、ある一つの真理の秩序は、幾何学の精神ではなく、繊細の精神によってのみ到達されうる。 デカルトの理性主義的な神に対して、彼は「心に感じられる神(Dieu sensible au coeur)」を対置する。 *『哲学原理』第I巻第9節。 *『形而上学的省察』第4省察(「真と偽」について)。* 同前。 * とくに「エリザベト王女への書簡」を参照。 *「…したがって、少なくとも神が…あるいは存在するということは、いかなる幾何学の証明にも劣らず確実である。」(『方法序説』) 「心」とは実際上「恩寵」を意味し、そしてパスカルは、この恩寵を、急速に不可能になりつつあった神学と結びつける。 実際、中世から近代への移行全体で目立つのは、より高次の意志の真理を神学から切り離し、「意識の直接与件」として実験的に扱うことに失敗した点である。 それどころか、ジャンセニストとイエズス会士、カトリックとプロテスタント、さらには各種プロテスタント諸派の相互間における果てしない論争の結果、これらの真理はほとんど信じがたい神学的な精緻の塊に巻き込まれてしまった。 この精緻に対する最終的な返答がヴォルテールであった。 とりわけ重要なのは『哲学辞典』の項目「恩寵」であり、その第三節は次の言葉で結ばれている。「ああ、堕罪前説者よ、堕罪後説者よ、無償の恩寵派よ、十分恩寵派よ、有効恩寵派よ、ジャンセニストよ、モリニストよ、いいかげん人間になれ、これほど馬鹿げて忌まわしい戯言のために、もはや地上をかき乱すな。」 デカルトが、人間のうちで真に超越的なもの、すなわちより高次の意志の代わりに、事実上「理性」を据えたことで、真正の二元論は損なわれ、一元論的展開への道が開かれる。 合理主義的汎神論への傾向は、デカルトの影響を多くの点で示すスピノザにおいて明白である。 スピノザは、精神にいかなる実体的優位も認めないことによって、精神と物質のデカルト的二元論を取り払おうとする。* 人間は自然の中で、帝国の中の別の帝国としてではなく、全体の中の一部分として存在する。 たしかに人間は意志を神の意志に適合させねばならないが、神は「自然」と同一だと宣言される。 この種の同一視をいったん行えば、いかなる数の補助的区別を設けても、たとえば宇宙過程そのものの内部に、natura naturans と natura naturata の形で一種の二元論を立てても、健全な意志論を保ち、汎神論的混同を避けることはできない。 *『エチカ』第II部命題7(注解)を参照。 スピノザが人間に意志の適合を求める神ないし「自然」は、明らかにデカルト型の理性と密接に結びついているので、意志を神または自然に合わせるとは、理性に合わせることに等しい。 スピノザにとって、理性と意志とは実際に同一である。 ^ この点でも他の点でも、スピノザは第一級の近代哲学者のうちで、おそらく誰よりも完全にストア派の立場を復活させている。 スピノザとは別に、デカルトの追随者たちは、普遍的機械論を支持して精神と物質の二元論を抑え込む傾向を示した。 デカルト自身、動物をただの自動機械としか見なかったが、人間も同様に見る誘惑は抗しがたいものとなった。* これと並行して、イギリスの経験論者や功利主義者には、精神が超越的であることを否定し、「知性の中には、以前に感覚の中になかったものは何もない」と主張する傾向があった。 同時に彼らは、人間を自然秩序の上に置く意志の性質を認め損ない、そのため強く自然主義的決定論へと傾く。 意志の自由の否定は、とりわけホッブズとヒュームにおいて徹底している。* デカルトからヒュームに至る哲学の主要な流れは、総合を犠牲にして分析を高め、自発性を機械論に捧げる用意があるように見えた。 とくにヒュームが思い描く世界については、メフィストフェレスの言葉を借りて「残念ながら、精神の絆だけが欠けている!」と言えるだろう。 哲学に統一と自由を回復しようとした者の中で、最も重要なのはイマヌエル・カントである。 意志の問題について彼は、「ヌーメノン的」 領域、すなわち「物自体」の領域においては人間は完全に自由だと主張するが、他の諸現象と並ぶ一つの現象としては、彼自身認めるとおり、人間はヒュームが唱えたのと同じく徹底して決定されている。 すると、生活上の現実の非常事態において、この純粋に「ヌーメノン的」自由がいかなる価値を持つのか、という疑問が生じる。 ハクスリーは、このカント的意志観について次のように評している。「形而上学者は概してユーモアの感覚が著しく欠けている。さもなければ、言葉飾りを剥ぎ取ると、俗人の目には赤裸々なまやかしとしか見えない命題を、臆面もなく持ち出すことなど差し控えるはずだ。」 職業的形而上学者はしばしば、ユーモアの感覚以上に重大な欠如、すなわち常識の欠如をさらけ出す。 この欠如は、ハクスリー自身の意志に対する態度を、たとえばジョンソン博士のそれと比べてみると明らかになる。 ^「Voluntas et intellectus unum et idem sunt.」*(『エチカ』第II部命題49・系)。 『エチカ』第III部命題9(注解)では意志について別の見解が示され、そこではそれが衝動と同一視されているが、これは推測によればホッブズの影響下にあるのかもしれない。* 私は主要な影響を扱っている。ガイリンクスのようなある種のデカルト派は、「機会原因説(Occasionalism)」として知られる学説に関連して、人間が神の意志に依存しているという感覚を発展させたが、それは中世的な謙卑を想起させる。 デカルト派のボールハーフェの弟子であるラ・メトリは、1747年に『人間機械論(L’Homme-machine)』を刊行した。 * ヨゼフ・リカビー神父(S.J.)の『Free Will and Four English Philosophers(Hobbes, Locke, Hume and Mill)』を参照。リカビー神父はもちろん伝統主義者だが、たとえばp.205に見られるように、厳密に心理学的観点から見ても明察に富む所見を述べている。 カントが「Critique of Practical Reason」で展開した「定言命法」についての見解は、常識の観点からすると、とくに反論の余地が大きいように思われる。 定言命法は経験に基づくものではなく、ア・プリオリなものとして構想されている。 それは、宇宙過程(人間の自然的自己を含む)の上に置かれ、その宇宙過程に対して制限的に かつ選択的に作用する意志の、生きた直観ではない。 むしろそれは、個人の幸福* や、彼が適応せねばならない特殊な事情に顧みることなく働く、硬直した形而上学的抽象なのである。 さらにそれは、私がすでに指摘したとおり(p. 226)、行為する意志であって、行為を控える意志ではない。 ’ 彼の『Hume』第x章(末尾)を参照。 シラーはこの観点から、詩「Die Philosophen」(35行以下)で定言命法を風刺的に扱っている。別の箇所(Werke, Goedeke版, 第10巻, p.101)では、カント的理性の「ドラコン的」な厳しさだと彼に思われたものに対して、「美しい魂」の立場を対置する。カント自身も当初は、倫理を感情に基礎づける傾向があった。 しかし1770年ごろ、彼はシャフツベリとその追随者たちを、快楽主義(エピクロス主義)の罪があるとして退けた。 ヤーコプは、定言命法のこの側面を念頭に置いて、こう叫ぶ。「そうだ、私はあの無神論者で神を冒涜する人間だ。死にゆくデズデモーナが嘘をついたように嘘をつき、ピュラデスがオレステスのふりをしたときのように嘘をつき欺き、ティモレオンがしたように殺す、等々。」 したがって、それが自然的人間の拡張的な「欲望」――たとえば支配欲――を、はたして有効に鎮めうるのか、という問いが生じる。 宇宙的理性の表現としての定言命法は、ストア派の理性=意志を想起させる。 しかしストア派が指導原理(to hegemonikon)として掲げた理性は、現実と一体のものとして構想されたのに対し、理性と現実の関係に関するかぎり、「Critique of Pure Reason」の結論は大部分が懐疑的である。 そのためカントは、いくつかの重要な主張を、それ自体として必然的に真であるからではなく、実践理性の要請(ポストゥラート)として肯定するよう私たちに求める。 こうして彼は、ヴァイヒンガーの「Als Ob の哲学」への道を開く。 ヴァイヒンガーによれば、人はそれが真だから意志するのではない。単に、それが「有用な虚構」だから、真であるかのように行為するだけである。 この「As-if」哲学は、またプラグマティストの立場にも近い。 プラグマティストは、真理をすでに存在するものとは考えない。歩みながら真理を作り出すのであり、言い換えれば、日常的自己にとって有用または快いと思われるものを真だとみなす。 その結果、彼は、非人格的な高い基準と、その基準に照らして拡張的欲望に限界を課す倫理的意志の双方を、取り除く方向に傾きやすい。 カント哲学は、ヒュームのような哲学には欠けていた自由と総合的要素を与えるとはいえ、それを抽象的で理性主義的な仕方で与える。 それは、直接性への渇望を満たさない。 この渇望を抱いた人々は、倫理を感情に基礎づけることで、それを満たそうとした。 カントの「Critique of Practical Reason」は、究極の実在である「物自体」が意志ときわめて密接に結びついていることを示唆する。 ショーペンハウアーは、実在と意志の同一視へと実際に踏み込む。 ただし彼が立てる意志は、定言命法とはまったく異なるものだ。^ * p.225参照。想像力の問題との関係でヴァイヒンガー哲学に触れた箇所として、Rousseau and Romanticism, p.370 n. も参照。 2 定言命法に対するショーペンハウアーの攻撃については、『Grundlage der Moral』の最初の9節を見よ。もっとも、ハクスリーが嘲笑した自由と必然の調停は、ショーペンハウアーには、彼の「超越論的美学」と並んで、カントの最も卓越した業績と思われた。 それは、生への意志として構想され、同時に悪の源泉ともされる宇宙的意志である。 ショーペンハウアーは、この宇宙的なnisusに対して、それを統制し、さらにはそれを放棄しうる「より高次の意志」を対置しない。もしそうしていれば、真の二元論に到達しえただろう。 その代わりに彼は、自分のいう意志には、人間と獣に共通するものだけを含めるべきだと明言する。* そして彼は、善意説の倫理に訴えることで真の二元論に相当するものを得ようとし、とりわけ私たちが見たとおり(p.73)、ルソーの自然的憐れみの教説に依拠する。 (注73)ルソーの「自然の憐れみ」の教説へ。 同時にショーペンハウアーは、ときに現実の自然のうちに、憐れみではなく無慈悲な闘争を見る傾向もあり、そうしてダーウィンを先取りする。 ニーチェは、意志に第一性を与える点でショーペンハウアーに従うが、自然的憐れみを否定し、人間における根源的意志は権力への意志だと主張する。 こうして彼は、一方ではホッブズやマキャヴェリ主義者に、他方では進化論者に連なっている。 直接性への渇きを、倫理を本能や衝動に基礎づけることで満たそうとする人々は、その結果生じる「意志」を友愛への意志と捉えようと権力への意志と捉えようと、抑制の要素が根源的であり不可欠だということをそろって否定する。彼らは、「意志」の自由な拡張を妨げるものはすべて、人為的・慣習的だとして退ける。 さらに、本能の統一と自発性を回復しようとする試みは、ふつう別の二元論――人の「心」(衝動的・情緒的自己の意味)と「頭」(分析的知性の意味)との二元論――を含み、 それが統一を破壊し、ワーズワスの言い方を借りれば、物事を「ばらばらに、死んで霊のない断片として」見るよう人を導く。 善意説の倫理を維持するうえでの困難は、ルソーの牧歌的自然に代わって、進化論者のいう「歯と爪を血に染めた」自然が据えられるようになるのと正比例して増大してきた。 * Neue Paralipomena。フイエは、意志に第一性を与えることでショーペンハウアーはデカルトを継承している、と述べているが(Descartes, p.198)、これは要点を重大に取り違えているように思われる。デカルトが神の意志を強調するところに真実があるかぎり、それはキリスト教的意志主義の残存である。 これらの困難は、ハクスリーが意志の問題を扱おうとした試みからも例証できる。 彼は「Evolution and Ethics」(ロマネス講演、1893年)で、文明と宇宙過程とは鋭く相反する、というテーゼを展開する。 したがって人は、社会の利益のために、この過程を超克しようと努めるべきだというのである。 講演は、この反宇宙的な路線に沿った努力と闘争への雄弁な勧告で締めくくられる。 ところが同時にハクスリーは、人間には宇宙過程を超えて、それとは逆方向に動く意志がある、ということを否定する。 彼はヒュームの決定論を無条件に採用する。' そして「人間は、身体的にも知的にも道徳的にも、自然の一部であり、最も卑小な雑草と同じく、純然たる宇宙過程の一部である」と宣言する。 ^ その場合、ニーチェ的結論を避けるには、ルソーや感傷主義者たちのように、自然そのもののうちに何らかの善意の原理を肯定する必要があるように思われる。 しかしそれどころか、ハクスリーは、自然は無慈悲であると、最も妥協のない形で断言する。' 私が引用してきた種類の文章を突き合わせると、P. E.モア氏' が到達した結論、すなわちハクスリーはその主要な傾向において自然主義的ソフィストである、という見解を避けるのは難しい。 ベルクソン、ジェイムズ、クローチェのような近年の哲学者たちも、機械論から逃れる道として超理性的な統一と自発性を主張した旧来の党派と比べて、意志の扱いに本質的な違いがあるとは言い難い。 ベルクソンは、分析的知性は「ブロック宇宙」を打ち立てることにつながるとして、そこから多かれ少なかれ完全に背を向ける「直観」の一型を称揚するが、同時に、彼はelan vitalを優先して、抑制する意志(frein vital)を排除する。 ただし彼は、多くのロマン主義的先人たちとは、すでに述べたとおり(p.17)、 elan vitalを友愛への意志ではなく権力への意志と結びつける点で異なる。 ピッコリ氏は、クローチェの意志観がベルクソンのそれと多くを共有していることを指摘している。^ * Hume, ch. x を見よ。• Works(Eversley版, 第9巻, p.11)。 • Works(Appleton版, 第9巻, p.200)。 「Shelburne Essays」第八巻、193頁以下。* ベネデット・クローチェ、198頁。 もっとも、クローチェはそれほど率直に帝国主義的ではない。 またジェイムズは、ベルクソンの思想と自分が親密に一致すると感じてはいたものの、より古いロマン主義的心理学に近い。 たとえば彼の論考「人間におけるある種の盲目さについて」を考えてみよ。 人は、共通に持つ人間的法則に照らして必死に努力している瞬間に最も人間らしいのではなく、むしろ怠惰で無責任なひとときの空想のうちにこそ最も自分自身であるように見える。* 少なくとも互いのロマン的な夢想に、同情をもって入り込むよう努めるべきだ、というわけである。 一般に、ジェイムズやベルクソンのように、宇宙的過程における新奇の「ほとばしり」によって自由と自発性を証明しようとすると、人々のあいだに真の倫理的共同性の根拠を見いだすことはいっそう切実な難題となる。人が相違を保ったまま、どうやって結びつけるのかが見えにくいのである。 さらに、自然そのものが、知性には予見も定式化もできない生命的変異を生み出すうえで能動的でありうるとしても、「創造的」進化がその人のうちで起こっている当の人間のほうは能動的ではない。真に人間的観点から見れば、彼は受動的で、目的もないままである。 この哲学的潮流全体を世間的に要約すれば、彼はどこへ向かっているのかは知らないが、とにかく道の途中にいることだけは知っている、ということになる。 いずれにせよ、彼が人間に固有の意志の質を発揮できなかった結果として、平和や友愛へ向かっているのではない、という点だけは確かであろう。 私はすでに、現代の二つの学説、すなわち精神分析と行動主義について、少なくとも通俗的解釈においては、人間性における統制の原理を弱体化させ、そのかぎりで文明を瓦解させる傾向があると述べた。 行動主義について、もう一言付け加えておくのがよいだろう。 人間は他の動物と並ぶ一つの動物であり、そのかぎりで実験室的方法の適用を受ける。 1 「人生の休日は、その最も生命的に重要な部分である。なぜなら、それは、あるいは少なくともそうあるべきものとして、まさにこの種の魔術的で無責任な呪縛に覆われているからである。」この見方は、シラーが次のように言うときのそれと関係している(Werke, Goedeke版、x巻、327頁); 「Der Mensch ist nur da ganz Mensch, wo cr spielt.」 * ジェイムズがこの仕方で自由意志を証明しようとした試みについては、A Pluralistic Universe, 391頁注、また Some Problems of Philosophy, 146頁を見よ。 しかし、こうした方法に基づいて行為の完全な説明を打ち立てようとするなら、* 「客観的」でなければならないという口実のもと、人間の行動とカエルの行動とを質的に区別することを拒むなら、その帰結は狂気じみた自然主義である。 行動主義者は、機械論的生命観を、ある種の「意識の直接与件」を否認するところまで押し進めているだけでなく、あらゆるものを刺激と物理的反応へ還元しようと焦るあまり、意識そのものを消し去りかねないところに来ている。 ジョンソン博士の言うとおり、あらゆる経験が意志の自由を証言しているのだとすれば、極端な行動主義者は、きわめて経験的な何ものかに背を向け、理論を選び取っているのだと結論せねばならない。 一般に言えば、職業哲学者たちが唱える意志論についてのこのきわめて不十分な概観は、本書本文で私が試みた、より広い見取り図を裏づけているように思われる。 古い意志の扱いが神学的悪夢へ導いたのだとすれば、より最近の扱いは、あまりにしばしば形而上学的な当惑へと帰結してきた。 全体として、神の意志とその働き方をめぐる宗派間の果てしない争論によって損なわれていた内面生活のある種の真理を、積極的かつ批判的な形で主張することに失敗してきたのである。 * この種の試みとしては、J. B. Watson『行動主義者の立場から見た心理学』(1919年)を見よ。傾向全体の論評については、Mary W. Calkins「真に心理学的な行動主義」(Psychological Review、第28巻、1-18頁)を参照。 付録B 無制限主権 絶対主義への不信と、基準への尊重、そして基準だけが国家にもたらしうる規律とを結び合わせることによって、私が(p. 246)で述べたように、連合主義型の我々の自由主義者たちは、最良の代表をバークとするイギリス政治伝統に近い。 イギリス人の人格的自由への関心の多くは、単に彼のユーモア性(語の古い意味での)、同調や統一的管理への嫌悪の一側面にすぎず、したがってある意味では基準の否定にほかならない、と主張されてきた。 しかし、それは真理のすべてではない。最良のイギリス政治家たちは、真のキリスト教の核心にある自由について何らかの観念に到達しており、いかなる国の政治家よりも、その観念を政治的に有効なものにすることに成功してきた。 人格的自由を愛する者は、イングランドでは、ヨーロッパのさまざまな国でそうであったように、コモン・ローがローマ法に屈しなかったことを、幸いな事情として重んじがちである。 ローマ法が中世および近代世界に及ぼした影響という、かくも広大な主題を論じるだけの力量は私にはないし、また現在の主題はそれを必要としない。 私の目的には、ローマ法に見られる自由の観念は、最良の場合ですらキリスト教的観念に比べてはるかに劣り、ストア派的合理主義を過度に反映しており、またギリシャとローマの政治哲学が総じてそうであるように、個人を国家に対して不当に大きく犠牲にする用意ができている、と指摘すれば十分である。 最悪の場合のローマ法は、もはやローマ的と呼ぶに値せず、むしろビザンツ的である。 ローマ法が「plenitudo potestatis(無制限主権)」すなわち無制限主権という観念にどのような起源を与えているかに注意すべきである。この観念は、後期中世から近代初期にかけての絶対主義者たちに相当の影響を及ぼしたことが示しうる。 「ダイジェスト」によれば、^ lex regiaによって、ローマ人民はその無限の権力を皇帝に譲り渡したのである。 この放棄の理由は熟考に値する。 煽動家たちの扇動によって、ローマ人民は自らを制限することを拒み、同時に、質を犠牲にして得られる種類の平等、そして質がつねに要求する基準への正当な従属を弱める方向へと傾いていった。 現代の民主政が、ただ量的な平等のみを追い求めているかぎり、その運命はこのローマの展開によって前もって示されているように思われる。 遅かれ早かれ、群衆の無責任な専制から解放されるものとして、一人の人間の手への権力集中が救いと感じられる瞬間がやって来る。 いずれにせよ、急進的民主政が、私が「退廃した帝国主義」と呼んだものへと、通常は移り変わっていく過程はこのようなものである。 真に中世的な主権観は、私がlex regiaおよびローマ法と結びつけてきた主権観とは大きく異なる。 キリスト者にとって、主権はローマ法のように人民から来るのではなく、神から来るのであり、その神は第一に理性ではなく意志として考えられる。 恩寵教義の全体的傾向は、この意志を絶対的で無責任なもの、いわば超自然的なbon plaisir(気まぐれ)のように見せることにある。 私はすでに、恩寵教義の歴史的正当化について何か述べたが、誇張なしに、それが西洋文明を救ったと言いうる。 ここで歴史的正当化とは、その教義を「有益な虚構」と見なすべきだという意味ではない。そこにある救いの要素は、その真理にあるのであって、より高次の意志を強調する点にある。 同時に私は、その教義が個人主義者にとって差し出す難題についてもほのめかしてきた。 人間は万物の尺度であるという格言を受け入れることは, そしてあらゆる個人主義者は何らかの形でこの格言を受け入れねばならないが^、意志であれ理性であれ、いかなる絶対にも致命的である。 宗教的意味での絶対かつ無制限の意志は、それを主張した支配者たちが、神的主権者の恩寵を受ける謙虚な受領者としてそうしているのだと公言した場合でさえ、しばしば権力への意志へと逸脱してきた。 神の恣意的な主権への信仰が帝国主義的な帰結を招きがちであることは、王権神授説の歴史だけでなく、教皇権の歴史からも例証できる。 *『書』第1巻4章1節;あわせて『綱要(Institutes)』第1巻2章8節も参照。特定の一つの取引に結びつけて言うかぎり、lex regiaが法律家のフィクションであることはもちろんである。皇帝の手に権力が集中していった過程は、より漸進的であった。 2 この格言が持ちうるさまざまな意味については、拙著『The Maetere of Modem French Criticism』の最終章で論じた*。 第1章で私は、中世の「絶対意志」への信仰から、合理主義という中間期を経て、同じ信仰の別の形態へ移行していく推移を跡づけようとした――要するに、神の主権から人民の主権への移行である。 どの意味であれ「意志」という観点から政治問題を構想する人の優位は、理性が最終的には副次的で道具的なものにすぎないと判明するのに対し、彼がそれと比べてなお生き生きとして根源的なものに立脚している点にある。 この観点からヘーゲルの合理主義的な絶対を考えるのは興味深い。 ヘーゲルによれば、理念(Idea)はさまざまな不完全な歴史的顕現を経たのち、ついにプロイセン国家において完全な受肉を見いだした。 この国家を動かすはずだとされる絶対理性は、実際には、多くの人が認めるように、権力への意志の僕であることを示してきた。 理性と意志の競合する主張は、国際法との関連でも興味深く検討できる。 この領域全体は、いまや空想的だという疑いの目を向けられている。 もしこの疑いが正しいとすれば、説明は二つしかない。国際法が本来属さない理性に優位を与えたか、さもなくば意志の扱いが不当に表層的だったかである。 いわゆる国際法の実証学派の代表者たちは、主権国家が相互関係のなかで展開していく意志を記録することに専ら努めてきた。 だが、この記録がそもそも「法」という名に値するには、ある国や国家連合が特定の国際的危機において示す単なる力、すなわち権力への意志と区別できなければならない。 ここで人は、国際法の盛衰が、中世の神意への依存や、その後の合理主義の支配に取って代わろうとしてきた「新しい意志の教説」と緊密に結びついていることを悟る。 主権者としての人民がどのような質の意志を示しそうかという問いは、ルソーの根底にある「自然の善」のドグマが真か偽かという問いに比べれば従属的である。 このドグマの傾向は、内的統制と外的統制の双方の信用を失わせることにある。 統制が消え去るとき、人民の意志は、人民の衝動という別名にすぎなくなる。 私はすでに、この段階の自然主義的膨張に達した人民に現れるのは、友愛への意志ではなく、権力への意志だという結論に至った。 とりわけ絶対かつ無制限の主権をめぐる諸理論に関連して、西洋の人文主義的・宗教的伝統の中に帝国主義的要素が忍び込んできたことは認めねばならない。 しかし、それらの伝統はそれでもある程度は真実のものであり、ゆえにlibido dominandi(支配欲)に一定の歯止めを与える働きもした。 というのも、真の宗教の核心には平和への意志があり、真の人文主義の核心には正義への意志があるからである。これに対して、私の分析が正しければ、急進的民主政と帝国主義とは本質において同一なのである。 近代運動のもう一つの側面が主権理論とどう関わるかについては、すでにいくらか述べた(296頁以下)。*功利主義者は国家をますます絶対的な仕方で構想する傾向にある。 社会的に有用なもの、すなわち最大多数の最大幸福を促進しようとする際には、国家権力はいかなる制限も受けるべきではない、と彼は感じている。 私が述べたように、功利主義者の根本的誤謬は、「最大の善」や一般に幸福を、快楽という観点、あるいは単なる外的な働きという観点で捉えるところにある。 社会は個人の放縦から自己を守らねばならないが、この必要な権威の主張を抑圧的な極端にまで押し進めないためには、外的な働きだけでなく、健全な個人主義の最終的な源泉である内的な働きにも注意を向ける必要がある。 そうすることは抽象化することではなく、むしろ社会学的な理論づけから離れて、積極的な心理学的観察へと向き直ることである。 *効用と社会的便宜にもとづいて主権理論を打ち立てようとした試みとしておそらく最もよく知られているのは、ジョン・オースティンの『The Province of Jurisprudence Determined』(1832年;第2版、1861年)である。とくに次を見よ 絶対主権の諸理論をこのように手短に概観してみると、本書の題辞の一つとなっているジョン・アダムズの一節が裏づけられるように思われる。 lex regiaから功利主義的・感傷的運動に至るまで、これらの理論は、一連の神学的・形而上学的な思いつきと結びついてきたが、それらは究極的含意において個人の自由を掘り崩すものだった。 私はこの書誌に、本書本文で言及したより重要な著作に加え、何らかの理由で、とりわけ私が論じた主題と関係が深いと思われるものを数点収めた。 アクトン卿:『アクトン卿からメアリー・グラッドストーンへの書簡集』。 1904年。 『自由の歴史(The History of Freedom)』ほかの論集。 1907年。 アルトゥジウス(J.):『Politica methodice digesta』。 1603年。 アリストテレス:『ニコマコス倫理学』。 D. P. チェイス訳。 1847年。(Everyman’s Libraryに再録。) 『政治学』。 B. ジョウェット訳。 1905年。 アーニム(H. von):『Die politischen Theorien des Alterlums(古代の政治理論)』。 1910年。 アトジェ(F.):『Essai sur Vhisloire des doctrines du contrat social(社会契約説の諸学説史試論)』。 1906年。 聖アウグスティヌス:『De Civitate Dei(神の国)』。 編。 E・ホスマン。 2巻。 1898年。M・ドッズ訳。 1897年。 バーカー、E.:『ハーバート・スペンサーから現代までのイングランド政治思想』。 1915年。 『ギリシア政治理論』。 1918年。 ベヴァリッジ、A. J.:『ジョン・マーシャルの生涯』。 4巻。 1916年。 ベヴァリッジ氏は、マーシャルとジェファソンの和解しえない対立を興味深く浮き彫りにしている。 ただし彼は、著作のどこかで、連邦主義者と、帝国主義的傾向を帯びたナショナリストとを、明確に区別しておくべきだった。 マーシャルは、ルーズベルトの先駆者などとは到底言えない。 ボシュエ、J. B.:『聖書から引き出された政治(Politique tirée de l’Écriture sainte)』。 1709年。 ブルジョワ、E.:『外交政策史ハンドブック(Manuel historique de politique étrangère)』。 3巻。 第4版。 1909年。 バーク、E.:『著作集』。 8巻。 (ボーン・ライブラリー版。) 1854〜61年。 『フランス革命についての省察』。 1790年。 『国民議会議員への書簡』。 1791年。 バート、J. B.:『進歩という観念』。 1921年。 カーライル、R. W./A. J.:『中世政治思想史』。 4巻。 1903〜22年。 シャトーブリアン、F. R. de:『革命についての歴史・政治・道徳試論』。 1797年。 『墓の彼方からの回想録』(1848年)。 編。 E・ビレ。 6巻。 1898〜1901年。 孔子:『論語(The Sayings of Confucius/Analects)』。 L・ジャイルズ訳。 1907年。 『修養論(The Conduct of Life)』。 辜鴻銘(クー・ホンミン)訳。 1906年。 これは、一般に『中庸』と呼ばれる儒教の論考である。 辜鴻銘(クー・ホンミン)氏の解釈に従うなら、題名を構成する二つの漢語をさらに字義どおりに訳すと、「普遍的規範」または「中心」となる。 カンバーランド(R.):『De Legibus naturae(自然法について)』。 1672年。 ダンテ・アリギエーリ:De Monarchia。 1310年ごろ。 ムーア編。 ムーア。 1904年。テンプル・クラシックス叢書所収、P・H・ウィクスティード訳。 デデュー(J.)。 『モンテスキューと、フランスにおけるイギリス政治伝統』1909年。 ディールス(H.):『前ソクラテス派断片集』。 全2巻(全3分冊)、第2版、1906〜10年。 デニング(W. A.):『政治理論史』。 全3巻。 1902〜20年。 フェルガソン(W. F.):『ギリシア帝国主義』。 1913年。 フェスター(R.):『ルソーとドイツの歴史哲学』。 1890年。 フィギス(J. N.)。 『ゲルソンからグロティウスまでの政治思想研究』。 1907年。 第2版。 1916年。 神政的ヨーロッパから、広大な領土を持つ大国的国民国家のヨーロッパへと移行する、この最重要期を見事に扱っている。 『王権神授説』。 1914年。 フィルマー(R.):『パトリアルカ(家父長論)、あるいは王の自然権力』。 1680年。(モーリー版ユニヴァーサル・ライブラリーで、ロック『統治二論』と併せて再版。) フランク(T.):『ローマ帝国主義』。 1914年。 フュステル・ド・クーランジュ(N. D.):『古代都市(La Cité antique)』。 1864年。第16版。 1898年。W・スモール訳。 1874年。 エートスと政治形態の関係を示そうとすると、過度に体系的に見えずに済ませるのは難しく、おそらく実際にもそうならざるをえない。 『古代都市』はこの点から厳しく批判されてきた。 しかしC・ベルモントは(『ブリタニカ百科事典』第11版のフュステル項で)それが 参考文献 「おおむね時代遅れになった」と断じるのは行き過ぎである。むしろ、ある重要な点では、ほとんど決定版と言えるほど優れた著作である。 ギールケ(O.):『中世の政治理論』。 F・W・ メイトランドによる翻訳・編集。 1900年。 ヨハネス・アルトゥジウス。 1880年。第3版。 1913年。 自然権や社会契約といった論点に関する、有益な情報集である。 ただしギールケは、アルトゥジウスがルソーに与えた影響をおそらく誇張している。ルソーが彼に言及するのは一度だけだからである(第6巻末の 『山から書かれた手紙』)。 ゴンペルツ(T.):『ギリシアの思想家たち』。 第2版。 全3巻。 1903〜09年。 L・ マグナスおよびG・G・ベリーによる翻訳。 1901〜12年。 グーチ(G・P.):『ドイツとフランス革命』。 1920年。 グロティウス(H.):『戦争と平和の法』。 1625年。ウィーヴェルによる翻訳。 全3巻。 1853年。 ハーンショー(F・J・C.)(編):『中世の偉大な思想家たちの社会・政治思想』。 1923年。 本巻の論文の一つで、アイリーン・パワーは、フィリップ4世(美麗王)に仕えた法律家ピエール・デュ・ボワが、ヨーロッパの平和計画を構想し、それがいくつかの点でシュリーのグラン・デサンを先取りしていたことを指摘している。 この計画はシュリーのそれと同様、実質的にはフランスによるヨーロッパ支配をもたらしたはずである。 ホッブズ(T.):『リヴァイアサン』。 1651年。編 W・G・ポグソン・スミス。 1909年。 フッカー(R.):『教会統治論』。 1592年。(エヴリマンズ・ライブラリー版で再刊。) ヒューム(D.):『人間性論』。 1739〜40年。 (エヴリマンズ・ライブラリー版で再刊。) ジャネ(P.):『政治学史』。 全2巻。 1858年。第4版。 1913年。 ジェファーソン(T.):『著作集』。 全10巻。 編 P・L・フォード。 1892〜99年。 ラスキ(H・J.):『ロックからベンサムまでの政治思想』。 1920年。 レッキー(W・E・H.):『民主主義と自由』。 全2巻。 1896年。 ロック(J.):『統治二論』。 1690年。(モーリー編『ユニヴァーサル・ライブラリー』に再刊。) ルーター(J・ド・):『実定国際法』。 1920年。 マクドナルド(J・R.):『社会主義運動』。 1911年。 マキアヴェッリ(N.):『ヴァレンティーノ公がヴィテロッツォ・ヴィテッリらを殺害した際に用いた方法について』ほか。 1502年。 『君主論』。 1513年。 『カストルッチョ・カストラカーニ伝』。 1520年。 上記3編はいずれもエヴリマン文庫の同一巻に翻訳が収録されている。 メイン卿(H・J・S.):『古代法』。 1861年。(エヴリマン文庫に再刊。) とりわけ第4章「自然法の近代史」を参照。 ド・メーストル(J.):『教皇について』。 1819年。 『サンクトペテルブルク夜話』。 1821年。 「第一の対話」には有名な「死刑執行人の肖像」が含まれる。 マンデヴィル(B.):『蜂の寓話』。 1714年。(本書の核となる詩篇「不平を言う蜂の巣」はもともと1705年に発表された。) 第5版、全2巻。 1728〜29年。 パドヴァのマルシリウス:『平和の擁護者』。 1324年。本文はゴルダスト編『Monarchia S. Imperii Romani』所収。 メリアム(C・E.):『アメリカ政治理論』。 1903年。新訂版。 1920年。 ミシェル(H.):『国家理念』。 1896年。 ミル(J・S.) :『自由論』。 1859年。(エヴリマン文庫では『功利主義論』『代議政治論』の諸論文と併載して再刊。) モンテスキュー(シャルル・ド・スゴンダ、ラ・ブレード男爵):『法の精神』。 1748年。 オリヴァー(F・S.):『アレクサンダー・ハミルトン』(アメリカ連邦統合に関する一試論)。 1907年。 パスカル(B.):『パンセ』および小品集。 編。 L・ブランシュヴィック。 1917年。 プラトン:著作集。 B・ジョウェット訳。 全5巻。 第3版。 1892年。 パウンド(R.):『コモン・ローの精神』、1921年。 『法哲学序説』。 1922年。 パワーズ(H・H.):『諸国民のなかのアメリカ』、1917年。 ルナン(E.):『知的・道徳的改革』。 1871年。 リッチー(D・G.):『自然権』。 1894年。第3版。 1916年。 リッチーによれば、自然権という観念は荒唐無稽であり、健全でない個人主義へと導く。 彼がこの不健全さに対置するのは健全な個人主義ではなく、社会的便宜であり、それ自体が進化論の学説によって絶えず変化する。 本書の有用な特色として、フランスとアメリカにおける18世紀の主要な権利宣言を収めた付録がある。 ルソー(J・J.):『著作全集』。 全13巻。 (アシェット社。) 良質な完全版は存在しない。 『政治論集』。 全2巻。 編。 C・E・ヴォーン。 1915年。 ヴォーンは本文校訂で良い仕事をしている。 しかし序論などの導入部では、たとえば「ルソーは政治的には真のプラトン主義者だ」といった、真剣な検討には耐えない考えを展開している。 ・ サン=ピエール(アベ):『ヨーロッパに恒久平和をもたらすための企画』。 1712〜17年。 ショーペンハウアー(A.):『道徳の基礎』。 1840年。A・B・ブロック訳。 第2版。 1915年。 シュルンベルジェ(E.):『民主主義的帝国主義』。 1907年。 『ロマン主義的悪』。 1908年。 帝国主義の哲学への序論。 1911年。 近代民主主義の霊感における神秘的危険。 1918年。 ニーチェとロマン主義道徳。 1922年。 理性的社会主義へ。 1923年。 セイリエール氏はこの最後の巻を、自身の見解全体の要約として意図している。 彼の哲学を他者が解説したもののうち最良なのは、R・ギルーアンによる『近代史の新しい哲学』(1921年)である。 また、『エルネスト・セイリエールの思想』(フランスの同時代作家による12の研究)も参照。 1923年(巻末に文献目録)。 セイリエール氏は「帝国主義」という語の意味を不当に広げすぎているとして批判されてきた。 より妥当な異議は、彼の「神秘主義」という語の用法に対するものである。 後者の点については、アンリ・ブレモン『フランスにおける宗教感情の文学史』第4巻(1920年)、 566頁注を参照。 シャフツベリ(アンソニー・アシュリー・クーパー、第3代):『人物・風俗・意見・時代の特性』、1711年。 第2版。 1714年。編 J・M・ロバートソン。 1900年。 『生涯、未刊書簡、および哲学的生活規定』。 編 B・ランド。 1900年。 スミス(A.):『道徳感情論』。 1761年。ダグラス・スチュアートによる批判的・伝記的回想を付した第6版、1790年。 (ボーン文庫に再刊。) 『国富論』。 1776年。(エヴリマン・ライブラリーに再刊。) シュペングラー(O.):『西洋の没落』。 2巻。 1919〜22年。 スティーヴン(フィッツジェイムズ):『自由・平等・友愛』。 第2版。 1874年。 タゴール(ラビンドラナート):『ナショナリズム』。 1917年。 トレルチ(E.)。 『アウグスティヌス、キリスト教的古代、そして中世』。 1915年。 ヴィアラット(A.):『経済的帝国主義と、過去半世紀(1870-19**)における国際関係』。 1923年。 ホイットマン(W.):『草の葉』。 1855年。 『民主主義の展望』。 1871年。 ザンタ(L.):『16世紀における懐疑主義の復興』。1914年。